ピンク

 ナオコはその週の金曜日、常駐警備部としての仕事を終えたあと、ハチ公口前の陶板レリーフを背に立ちすくんでいた。落ちつかない様子で広場を見渡し、ため息をつく。


 すっかり後悔していた。てっきり飯田との待ちあわせに、由紀恵も同伴するものと思いこんでいた。考えてみればナオコのを目的に、連絡先を交換させたのだから、由紀恵が来ないのは当然である。


 由紀恵は「もし会ってみて、気まずかったら、お金だけいただいて帰っちゃえばいいのよ」と、なんてことなさそうに笑っていたが、どこからどう想像しても気まずい。


 お金だけもらって、さっさと帰ろう。そう思いながら肩を落とし、携帯画面をひらく。17時45分。待ちあわせ時刻は、18時ちょうどである。

 駅前を行きかう人々を観察して、時間をつぶす。日が落ちてきて暑さが和らいできたが、みんな薄着だ。うちわを片手に汗をぬぐう観光客を後目に、ナオコもぱたぱたと顔をあおいだ。


 ふと、夏らしいことをなにもしていないな、と気づく。思えば、季節に即した楽しみを、ここ数年間にわたって味わっていない。駅前は浴衣姿の女性や、プール帰りのビニールバッグを持った人々がちらほら見受けられた。


 ――――もう、はしゃぐような年でもないしな。


 季節に置いていかれるような気持ちになって、しんみりとする。あと三か月ほどたてば、いよいよ二十六才である。いろいろと身の振りかたを考えなければならない。


 物思いにふけりながら駅前をながめていたナオコだったが、急に目をみひらくと、首を横にひねった。携帯を顔のまえに掲げながら、おそるおそる目線を横にずらす。


 スクランブル交差点の方から、黒いスーツを着た男が歩いてくる。新聞屋のまえを通りすぎる横顔を確認すると、まぎれもない。かつての相棒、山田志保である。一仕事終えて、直帰するところだろう。無表情で前をにらんでいる。

 ナオコは、ごくりとツバを飲みこんだ。かつてないほどのチャンスだった。山田の尾行を試みて、渋谷の街を探し歩いたこともあった。だが都内でも特別人の行き来が激しいこの場所で、見つけるのは不可能だろうと諦めていたのだ。

 携帯を確認する。17時47分。まだ時間はある。歩いてくる山田を視界の端にいれつつ、急いで飯田に少し遅れるとのメッセージを送る。

 彼はハチ公口にはいった。人ごみにもまれながら、見失わないように後をつける。工事中の南口を抜け、渋谷警察署の方面へと歩道橋をわたっていく。


 家に帰るのだろうか。ナオコは頭を回転させながら、こそこそと後をつけた。HRAの社員は、会社で借りあげたマンションに住んでいる者が多いが、当然のことながら自宅から通勤している人間もいる。

 ナオコは、若干の罪悪感を覚えながらも、ようやく手にした絶好の機会に興奮していた。自宅が判明すれば、彼の行動を追跡するとっかかりになる。精神分離機をどの瞬間に使っているのか、不正を暴くチャンスだ。


 しかし、すぐに落胆することになった。

 山田は階段をおりると、恵比寿方面へと歩を進めたのだ。こちら側には、HRAの支社がある。宿直のために帰社するパターンかもしれない。

 尾行を継続するべきだろうか。歩きながら携帯をみると、もうすぐ18時だ。

 悩みながらも後をついていく。一人でいても、早足なんだな。ナオコは以前、自分と歩いていたときの彼を思い出しながら、微妙に顔をしかめた。


 山田の姿が大通りから消えた。あわてて追いかけると、左手の小さいビルが立ち並ぶ坂に、後ろ姿がみえた。HRAの支社は、この道を右手に曲がる必要がある。しかし彼は、オフィスビルとマンションにはさまれた左手の小道へと入っていく。ナオコはふたたび期待に胸をおどらせた。

 少し待機してから坂をあがり、彼が曲がった小道をのぞきこむ。雑草だらけの地面に、ゴミ箱と風俗の看板がころがっている。道というよりも、不法投棄場と化している。

 山田は居なかった。見失ったかと思って、焦りながら一歩すすむ。


「ぎゃっ」


 はがい絞めにされて、口元を抑えられる。後ろ手に両手をつかまれ、壁に身体を押しつけられた。頬がべったりと苔むしたコンクリートにくっついている。

 山田はいともたやすくナオコを拘束すると、じろりと見おろした。失敗したことを悟る。


 ああ、これはやってしまった。ナオコは、自分の馬鹿さ加減をうらめしく思った。山田の人間ばなれした部分を甘くみていた。おそらく駅から出るときには、尾行に気づいていたのだろう。

 なにを言われようとも、尾行の理由だけは話さないようにしなければ、と考える。

 しかし、いつまでたっても山田は口をひらかない。手が離されたので、ナオコは後ろをかえりみた。彼は仁王立ちして腕をくんだ。怪訝そうな顔をしている。


「どうしたんだ、その恰好は」


「はい?」


 ナオコは、肩すかしを食らった気持ちになった。そして彼の視線にあわせて自分を見おろし、気恥ずかしさにうつむいた。

 彼女はいつものスーツ姿ではなかった。仕事が終わってから、上のシャツはそのままに、スカートに履き替えたのだ。タンスから引っ張りだした水色のスカートは、何年前に買ったか記憶が定かでない。足元も動きやすい革靴ではなく、外行きのフラットシューズにしたのだ。

 由紀恵の言葉に乗せられたつもりではない。ただ、また素っ気ないシャツにスラックス姿なのは、それこそ「努力」が足りないのでは、と思ったのだ。そう心のなかで言い訳しながら、ナオコは尾行したことを限りなく後悔した。


「仕事帰りじゃないのか」


「その、これから人と待ちあわせで……それで山田さんを見かけたから、ひさしぶりだなぁと思って、つい」


 ナオコは、尾行の理由をもごもごと説明した。山田はそれを聞いているのかいないのか、檻に入った動物を眺めるような目つきで、彼女をみている。


「えっと、それじゃあ」


 丸裸で立っているような気持ちになって、ナオコはそうっときびすを返した。様子がおかしいのは承知だったが、これ以上は耐えられない。


「ちょっと待て」と、襟首を掴まれる。


「うえっ」


 ナオコは、くるりとマネキンのように回転させられた。両肩を掴まれ、対面でじっくりと見つめられる。わずかに眉をひそめ、唇を真一文字にむすんでいる。

 穴が空くほど見つめられて、どぎまぎしてきた。


「髪は? そのままで行くつもりか」と、やたらと真剣な声がたずねた。


「は?」


 髪をさわる。いつものように、黒いゴムで一つ結びだ。


「おろせ」


「え、なにをですか?」


 そうたずねると、山田は無表情に拍車をかけ、深いためいきをついた。すばやく前にかがみこんで、ナオコの髪からゴムをぬきとる。


「ちょ、返してください!」


 動揺しながら、ヘアゴムを取りかえそうと手をのばす。しかし彼は、ゴムをポケットにしまうと、

「櫛は持っていないのか? ああ、持っているわけがないな。知っている。それでも、おろしたほうがマシだ」

 と、独り言のようにつぶやいた。


「化粧は? さすがにしている……のか? それで? 信じられない」


「あの! なんなんですか。わたしの見た目、そんなに気になります?」


「気になるな」彼は、ずばり言いはなった。

「いまから男と会うんだろう」


 ナオコは、顔から火が出そうになった。さすがに鋭い。だが、どうして会社の元相棒兼上司に、そんなことを指摘されなければならないのだろう。


「君にも春がやってきて、たいへんよろしいことだが、もしそんな身なりで会うつもりなら、次以降はないぞ……相手の男に、まるでやる気を感じさせない。君もいい年だろう。化粧っけくらい出してやらないと、掴めるものも掴めない」


「山田さん、今度はわたしの恋愛アドバイザーに就職するつもりなんですか……?」


 なぜそんなことを言われなければならないのだ、とナオコはうなった。


「それとも、あれですか。〈芋虫〉を辞めさせられたから、次は寿退社でも狙おうっていうんですか」


「ああ、そうだとも」


 彼は、悪気など一切なさそうに言った。


「外に健全な人間関係が出来さえすれば、こんな会社に執着しなくなるだろう? 俺の尾行をさせるような上司に、つくこともなくなる」


 ナオコの肩がびくりとはねた。一気に表情を硬くした彼女をみて、

「べつにそれは構わないが」と頬をかく。


 尾行をされて、構わないはずがないだろう。そうナオコは思ったが、墓穴をほるだけだったので、余計なことは言わなかった。


 代わりに「だからって、わたしの身なりに口出ししなくてもいいでしょう」と言う。


「それに会うっていっても、恋愛とか、そういうことじゃないんです」


「珍しくスカートなんぞ履いているのにか?」


 ぴしゃりと指摘されて、ナオコは唇を曲げた。こんなのセクハラだ、とも思った。だが山田が、あまりにも真面目な顔で言うので、いやらしさは感じなかった。切れ味鋭い言葉だけが、びしびしと刺さる。


「待ち合わせ時刻は?」


 ふいに質問されて、ナオコは焦った。すっかり時間のことを忘れていた。携帯をのぞくと、メッセージが届いていた。相手方も仕事が長引いて、一時間ほど遅刻するとのことだった。


「19時くらい、です」

 と、ナオコが答えると、彼は「よし」とうなずいた。


「来い」


 山田は、小道の先へ歩きはじめた。驚きながらも、ナオコは後を追った。

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