吸血鬼とアンドロイド

阿部ひづめ

吸血鬼とアンドロイド

 そらぞらしい宇宙の色が、金属製のボゥルに満たされていた。たまむしいろに光るのは石油だ。軽油だ。

 愛子はボゥルを両手でかかえた。桃色の小さな唇が、中身をがぶりがぶりと飲んだ。

 一滴もこぼさずに飲み干して、機械的なまばたきをした。

 ダイニングテーブルに新聞を広げていた男は「北海道で爆発ですって!」と、悲劇的な口ぶりで言った。


「ねえ、愛子さん。爆発ですよ、いやですねぇ、これだから人間は愚かな。正直であるってことを、すっかり忘れてしまったんでしょうか」


 男の手元には、チェック柄のマグカップが置かれていた。中は、真っ赤な液体でにごっていた。

 彼はマグカップを丁寧に口元にはこんで「ねえ、愛子さん」と、もう一度呼んだ。

 血を飲みおえた唇は、口紅をぬったように鮮やかだった。この血は、昨日彼が献血車から密かに盗んできたものだった。O型の輸血パックを400ミリリットル。


「かわいそうな話」と、愛子は言った。


「なんですか、かわいそうって」

 男は怒りで鼻のあなを丸くひろげた。

「うそをつく輩にかわいそうなんて言葉は似合いませんよ。よくてはりつけ、よくて串刺し」


 彼の脳みそは、中世から抜け出せていないのだ、と愛子は思った。

 14世紀か15世紀か知らないが、彼の思考回路は、あの時代から進化することを辞めてしまったのだろう。


 男は見事な金髪をオールバックにして、包帯を目に巻いていた。ずいぶん昔に焼夷弾で目を焼いたので、モノが見えないのだ。

 ではどうやって新聞を読んでいるのか、と聞くと、音によって視覚を得ているそうだ。蝙蝠のように自分の発する音の反射を聞いて、それで形を判別するのだそうだ。

 そんな不可思議な風体をしている割に灰色のスウェットを着ているものだから、愛子は笑ってしまうのだった。

 今は一月某日、日曜日だった。

 仕事が休みの日は、こうやって二人してリビングに縮こまるのが常だ。


 愛子はボゥルを雑巾でぬぐったあと、キッチンの下に置いた。石油と軽油を一対一で混ぜたものが、彼女の朝食だった。

 そのあと、棚からマイナスドライバーを取り出して、右ひざの螺子を巻いた。一昨日の晩から調子が悪く、昨日工場で仕事をしていたときも、途中で嫌あな感じがした。

 愛子は車整備の仕事をしているが、立ちっぱなしを辛く思ったことはない。ただ、おいしそうな鉄くずや廃棄部品を見逃すのだけが口惜しかった。


「わたしがやりましょう」と、男が近寄ってきたので、愛子は「いい」とすげなく返した。


「どうしてですか。わたしのほうが、ずっとうまくできますよ」


「手が汚れている」


 彼は、その良く利く鼻で、くんくんと自分の右手をかいだ。

 そして「失敬」と、手を洗いに消えた。




 愛子が男と出会ったのは、かれこれ1年前の話だった。

 彼女は、廃棄場に捨てられていた。

 世界の上位1パーセント未満のみが知る、モラル下位1パーセントの娯楽。それが愛子だった。

 完全自立型の鉄の心臓を埋めこまれたのは、かくも平和な東の島国の僻地だった。

 隠遁生活を送る老人の世話役として、都内の屋敷で暮らした。


 愛子が「人生」というものを知ったのは、老人が死んだときだった。人が死ぬと知ったのも、そのときだった。

 それまでは、彼女の作り物の皮膚をなでる、かさついた手は、生まれつきなのだと思っていた。その皮膚が若々しいハリを持っていた時代を知らなかった。


 年齢と命という荷物をかかえて、人間様というのは生きているようだ。


 愛子は、老人の盛大な葬式に集まった群衆をながめて、そう考えた。


 彼女は、廃棄処分ということになった。

 老人の甥っ子が、引き取りたいと申し出たそうだが、他の親族が醜聞を恐れたために、それは却下された。

 そういうわけで、愛子は心臓が動き始めてから3年と5ヶ月と2週間と2日と11時間47分後、郊外にある廃棄材処理場に運びこまれた。


 よく空の晴れた、春の日だった。

 愛子は、温度を感じる設計のボディで良かったのか悪かったのか考えこんだ。

 これから、ごうごうと燃える炎に焼かれることを思うと、それは文句を言うべき事柄に思えた。


 彼女は親族たちが去ったあと、くずごみのフリをしていた。周囲は壊れたホイールや、家の鉄骨を裂いたものなんかが、しっちゃかめっちゃかに積まれていた。

 愛子は、工場の人間にばれないようにバラバラに分解してあった。しかし頭部だけは、きちんと形を残して四角い箱に入れてあった。


 ことが起きたのは、その日の夜だった。


「うひゃあ」と、間抜けな悲鳴が聞こえた。


 なにかに蹴飛ばされたのか、箱が開いて愛子の頭部が転げ落ちた。それから彼女の耳元で、ちゅるちゅるとなにかをすする音が聞こえた。

 愛子はすぐ目の前で、雪のように白い肌をした青年が、工場長の首にかじりついているのを見た。

 そして、これは吸血鬼ではないか、とひらめいた。

 愛子は無知だったが、その存在については知っていた。

 老人は愛子を買うくらいには風変りな人物だったから、書斎に世界各国の奇術奇習に関する書物がずらりと並んでいた。吸血鬼も、それらの書籍から知った生物だった。


 工場長は意識を失っていた。顔色が酒に赤らんだ色から、土気色になる手前で、吸血鬼は口を離した。

 夜の闇を背中にしょって、彼はおしゃれだった。質のよさそうなトレンチコートを着ていて、片腕にコンビニの袋を提げていた。中には、栄養ドリンクの缶が詰まっていた。

 吸血鬼は、口元をハンカチでぬぐうと、袋を工場長の足元においた。

 そして、あくびをしてから、愛子の存在に気づいた。


「あわわわわ」と、吸血鬼はマンガのような声をあげた。

 あんまりにも驚きすぎて、ひっくりかえり、廃棄材に頭からつっこんだ。

 すぐさま顔をあげたが、無残なくらいあちこちに、金属の破片が刺さっていた。しかし、彼が破片を無造作に抜き取ると、その傷はすぐに消えた。

 吸血鬼は、愛子の首を怯えたように見つめた。


「く、首だ」


「そうだが」


 愛子が口をひらくと、彼は大きな悲鳴をあげた。


「化物だ! だれか助けて!」


 吸血鬼は泡をくって立ち上がり、両手をふったが、工場には失神した工場長のほかには、事務所で居眠りをしている職員が二人しかいなかった。

 悲しいくらい静かだったので、愛子は、

「なにをしているんだ、こんなところで」と、たずねた。


 吸血鬼は警戒しながら「ご飯を食べていたんです」と答えた。

 もともと饒舌な性質なのか、いったん話し出すと止まらなかった。


「最近物騒でしょう。ここらも田舎ですけれど、街なんかに出ますとね、ガラの悪い輩に絡まれますので。わざわざ車をひとっ走りさせて、この辺で食事をするのがマイブームなんです」


「おまえは吸血鬼なのか」


「違いますよ。鬼なんかじゃないです」


 愛子は面白かった。老人以外とこうして話すのは初めてだった。


「だが重行の本には、そう書いてあったぞ。血を吸う怪物のことを、吸血鬼と呼ぶんだ」


 重行とは、老人のことだった。


「一般的にはそう呼ばれますが」

 吸血鬼は、憤懣ふんまん耐えかねるという様子だった。

「血を吸うのは、わたしたちが生きているからです。あなたたち人間だって、そうでしょう。命を吸って生きているでしょう」


 彼はそうは言ったものの、口を利いている生首は、どうあがいても人間ではないと気づいて、顔をしかめた。


「あなたは、なぜそこで首だけになっているんですか。趣味なんですか?」


「これから廃棄材として処分される予定だからだ」


 吸血鬼は、あんぐりと口を開いた。


「なぜ処分されるんです」


「重行が死んだからだ」


「その人が死んだからって、あなたが死ぬ必要はないでしょう」


 愛子はたしかにそうだ、と思った。だが、彼女にはどうしようもなかった。


「わたしは人間ではないし生きていないから、死ぬこともないんだろう」


 吸血鬼は、不可思議そうに首をかしげた。


「そうかもしれませんが」


 おもむろに白い手が伸びてきて、愛子を持ち上げた。

 彼女はそのとき、吸血鬼の目元に包帯が巻かれていると気づいた。

 どうやってモノを見ているのか不思議に思った彼女だったが、その唇の美しさにハッとして、疑問は飛んでいってしまった。

 老人のしわがれたヒルのような唇しか知らなかったから、その鮮やかな真紅の唇は、秘匿された深海生物の蠱惑をもって、彼女を魅了したのだった。


「人間にしか生きている権利がないのなら、そうしたらわたしだって生きていないことになってしまいますよ。こうやって、話して考えているのに」


「そりゃあ吸血鬼は鬼だから、生きているんだろうさ。人間じゃなくても」


「機械だって生きているでしょうよ。人間じゃなくても」


 愛子は、吸血鬼の言っている意味が分からなかった。そう言われると、そんな気もした。

 ただ吸血鬼が、自分を哀れに思ってくれたことは分かった。

 彼は地面に一旦は置いた袋から栄養ドリンクを出すと、愛子の首を中につっこんで、彼女の解体されたパーツを必死に集め始めたのだった。




「うそをつくのは、どうしていけないんだ」


 愛子は、ひざのネジを巻いてもらいながら、そう質問した。

 吸血鬼は腕まくりをして、妙にやる気満々でドライバーを回していた。


「そりゃあいけないでしょう。意味がないですもの」


 彼はあきれかえったように言った。


「意味がないことは、しちゃあいけないんです。特に人間なんて寿命があるでしょう。うそをついている暇なんて、本当はないはずなんですよ」


 愛子は「ふーん」とうなずいてから、膝の調子をたしかめた。

 話したりなかったのか、彼は「愛子さんはうそ、つかないでしょう」と、たずねてきた。


「そりゃあ、わたしが、うそついたってしかたがない」


「わたしもそうですよ。うそをつくのは、辛くてみじめで悪魔的なことです。人間は、そういう所業を日常的に行おうとするから、寿命を与えられたんですね。命に限界があれば、そんな馬鹿なことをする暇はないって気づく聡明さも、いつか現れますから」


 吸血鬼は人間が嫌いであった。

 愛子は、それをこの一年間でよく承知していたが、同時に彼が一日に何度も人間を馬鹿にするので、もしかすると、本当のところは人間が好きなのかもしれないと考えていた。


 愛子は人間が好きだった。

 自分は彼らの模倣物だ、と心底身に染みていたからかもしれない。

 それとも、主人である老人が、とても優しく面白い人間だったからかもしれない。

 今となって、彼女は、あの老人が教えてくれた文化や物語を思いだして、なつかしくなるのだ。

 その影は、この吸血鬼にも、ときおり宿ることがあったので、彼女は困惑した。


 たとえば本屋に立ち寄ると、吸血鬼は吸血鬼らしくなくなった。人間のふりがうまかった。

 買い物の帰りに紀伊国屋なんかに行って、都会にしては妙に静かな本棚のすきまを歩いていくと、彼は目を皿のようにして、文庫本を読んでいた。

 吸血鬼は、人前では黒いサングラスをかけていた。だから、なんだか人間みたいに見えるのだ。


「なあ」と、愛子が声をかけると、青年は夢の世界から耳をすませて、彼女の居場所に気づいた。そして、ほほえみを浮かべて「この本を買いましょう」と、レジに向かった。

 逆のこともあった。

 外に出るようになって、愛子は雑誌を読むことを覚えた。コンビニの店先で暇つぶしにめくっていると、買い物を終えた吸血鬼が、横にするりと近づいてきて、一緒に美しい立ち姿のモデルを見た。

 そういうとき、彼がぽつりぽつりとこぼす言葉は、自分が人間であるかのように、愛子に思わせた。

「ああ、こういう服が似合いますよ」だとか「これはだめですね」などと言うのだ。




 日曜日の昼は、ふたりで外に出かけた。

 愛子と吸血鬼は、おそろいの、中身はそれぞれに異なる水筒を持っていた。

 公園のベンチにすわって、おだかやな空のうつろいを眺めていた。


 愛子は急に恐ろしくなった。

 手がガタガタと震え、水筒から石油がこぼれた。

 吸血鬼はびっくりして「どうしましたか」と、聞いた。


 彼女は、おろおろしながら「どうしようか」と、たずねた。


「終わりが来るかもしれない」


「終わり?」


「こうやって、まるで人間であるかのように嘘をつきつづけていたら、本当にいつかは人間になって、それで終わりが来るかもしれない」


 彼女は、すっかりそう信じこんでしまった。

 廃棄処分されるとき感じなかった不安が、いまさら彼女を襲っていた。

 吸血鬼は嬉しそうに笑った。

 爽快な冬の空に、よく響く声だった。


「それなら、それでいいじゃないですか」


「よくないよ」

 愛子は、かぶりを振った。

「終わりがくるんだぞ。死ぬんだぞ」


「死ぬならそれでもいいじゃないですか」


「よくないよ」


 もう一度、彼女は言った。どうして彼が、そんなに落ちついていられるのか不思議だった。


「終わりがくることを怖がるなら、君は本当にうそなんてつかなくなったんです」


 青年の太陽に映える白い手のひらが、愛子の髪を優しくなでた。


「うそつき卒業、おめでとう」


 愛子は、水筒の中に入った水あめの塊を舐めて、くすんくすんと泣いた。

 終わることが、怖かった。

 年老いていくのが、怖かった。

 この青年と離れ離れになるのが、身を削られそうになるくらい怖かった。


 青年は愛子の頭を抱き寄せると、よしよしとなぐさめた。

 少女を拾ったときの、命を弄ばれたことへの怒りも、膝をすりむいて帰ってきた彼女の目に宿る動揺も、今は全て胸のうちに隠し、泣き続けるぬくもりを抱きしめていた。


 この可愛い女の子がすてきに年をとって、すてきに死ぬ風景を、見えない目で想像して、彼はほほえむのだ。

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吸血鬼とアンドロイド 阿部ひづめ @abehidume

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