4, 天使と悪魔
「笑いすぎた。アタシでも流石に悪かったって思ってる」
「……別に謝ってもらいたいわけじゃないよ。実際、傍目には愉快だっただろうし、もしアレが他人事だったら、僕も笑い転げていたよ」
そうは言うものの、メノウさんの眉間には不愉快を示す皺が寄っていた。
食事の代金はアザミさんが全部払ってくれた。メノウさんは自分の分くらいは出す、と言ったけど、アザミさんは「二人ともアタシの朝食に付き合わせたようなモンだから」と断った。
「で、教会へ行くんだったっけ?」
アザミさんが訊ねる。メノウさんはしばし顎に手をやり、
「その前に姐さんのところに寄りたい」
と答えた。
アザミさんは曖昧に首を傾げた。
「カモシカの工房か。……遠くないか? 何か急ぎ用か?」
「急ぎって言うか、今なら昼休みで姐さんの手が空いてるんじゃないかと思って。顔出しても会えないんじゃあしょうがないし」
「なるほどネ」
アザミさんは頷き、手首を翻して腕時計を確認した。
「確かに今は昼休みだろうサ。でも、歩いて行くと着く頃には昼休みも終わってるんじゃないか?」
「それは無いだろ。ナメクジじゃあるまいし」
メノウさんの指摘に、アザミさんは鼻を鳴らした。
「じゃあ正直に言うサ。アタシは用もないのにあんな遠くまで歩きたくない。バスを待つか?」
うーん、とメノウさんは私の頭上あたりで視線を行ったり来たりさせ「まぁ、後でいいか」と折れた。
「それより、アザミの気が変わららないうちにさっさと教会へ行こう」
アザミさんが「賢明だナ」と口端をわざとらしく持ち上げ、私の方を向いた。
「でも、アンタもカモシカとは仲良くしておいて損はないよ、掛け値なしにネ。商売柄よく世話になってるってのもあるけど、彼女は、性根の曲がってるアタシやメノウと違って明朗快活で気立てがいいからネ。後でメノウに連れて行ってもらえ」
「その……カモシカさんの工房って、何の工房ですか?」
アザミさんの自虐に笑っていいのか分からなくて、私ははぐらかすようにそう訊ねた。メノウさんは口元を抑えて失笑していた。
「ガラス工房だよ。ウチの標本瓶も全部あそこで作ってもらってる。まぁ、デカい工房だしネ、割と世話になるヤツは多いンじゃないか?」
ガラス工房かぁ。ガラス細工の小物とか、そういうのも作っていたりするのかな。インテリア雑貨も売っているなら、まだ殺風景な私の部屋に飾るのに、一つか二つ買うのもいいかもしれない。
決して目立つ建物ではなかった。薄汚れた外壁に、表面がポロポロと崩れた扉。さほど高さがあるわけでも、極彩色に塗られているわけでも、緻密な装飾が施されているわけでもない。それにもかかわらず、繁華街から離れたひっそりとした静けさの中に佇むその建造物は一際の存在感を放ち、地を這いずり回るより他ない私を威圧した。
無音の圧で破れそうな鼓膜を、中から響くチャーチオルガンの音が微かにくすぐる。
「あれが教会。名前は知らないです。ただ教会とだけ呼ばれています」
立て付けの悪そうな重厚な扉を、メノウさんはぐいと押し開けた。油の切れた蝶番が耳障りな音で啼いた。
メノウさんに続いて教会の中へ足を踏み入れる。チャーチオルガンの演奏が、大きく、はっきりと空気を震わせる。
天井から垂れた燭台を吊るす鎖に電線が巻き付けられ、無造作に固定された電灯が、教会の内装を薄暗く照らしていた。
並べられた長椅子の座面には薄くホコリが積もっている。椅子の間を進んだ正面に教壇はなく、重く物悲しい旋律を奏でるチャーチオルガンと、アッシュブロンドの髪の
オルガン弾きは演奏の手を止めると、そっと立ち上がり私達の方へ振り返った。
十八か、せいぜい二十に見える若い男性だった。白いシャツにダークブラウンのベストを合わせ、飾り気はないが品のある身なりをしている。
彼は仰々しい所作で一礼すると、私達の方へと歩み寄ってきた。
「やぁ、誰かと思えばあなた方ですか。記憶違いでなければ、初めてお会いする方もいらっしゃいますが」
彼の目はメノウさんとアザミさんを撫でた後、私の顔と焦点を合わせた。
「ミカっていいます。先日引っ越して、えっと、どうも、初めまして」
「ご挨拶をどうも、お嬢さん。ぼくは皆にヒタキと呼ばれています」
「オルガン、お上手ですね」
いやいや、とヒタキさんは謙遜するように苦笑して手を横に振った。
「素人が見よう見まねで弾いてるだけですよ。人に聞かせられるような腕はないです」
「演奏家じゃないんですね……じゃあ、調律師とか?」
「オルガンの調律も出来なくはないですが、やはりそれも猿真似です。ぼくの本職はオルゴール職人です。ですがこの場においては、『壊れた悪魔』の管理者、と名乗るのがふさわしいですかね」
ヒタキさんの視線は一瞬、私から離れアザミさんへと向けられた。
「ミカさんは、教会の天使と悪魔の話は、もうご存知ですか?」
「今まさにその話をしようってンで、ここへ連れてきたンだ。でもちょうどいいや、アンタが代わりに話してやってくれよ」
「僕が悪魔の管理を任されたのは、ほんの半年前ですよ?」
「何も洗いざらい話そうってンじゃない、聞かせたいのは所詮御伽噺だ。つい何年か前にここへ来たばかりの余所者より、アンタのほうが詳しいだろ」
ヒタキさんは「ですが……」と何か言い返しかけたものの、アザミさんを一瞥するだけで肩を竦めて溜息を吐いた。
「……わかりました。ここへいらしたということは、ミカさんにはまず、天使と悪魔をお見せするべきですかね」
「そうだナ、ヨロシク頼むよ」
「実在するんですか? 天使とか、悪魔が?」
場違いな素っ頓狂な叫びを上げまいと声を落としたつもりだったけど、変に上ずった私の声は、退色した内壁にビリビリと歪に反響した。
「えぇ。尤も、確かなのは『天使と悪魔』と呼ばれている、ということだけですが。こちらへ来てください」
ヒタキさんは私を教会の中央のドームの真下あたりへ連れてきた。そこに居てください、と言うと、壁際に備え付けられた手回し式のレバーをゆっくりと回し始めた。
「こっちも下ろすか?」
ヒタキさんの向かいの壁の方からアザミさんが問いかける。ヒタキさんは「お願いします」と答え、アザミさんは頷くと、ヒタキさんが回しているものとよく似たレバーに手をかけた。
金属の擦過音と、ギリギリという鎖の軋む音が円蓋から降ってくる。電灯の光の届かない闇の中を、二つの大きな影がゆっくりと降下してくる。
やがて影は私の目の前まで降りてきて、電灯の光の下にその姿形を顕にした。
一つは、無数の歯車を寄せ集めたような三メートルはあるオブジェだった。全体が黒ずんではいるものの、垣間見える黄金色は恐らく真鍮だろう。歯とシャフトが無秩序に絡み合い、この構造物がなんの目的で作られたのか、あるいは芸術作品として造形されたのか、私にその意図を読み取らせることを拒む。だけど……いや、その奇異な外見のせいか、私はその歯車の造形物にかすかな嫌悪と畏怖を覚えた。
もう一つは、歯車のオブジェと同じか、一回り小さいくらいの高さの円筒形の瓶だった。大きさはまるで違うけど、造形はアザミさんの店で見た標本瓶とよく似ている。瓶は透明の液体で満たされ、一糸まとわぬ姿の女性が、胸の前で手を組み、音もなく揺蕩っている。
「これは……」
絶句。言葉は掠れ、埃っぽい空気に押し潰された。
瓶の中の女性は身じろぎ一つせず、肌は紙のように白く、生気はまるで感じない。でも、今この瞬間に瞼を持ち上げ、瓶の中で泳ぎだすんじゃないかとも思える程に、その四肢は滑らかで、美しかった。彼女は死んでいるのではなくただ眠っているだけなのではないか、肢体は刻一刻と朽ちていっているのではなく、瓶の中で時間を止められているだけで、この瓶を叩き割ってしまえば、また心臓は鼓動を始め、乳房は呼吸に脈打つのではないか、そう思えた。
「『死んだ天使』の標本、そう伝えられています。容姿は美しいですが、見ての通り翼が生えているわけでもなく、本当に天使なのかは分かりませんが」
ハンドルを固定し終えたヒタキさんは私の隣まで来ると、そう教えてくれた。
「天使、ですか」
「はい。そしてこの『死んだ天使』と対の、この歯車の塊は『壊れた悪魔』と呼ばれています」
「見た目は、全然悪魔って感じじゃないですね」
ヒタキさんは長椅子に腰掛け、私にも座るように促した。
「この町には、天使と悪魔にまつわる御伽噺が伝わっています。やや長い話になりますので、楽にしてお聞きください」
ヒタキさんは一拍置くと、滔々と語りだした。
***
遠い昔、まだ野山が精霊のもので、森には魔物がのさばっていた頃。この土地はひどく貧しく、作物はおろか草木もろくに育たないような荒れ地でした。
この地に住む人々の暮らしは、日々の食べ物さえままならない有様でした。
ある時、一人の賢人がこの町を訪れました。
人々は賢人にこの地の悲惨さを訴えました。
「ここの畑は、水を撒けどもすぐに涸れ、土に肥やしを混ぜてもすぐに痩せてしまいます。何卒、先生様の知恵をおかしくださいませ」
賢人は答えました。
「それは、この地に住まう精霊が悪さをしているからであろう」
賢人は人々に、小さな祭壇を作らせました。
賢人は祭壇の前に跪き、手を組んで祈りを捧げました。
「おお、この地に御座します精霊よ、我が祈りを聞き届け、その御姿をここに現し給え」
すると、一柱の精霊が祭壇に姿を現しました。
精霊は訊ねました。
「我を呼び出すは汝の仕業か」
「いかにも」と賢人は答えました。
「この地の民は皆、凶作と飢餓に苦しみ喘いでいる。精霊よ、何故、民にかような苦行を課すか」
精霊は言いました。
「大地が荒れるは我の仕業にあらず。悪魔の仕業なり」
「悪魔を追い出すことは敵わぬのか」
「我は大地に根ざし、悪魔は民の心に巣食うものなり。民がある限り、この地より悪魔を追い出すことは出来ぬ」
賢人はしばらく考え、こう言いました。
「私に黄金色の歯車を一山と、拳ほどの大きさの宝石を一つ与え給え。さすれば、悪魔を封じてみせよう」
精霊は賢人の願いを聞き入れ、黄銅の歯車を一山と、大きな赤いを宝石を与えました。
賢人は七日掛けて歯車を組み上げ、宝石を中に隠した、大岩のような機械を作りました。
月の光も見えない真夜中、賢人は機械を祭壇に供え、今度は悪魔を呼び出しました。
悪魔は賢人の前に姿を現し、下卑た笑いを浮かべました。
賢人は悪魔に言いました。
「悪魔よ、私と知恵比べをせぬか?」
悪魔は言いました。
「その知恵比べ、汝が勝つならば何を望む? 我が勝てば、我は何を得る?」
賢人は答えました。
「私は歯車で複雑怪奇な迷宮を作り上げ、内に拳ほどの大きさの宝石を隠した。日が昇り、沈むまでの間にこの迷宮を解き明かすならば、宝石を貴様にくれてやろう。しかし迷宮を解き明かせなくば、二度と民を苦しめる真似をせぬと誓え」
悪魔は大声で笑い「よかろう」と答えました。
やがて空が白み、日が昇るやいなや、悪魔は歯車で出来た機械へ飛び込んで行きました。
悪魔の姿がすっかり機械の中へと消えたのを認めると、賢人は歯車に
そうして一時間もすると、歯車の機械の中から悪魔の声が聞こえてきました。
「宝石を見つけたぞ。どうだ浅はかな人間よ、悔やんでももう遅いぞ」
賢人は無念そうな声色で言いました。
「参った、参った。我の負けだ。その宝石は貴様のものだ」
悪魔はすっかり機嫌が良くなり、鼻歌を歌いながら機械から抜け出ようとしました。
しかし、いくら歯車の間を進めど、出口は一向に見えてきません。
賢人は悪魔が宝石探しに
自分が閉じ込められてしまったことに気づいた悪魔は、賢人を口汚く罵りました。
「この忌々しく、小賢しい猿め、貴様は
「悪魔よ、その手には乗らぬぞ。これでもう、貴様は二度と悪さを出来まい」
賢人はそう言うと、歯車の機械を鎖でぐるぐると縛り上げてしまいました。
こうして悪魔は捕らえられ、土地が荒れることはなくなりました。畑は肥沃な土を湛え、秋には作物が豊かに実るようになり、人々の暮らしには平穏が訪れました。
やがて賢人が年老い、床に伏したまま起き上がることもままならなくなりました。
賢人は人々を集め、こう言いました。
「悪魔は、遅々とではあるが歯車の機械を直し、逃げ出すことを目論んでおる。私が死に、呪いの力が弱まれば悪魔は逃げおおせてしまうだろう」
人々は慄き、賢人に訊ねました。
「どうすれば、悪魔を捕らえ続けることが出来ますか?」
賢人は答えました。
「まずは、歯車の迷宮を決して完全に直させぬこと。月に一度、今から私の伝える通りに悪魔を閉じ込めた機械の歯車を狂わせよ。第二に、私が死んだ後に良からぬことが起きたなら、精霊に祈りを捧げ助けを請うがよい」
数日後に、賢人は息を引き取りました。
人々は賢人を丁寧に弔い、教えられたとおりに月に一度、機械の歯車を弄ることにしました。
賢人が亡くなった後、しばらくの間はそうして何も起こりませんでした。
しかし二年もすると、どういうわけか歯車を弄る役の者が、その仕事を忘れるようになりました。
人々は何度も役の者を窘めましたが、あまりに忘れるので、歯車を弄る役を別の者に代えることにしました。それにもかかわらず、新しく役を任された者もやはり仕事を忘れてしまうようになります。
これは悪魔の仕業に違いないと、人々は賢人の遺言のとおりに、精霊に助けを請うことにしました。
儀式の最中、皆とともに祈りを捧げていた一人の若い娘が突然倒れ込み、すっかり眠り込んでしまいました。
娘は三日三晩微動だにせず眠り続けましたが、四日目の朝、不意に目を覚ましたかと思うと、こう言い出しました。
「この三日間、私は精霊に連れられ、精霊の世界を見聞しておりました」
娘は精霊の世界で、悪魔を封じる術を授けられたと言います。
娘は言いました。
「悪魔は、少しずつ私達の記憶を消し、しまいには何も思い出せなくさせてしまうでしょう。一切誰もが歯車の機械の事を忘れてしまえば、悪魔は悠々と逃げおおせてしまいます。しかし、精霊の力では、私達の頭の中のことまではどうしようもないのです」
「我々に、何も為す術はないのか」
人々は不安げに訊ねました。
娘は答えました。
「私がすっぽりと入るような大きな
人々は娘の言葉に従い、大きな硝子の棺を作りました。
娘は棺の中に体を収めると、こう言いました。
「蓋を閉じれば、精霊が呪いをかけ、私は朽ちることもなく永遠の眠りにつきます。そうして棺の中で私が祈り続ける限り、悪魔は悪事をはたらくことは出来ないでしょう」
「しかし、悪魔の力を完全に封ずることは出来ません。だから、忘れてはならない事、この地で起こる事象の全てを手記として残してください。そしてそれが悪魔に
人々に言葉を伝え終えると終えると、娘は祈りを捧げ目を閉じました。
硝子の棺の蓋を閉めると、棺は一瞬光を放ち、蓋はそれきり開かなくなりました。
人々は教会を建て、悪魔を封じた歯車の機械と、娘の眠る硝子の棺をそこへ納めました。 そして人々は、娘に言われたとおり、ここで起こる出来事の全てを手記に記し、残すことにしました。
こうして悪魔は封ぜられ、この地の人々はついに平穏に暮らすことができるようになったのです。
手記は今なお、この町の誰かによって紡がれ、受け継がれ続けているそうです。
***
ヒタキさんは語り終えると、フッと息を吐いた。
「これが、この町に伝わる御伽噺の、最もオーソドックスなものです。硝子の棺で眠る娘は賢人の実の娘だとか、細部がやや異なる話も伝わっていますがね」
「アタシが最初に師匠に聞かされた話はこれとはかなり違ってたんだけどネ。悪魔は賢人の成れの果てだったり、手記の最初の記述は硝子棺の娘が書いていたり」
「まぁ、変種の存在は御伽噺にはありがちですよ。特に、伝説とすら言えるほど古いものほど。尤も、ただの御伽噺、とまで言い切れないのがこの話なのですが」
ヒタキさんが視線を上げる。視線の先には、歯車の塊と、裸女の揺蕩うガラス瓶がある。
「現に、物語に描かれている、悪魔を閉じ込めた歯車の機械と、硝子棺はこうしてここに存在します。この歯車の塊の中に本当に悪魔が居るのか、なぜこれが祈りを捧げる娘、ではなく『死んだ天使』と呼ばれているのか、とか、いくつかの疑問はありますが」
「昨日の事すら満足に思い出せないような連中がゴロゴロいる町で伝わる御伽噺に、信憑性もクソもないと思うけどネ」
アザミさんは斜に構えた態度でそう吐き捨てたけど、ヒタキさんは気にせず続けた。
「それでもぼくは、この御伽噺をある程度信じていますよ。実際、物語の通り、この歯車の機械は少しずつ修復していっている。だから『壊れた悪魔』の管理者が、勝手に自己修復する歯車を今一度壊し、機械を狂わせなきゃいけない。物語にもあるその役目は、今はぼくの仕事です」
「じゃあ、アンタがサボれは悪魔が出てくるってことになるナ」
アザミさんのヘラヘラとした口調に、ヒタキさんは心なしか顔をムッとしかめた。
「本当に悪魔が出てくるかは分かりませんが、全く無意味にこの役目が受け継がれているとも考えにくいでしょう? あなたの役目もまた」
「アタシがコイツのホルマリンを補充しなきゃならないってのは、御伽噺にはこれっぽっちも出てきやしないけど」
アザミさんはノックするように、ガラス瓶を手の甲で小突いた。
「御伽噺は所詮、御伽噺です。ですが、全くのデタラメということもない、ぼくはそう言いたいだけですよ」
「じゃあ、手記も?」
娘が全てを書き記せと言い残した手記もまた、歯車の機械や天使の標本のように、どこかにちゃんと実在するのだろうか。
ヒタキさんは肩を竦め、首を横に振った。
「どうでしょう。天使も悪魔もこうして存在するのですから、手記も存在すると考えるのはそれほどおかしな推理ではないですが。手記を託された者はそのことを明かしてはならない、ということなので、実際のところどうなのかは、手記を持つ誰か以外に知るすべはないでしょう。ただ、もし手記が存在するのなら、この話が御伽噺か否かもそこに記されているはずです。存在するのであれば、ある意味で手記は、天使と悪魔よりこの町にとって重要な遺物ということになりますね」
「どうだか」
メノウさんが不意に口を開いた。
「手記が存在するとして、未だに最初の冊子に書き足してるなんて事はないでしょ? すっかり書き終えてしまった冊子がちゃんと残されている保証なんてない。ましてやこんな町だ、いつの間にか塵になってしまってることだって十分ありえる」
「メノウ、あなたは手記の存在には否定的ですか?」
「そうじゃない、手記はそんな大層なものじゃないんじゃないかって、それだけだよ」
涼しい顔で目を伏せるメノウさんを、ヒタキさんがじっと睨む。ピリピリと空気が張る。でも、ヒタキさんはすぐに、
「存在も定かでない物についてあれこれ言い合うのはナンセンスですね」
と顔を背けた。
私の方に向き直ったとき、ヒタキさんの顔はわざとらしいほどに柔和だった。
「まぁ、天使と悪魔についてぼくが話せるのはこの程度です。さっきの口振りですと、アザミはこれとは違った話を知っているようですが」
「言うほど大きくは違わないサ。アンタの話の後で続けざまに聞いて楽しいものでもない。興味があるなら話してやるけどナ、気が向いたら」
「じゃあ、それはまたの機会に……ヒタキさん、お話、ありがとうございました」
いえいえ、とヒタキさんは私にニコリと微笑んだ。
私は眼前の二つの大きなオブジェを、今一度見つめた。
天使と悪魔、それと手記。もしアザミさんのお店で話だけ聞かされたのなら、変わった御伽噺だなと思うだけだっただろう。でも、こうして教会が建っていて、歯車の機械と、裸女の標本が存在する。ヒタキさん達には当たり前かもしれないそれは、私にとってはとても奇妙な光景だった。
空想と現実は、分厚く、天に届くほど高い壁によって隔てられている。あるいは、空想とはどこか高いところにその世界を広げているものだ。ずっと、そう思っていた。
でも、空想と現実の境界は思いの外曖昧で、今はそのぼやけた境界線の上に、天使と悪魔が鎮座している。そして多分、天使と悪魔と同じ位置に、この町も存在している。
眼の前に確かに存在するその事実を、私はなぜかうまく嚥下できなかった。何かが喉に引っかかる、それは、私がまだこの町の不可思議な事物に馴染みがないから……だけだろうか。
「天使、か……」
何の気もなしに、私は天使と呼ばれる女性の眠る、その大きな標本瓶のガラスに手を当てた。冷たくて、滑らかで、硬いガラスの触感が指先に伝わる。刹那、
ピシッという小さな音が鳴ったかと思うと、ガラスに白く細い亀裂が張り巡らされた蜘蛛の巣のように無数に走り――
天使の眠る標本瓶が、爆ぜた。
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