1, 錆の町
私は、あいつを殺さなきゃいけない。
電車に乗って、もう何時間経つだろうか。
雨粒で曇った車窓の向こうに見える景色も、すっかり見慣れないものになった。
どこを目指しているという訳でもなかった。計画性などまるでなく、目的だけがただただ、私の黒い心を下品に食い散らかし、リンゴを食べろとそそのかす蛇のようにおぞましく
だから、その駅で電車を降りたことにも、理由らしい理由はなかった。ただ、私の耳元で蛇が囁いたのだ。あいつはここにいるぞ、と。
雨の降りしきるプラットホームに、私は降り立った。ボブカットの髪は重く水を吸って頬に張り付き、濡れた服がジットリと不快な冷たさを体に染み込ませる。
駅名の書かれているはずの看板はペンキも剥げて赤錆に覆い尽くされていて、文字の痕跡すら見て取れない。それはもはや、意味もなく立ち尽くす錆色の板切れでしか無かった。
「ここは……」
自分でも気づかないうちに口をついていた疑問は、文としての形を紡ぐ前に、深い色の雨の中に溶けてしまった。
「っ……」
頭が痛い。鈍く、それでいて針で眼球の裏を突くような不快な痛みが、じわじわと脳を犯す。不定形な意識の輪郭に必死にしがみつき、その一方で何故か、改札へ向かう私の足取りは不気味なまでに正確で淀みなかった。
私が明瞭な意識を回復したのは、既に駅舎を出たあとだった。
雨の降りしきる見知らぬ町に、私は一人放り出された。
ここがどこなのか、それは私にとって大した問題ではなかった。ここにあいつがいるのなら。そしてあいつを……あいつを……。
あいつって……誰だ?
さっきまで確かに覚えていたはずなのに、電車を降りるまでは、吐気がするほどにそれだけを考えていたはずなのに、今は思い出そうとしても、目眩のような頭痛がするばかりで、記憶を辿ることができない。地図を見ながら道に迷うようなもどかしさと不快感に、私の心に巣食った蛇がのたうち回る。
もんどり打つ蛇の首を締め上げ、バラバラに散らかった思考の海からようやくすくい上げられたものは、私は誰かを探していた、という曖昧な記憶だけだった。
私は、誰を探しているのだろう?
何も思い出せなくても、ここがどこなのか分からなくても、黙って雨に打たれ続けることを受け入れる理由にはならない。雨が降れば傘を差すし、傘がなければ、人は軒を求めて走る。
私は、駅舎の正面に佇む建物に飛び込んだ。よく確認してないけど、小奇麗な外観と、道に面して立てられた控えめな看板から、商店か何かだと思われる。雨雫を滴らせて入るのは悪いけど、邪険に扱われることもないだろう。
「すみません、お邪魔します」
店を入って正面に、やや高さのあるカウンターのような木製の机がある。その向こうに、七十は下らないと思われる白髪の老婆がいた。
「いらっしゃい、お客かい?」
老婆が訊ねる。
「あ、えっと、私……すみません……ここは、何屋さんですか?」
老婆はしどろもどろな私の問いには答えず、何かを察したように頷いた。
「ちょっとそこに座って待ってなね。今タオルを持ってくるから」
老婆は机の横にある椅子を指差し、店の奥へと消えていった。
私は椅子に座り一息つき、店内を見渡した。
店内は、白熱球の柔らかい色の光に照らされている。光は、幾度も靴底に踏まれてすり減った板張りの床で不規則に反射し、温かみのある、独特でノスタルジックな雰囲気が周囲に満ちている。壁紙は色褪せてこそいるけどシミひとつなく、古めかしいながら清潔感があった。
そうして内装を眺めているうちに、老婆は真っ白いバスタオルを持って店の奥から引き返してきた。
「これで体を拭きなね。雨に濡れて、外は寒かったろうに」
「ありがとうございます」
手渡されたタオルに顔をうずめると、ほんのりと甘い香りがした。何か花の香りだろうか。
濡れた服はどうしようもないので、髪の水気だけ吸い取り、あとは気休めにタオルを肩にかけた。
私は老婆に向き直り、頭を下げた。
「あの、いきなり飛び込んできて、タオルまで貸していただいて……私、ここが何の店かも知らずに……」
「ここは宿屋だよ。気にしなさんな。ふらりと転がり込んでくる旅人をもてなすのが、わたしの仕事さね」
「旅人……ではないですけど……」
どう見ても旅をする人間の支度ではないな、と私は自分の姿を見て思った。荷物など肩掛けの小さなポシェットに入る程度にしか持たず、この雨の中で差す傘もない。今の私の出で立ちはむしろ、せいぜい散歩の最中か、あるいは家出少女と呼ぶのが適切なように思える。
そして事実、私は旅をしてここに来た訳ではない。
「町の外から来たんだろう?」
戸惑う私に、老婆は訊ねる。
「そう……ですけど」
「なら、今日はうちに泊まればいい」
「いえ、あの、私、人を探してて……だから……」
「でも、誰を探しているのかは思い出せない。違うかい?」
老婆の視線が、心の奥底を覗き見るように鋭く刺さる。私は息を止めたまま、その場に縫い付けられたように動けなくなった。
「……そう身構えなさんな。よくあることさね。外からくるやつはみんなそうだ。みんな、気づくと何かを忘れている」
老婆は机の奥の肘掛椅子に腰掛け、上着のポケットから煙草を取り出した。
「わたしはヤマネコって名前でね。この町で寂れた宿屋と、アンタみたいに外から来たやつにお節介を焼く仕事をやらせてもらってる」
「ヤマネコ……ですか」
あだ名か、あるいは通り名のようなものだろうか。いずれにしても、初対面の人間にまず名乗る名前としては、いささか不自然に思えた。
「外から来たやつは八割方そこに引っかかる。んで私は、毎度同じ言葉を返している。本名なんざもう覚えてないよ、って」
ヤマネコ、と名乗った老婆は、煙草を一服した。口から吐かれた紫煙がゆらりと揺蕩い、暖色の空気と混じり合う。
「この町にいると、自分にとって重要で、大切なものから忘れていく。アンタが誰を探していたのか思い出せなくなったようにね」
ヤマネコさんはクックと声を噛み殺すように笑った。自分が名前すら思い出せないことを自嘲するふうではなく、誰を探していたかすら分からない私を嘲るわけでもなく、幼児の悪巫山戯を面白がるような、ただただ愉快だという裏表のない笑い声だった。
「この町に住む連中は、自分の本当の名前なんかとっくに忘れちまってるのさ。だから、代わりに動物や草木なんかの名前を借りて名乗っている。そうすれば、お互いを呼び合うことに不自由しないからね」
わかりやすいことは良いことさね、と言ってヤマネコさんは煙草を吹かした。
「そういう嬢ちゃん、アンタ、名前は……」
「私は、ミカ……です」
私のそう答える声は、自分でも嫌になるほど自信のなさそうな小声だった。
確かに私には、ミカと呼ばれていた記憶がある。でも、ミカが私の名前なのか、名字なのか、あだ名か、あるいは愛称だったのか、それはもう思い出せなかった。ヤマネコさんが言うように、私の記憶は手のひらをこぼれ落ちる砂の如く、海馬から漏れ出ていっている。
「まだ名前を覚えてるなら上出来だよ。ここに来るなり記憶を全部手放しちまって、途方に暮れるやつも珍しくない。まぁ、途方に暮れようが暮れまいが、こんな町じゃあどうしようもないんだがね」
「そういえば、この町の名前って……」
訊ねつつも、最後まで問いを言い終える前に、答えは既に半分分かっていた。
ヤマネコさんは深く頷き、灰皿に灰を落とした。
「ここの正しい名前も、誰も覚えてない。外のやつらは知っているのかもしれないがね。まぁ、あえて呼ぶのなら、錆の町、そう呼んでるね。ちょうど駅の看板も錆びているし」
「錆、ですか……」
一体、どういう由来で錆の町なのか、まさか彼女の言う通り、駅の看板が錆びているから錆の町、というわけではないだろう。
「由来は知らんよ。昔からずっとそう呼ばれているしね。無理くり理由付けするのなら、この町では何でもすぐ錆びついて、朽ちちまうからじゃないかね。道も、建物も、人も、草木も、なにもかも」
短くなった煙草がもう一度吸えるか悩んだあと、ヤマネコさんは名残惜しそうに火をもみ消した。
「頭も錆びついて、そのうち昔のことは何も思い出せなくなる。それが嫌なら、自分の名前が言えるうちにこの町を出ていくことだね。もう戻っては来れないだろうけど」
「もう戻っては来れない?」
そう聞き返す私の声は、妙に上ずっていた。
「いや、言い方が悪かったね。この町に二度訪れたやつにちょっと心当たりが無いってだけだよ。単に私がそういうやつのことを忘れただけかもしれない」
いかんせんこんな町だしね、と彼女はカラカラ笑った。
私はヤマネコさんの顔と、煙草の吸殻の転がる灰皿を交互に見やった。
まともに考えれば、ヤマネコさんの言う通り、こんな町はさっさと出ていくべきだ。自分の名前すら思い出せなくなって、それでも平然としていられるような感覚は、私にはとても共感できない。現に、既に私は、足場をスカスカの金網に差し替えられたような不安がつま先から徐々に這い登ってくるのを感じている。
でも、私の中の蛇が
不安と焦燥、恐怖と蛇がぐるぐると、私の心の中に渦を巻く。出口のない思考の迷宮に、意識が遠のくような感覚を覚えた。
口の中がカラカラに乾く。舌が、上顎に張り付く。
「一晩……」
私は、声を絞り出した。言い得ぬ不安を押し殺すように、あるいは、蛇にそそのかされるがままに。
「今日一晩、泊めてください。出ていくか、留まるかは、明日決めようと思います」
「……そうかい。まぁ、ゆっくりしていきな」
ヤマネコさんは二本目の煙草に火を点けた。
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