不必要なピンク


 小道の向こう側も、ビルが建ちならぶ坂道だった。三分ほど歩いて、山田は小さなマンションの前で足を止めた。

 まさか、ここが彼の自宅なのだろうか。ナオコは予想だにしなかった方法で、彼の家を知ってしまったことに、奇妙な気持ちになった。


「あの、どうするつもりなんですか?」と、ようやくたずねる。


「必要な投資をする」


 山田はしらっと答えて、玄関をくぐった。ナオコは顔をしかめた。答えになっていない回答である。しかたがないので、黙ってついていくことにした。チャンスを棒に振りたくはなかったのだ。本人と一緒に侵入することになるとは思ってもみなかったが、尾行の成果としては、まずまずだ。


 エスカレーターに乗りこんで、ちらりと山田を観察する。なにを考えているのか、まるで分からない。だが横に居ると、不思議と落ちついた。一カ月前まではバディだったのだから、それはそうだろう。ナオコは、そう自分を納得させた。


 山田は二階で降りて、202号室の前で足を止めた。表札に「山田」と掲げられている。ナオコは妙に感動した。本当にこの場所に住んでいるのだ。

 彼はジャケットの内ポケットからキーリングをとりだし、扉を開けた。


「入れ」と告げ、ふりかえりもせずに部屋へ入っていく。


 あらためて、こんなに簡単に侵入してもいいものだろうか、と思いつつ、

「お邪魔します」と声をかけて、敷居をまたぐ。


「うわっ」


 思わずナオコは声をあげた。202号室の中は、嵐が訪れたような惨状だった。たたきには、割れた花瓶が散らばっている。廊下には、服や本が散らばり、あげくには小さなコンポがひしゃげて落ちている始末だ。

 山田は舌打ちをして、靴のまま部屋にあがった。そしてリビングの扉を開け、肩をすくめた。


「やられたな」


「や、やられた?」


 山田が「靴は脱ぐな」と言ったので、ナオコは恐る恐る土足で中に入り、リビングをのぞきこんだ。中は、しっちゃかめっちゃか、という言葉そのものだ。テレビの画面にヒビが入っており、ソファはひっくり返っている。カーテンは引き裂かれ、レールからぶら下がっている。

 ナオコは、そこで察した。


「もしかして、彼女さんと同棲してました?」


 見るも無残な姿になってはいたが、部屋は女性らしい内装に思えた。棚の前に散らばった細々とした髪飾りやアクセサリー、壁に飾られた洒落た写真、ソファは白く、絨毯は淡い緑色だ。妙齢の女性の気配が、ぷんぷんとただよっている。


「どうせい」と、山田は知らない言葉のようにつぶやいた。


「ああ、まあ、一応そうか」


「え、そんな」


 もしかすると本当に強盗に遭ったのでは、とナオコは青ざめた。しかし山田の次の言葉で、心配は吹き飛んだ。


「もう一カ月も帰っていなかったから、そういう設定だったことを忘れていた」


 ナオコは耳を疑った。


「まあ構わん。この様子だと物は盗られていなさそうだしな……こっちに」


 何事もなかったような顔で別の部屋に行こうとしたので、ナオコは「いやいやいや」と芸人のように突っこみをいれざるをえなかった。


 ――――なにを言ったんだ、この男は。


 ナオコは信じられないといった表情で、山田に詰めよった。


「山田さん。彼女さんと同棲していて、一カ月も家に帰らなかったんですか!? そのあいだ、なにしていたんですか」


 山田はきょとんとした。


「なにって、仕事だが」


「休みがあったでしょう? そのときに、家に帰らないんですか」


「帰ることもあるが、帰らないこともある。第一、ほかにも行く場所はあるしな」


 真顔でそう返すので、ナオコはめまいがした。


「それって、ほかの女性のところってことですか……?」


 山田はその言葉で、彼女が言いたいことを掴んだらしい。我が意を得たり、という顔でうなずいた。


「誤解しているようだから言っておくと、ここに住んでいた女性は、交際していた人物ではない。むこうが勝手に押しかけてきただけだ。だから、不貞だなんだとわめくな」


「ええ……なんでお付きあいすらしていない人と、同棲なんてしているんですか」


 宇宙人にでも会っているような気持ちだ。山田が珍しく困ったような顔で「さあ?」と、首をかしげるので、

「さあ、じゃないでしょう!」と思わずさけぶ。


「つまり、こういうことですよね? 付きあっていない女性と同棲していたあげく、一カ月も帰らなかったから、その人怒って出ていっちゃったっていう」


 すると、山田はぐるりと部屋を見渡して、

「この様子から見ると、すでにここでは暮らしてはいないだろうな」と、つぶやいた。


「さ、最低」


 ナオコはカルチャーショックを受けていた。まさかここまで、女性の心をなんとも思っていない人間がいるとは想像もしなかった。

 山田は「なにが最低なんだ」と、白けたようにたずねた。


「むこうが勝手に俺の家にやってきて、勝手に去っていっただけだ。器物破損で訴える気もないし、ずいぶん優しいほうだと思うが」


「だってその人、山田さんのことが好きだから同棲していたんでしょう?」


「……君はなにを怒っているんだ?」


 心底意味がわからないという風に、ナオコにたずねる。


「それは、彼女さんの気持ちになって怒っているんです!」


 ナオコはこぶしを握りしめて、彼をにらみあげた。たしかに関係のないことだったが、去って行った彼女の気持ち、そして山田の態度をみていると、一言申さずにはいられない。


「好きな人に、そんな態度取っちゃダメですよ」


 部屋が、しんと静まりかえった。

 山田は、突然外国語で話しかけられたかのような反応を示した。「すき?」とくりかえし、不思議そうに首をひねる。

 ナオコは、予想外の反応に焦りながら口をひらいた。


「だって同棲していたってことは、お付きあいしていなくても、山田さんだってその人のことが少なからず好きだったんでしょう? だから自分から追いだしたりしなかったんじゃ……」 

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