第3話

 桜の木の下に腰かける。いつもは木に登って世間を嘲笑するように景色を俯瞰していたが、今日はそんな汚い心をしまっておこうと思った。だから敢えて、木には登らなかった。

 純粋だった僕は、いつからそんな心を持ったのだろう。

昔はよく、素直だね、とか、けな気だね、とかいう言葉をかけられる対象だった。 けれどいつの間にかそんな心は初めから無かったかのように消えていた。霧のように、音を立てず、スゥっと消えていた。

 冷たい風が吹く。強い。僕の周りの落ち葉を巻き上げる。砂も巻き上げ、痛くて目が開けられない。

 風が収まってゆっくりと目を開けた。足元には今の時期には咲くはずのない桜の花びらが絨毯のように敷かれていた。

 「上も見てよ。」

 ふいに先ほどと同じ声が真上から聞こえた。

 僕の頭上には満開の桜。そしてドサッという音を立てて少女が降りてきた。

彼女は「マフラーお揃いだね。」と笑顔で言って僕のマフラーの裾を軽く引っ張った。

 さっきスクリーン越しに見た少女だった。天真爛漫な雰囲気を体中に巻き付けている彼女は「さっきの続きの話をしようよ。」と言って再び桜の木に登った。

 彼女が上るたびに枝は揺れ、桜の雪を降らせる。

 僕も慣れた足さばきで登った。器用に敷き詰められた桜の花びらが足元に広がっていた。毎年この季節は新学期で憂鬱だから、純粋に桜を楽しむ気になっていなかったのだろう。初めて見た景色だった。絵本の世界みたいだ、と思わず息を飲んだ。

 枝に腰かけて二人で話していると、彼女もこの場所に登ったことがある、と言った。日常のミニチュアを見ているみたいで好きだ、と景色を見ながら言う。

 「小さな小さな誰かの幸せを切り取って見てると、私も幸せな気分になるんだ。」

 彼女は足をブラブラさせて茶色いローファーがブランコのように動く。

 あ!あの家族の夕飯はカレーかな?!材料が見える!!と言ってスーパーの袋を持ったお母さんらしき人とその人と手をつなぐ小さな女の子を指さした。

 彼女は片手を木から離してバランスを崩しそうになる。僕はふふっ、と笑った。

 笑顔で僕に話しかける彼女を見ていると、僕は暖かくなった。心の季節が冬から春に変わり、僕の分厚い氷を溶かしていた。

 氷はやがて川に流れる。僕はいつの間にか自分から話を振るようになっていた。

 「僕は君のようになれたらいいのに。いつも誰かと比較して、人の幸せを素直に喜べなくなって、ここから景色を見ていると、僕がいなくたって何ら変わらない、って思ってしまうよ。」

 情けないね、と言って彼女に笑いかける。素直な笑顔が表れたのはいつぶりだろうか。

 僕は、話すことに対するハードルが下がって、自分のことを話した。

 勉強、絵、運動、音楽。何をやるにも中途半端なことを話した。僕はそのことが一番胸に突っかかっていたのかもしれない。誰かに聞いてほしかったのか、彼女が人の話を引き出す力を持っていたのかはわからないが、話し出すと全て吐き出したくなった。

 僕はずば抜けて何かができる、というものを持ち合わせていない。勉強はできないわけではないができるわけでもなく、絵は下手なわけではないが上手くない。運動はできないわけではないが、上手い子が他にいるとボールが回ってこなかったり、都合をつけて補欠に回されたりする。そんな感じだ。

 僕は美しい桜とはきれいなコントラストを描く醜い話を吐いた。僕も昔は“文を書く”、という特技を持っていた。作文はクラスで選ばれるし、書いた小説もクラスで評判になった。

 けれど今はそうじゃない。書きたくても筆が止まる。つかもうとした言葉は握力をかけると靄のように手の隙間から抜け、言の葉は存在自体が無かったように知らん顔で僕を見る。

 書きたい。書きたいのに書けない。伝えたい。伝えたいのに伝えられない。胃の内容物がなくなって、吐きたいのに苦い胃酸しか込み上げてこない感覚に襲われる。これ以上吐いてはいけないような不安に縛られる。こんな自分が嫌だ、大嫌いだ、と。僕は不甲斐ない自分を責める。

 彼女は時々興味を持ったり、飽きて落ちる花びらを捕まえようとしたりしながらも、最後まで黙って相槌を打ちながら聞いてくれた。

 そして一言、

 「おなかすいた。」と言った。僕に向けた笑顔は世界中のすべての幸せを独り占めしたかのような抱擁感のある笑みだった。

 突拍子もない彼女の一言に、僕は少し驚いたけれど、「そうだね」と言って、二人で近くのコンビニまで歩いた。彼女なりの慰めだったのだろう。

 僕の体は軽い。表情は明るい。

 並んで歩いて気付いたことだけれど、彼女は僕より少し背が低い。小さな足にはまったローファーがカツンカツンとアスファルトで音を奏でる。

 彼女は僕が考えていることに気づいたのか、時々違うリズムを足で鳴らし、そのたび僕の顔を覗き込んだ。

 僕は彼女の奏でるリズムに合わせて、裏拍を刻んでやった。僕たちは足音で会話をした。言葉に出さなくても何かが心に伝わってくる感じがした。

 時々見せる、彼女の少し企んだ表情は僕の鬱憤までも溶かし、僕に春を感じさせた。

 僕は彼女に恋をした。

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