男の謝罪には期待しないほうがいい
由紀恵のいう店は、スペイン坂にあるバルだった。細い通りを見おろすビルの二階に構えられており、暖色の窓明かりがこぼれている。
階段をのぼって店内に入る。ギャルソン風の服装をした店員に案内され、あちこちに灯ったランプの間をぬける。ほかの客たちも女性の二人づれやカップルが多く、落ちついた雰囲気だった。
壁際の席に案内され、ひといきつく。
「たまにはお肉がたべたいと思って」
由紀恵はにやりと笑い、メニューのかたっぱしから興味をそそる物を注文していった。このような注文の仕方も、気のおけない関係だからである。ナオコはわくわくして、自らも好きなものをたっぷりと注文した。
大きめの丸テーブルに、黒毛和牛のランプステーキやら生ハムやらが並んでいく。スパークリング・ワインで乾杯し、おいしいお肉を堪能して、気分がよくなっていく。ふたりは、なんてことない会話をしながら、楽しいひと時をすごしていた。
しかし、一時間ほど経過したときだった。
「あのさあ、自分がなに言ってるか分かってんの?」
険のある声が聞こえた。ナオコはグラスをあおぎながら、ちらりと隣の席をみた。男女ふたり連れだ。奥にすわっている女性は、髪の毛先を明るく染めて、パンキッシュな身なりをしている。たいして、向かいに縮こまっている男性は、ねずみ色のスーツを着ている。
「分かっているつもりだよ、これでも……」
ハリのない声で、男性が言った。ナオコの側からは顔が見えなかったが、話しぶりを聞くだけでも元気のない表情が想像できる。
痴話げんかかなあ、と思いながら、頬肉のステーキをほおばる。
「これ、溶けますねえ」と、由紀恵に言いながら、ささやかに悲しくなる。痴話げんかすら、自分はもう四年もしていないのだ。ああ、喧嘩すらうらやましい。そんなふうに思ってしまう自分が、なによりも悲しい。
「そうやってさぁ、しょんぼりして見せればいいと思ってるわけ?」
「そういうわけじゃ」
「ふん、反省してますって顔してりゃ、たいていの人間は許してくれるもんね。でもあたしは、そうじゃないから。まだ許していないし、行動で示してくれないと」
「……ごめん。でも俺の意志は変わらないから」
聞き耳をたててしまうのはよくない。そう思いつつも、つい耳が大きくなってしまう。
「意志ってなに? あきらめることがあんたの意志なわけ? なんで、そんな情けないこと言えんの?」
女性の声が、どんどん尖っていく。由紀恵がナオコに目くばせをして、苦笑した。どうやら考えていることは一緒のようだ。
「わるいけど、俺は情けない男なんだよ」
男性がそう言ったとたん、女性が勢いよく立ちあがった。ナオコはぎょっとした。
彼女は怒りで震えながら、足元のカバンをとった。財布から一万円をとりだし、机のうえに叩きつける。
「ホント、そのとおりだわ。なっさけない男。一生そうやって言いわけして、ぐだぐだぐだぐだ生きてれば? そんで、つまんなく死ねばいいんだ」
彼女はぴたりと動きを止めて、男性を見つめた。しかし彼は一万円を一瞥して、ためいきをつくだけで、なにも言わなかった。
「ほんっとに、最低!」
ナオコや他の客たちが見守るなか、女性は上着を手にとり、席から離れようとした。
そのとき、上着の端がナオコのグラスにひっかかった。あっと思う間もなく、サングリアが床にぶちまけられる。グラスが砕けちって、ナオコは驚きながら立ちあがった。女性は数歩進んでからふり返り、戻るべきかためらった。しかし男性の顔をみると、そのまま早足で去ってしまった。
「すみません!」と男性がうろたえた。
「あ、いや、大丈夫ですよ」
ナオコは愛想笑いをうかべて、片手をふった。ただ、実質的には大惨事だった。スラックスはずぶ濡れになり、カバンの中にはグラスの破片が混入してしまった。
ウェイターが走りよってきて布巾を手渡してくれたので、それで体をふきながら、店の入口を確認する。
「あの、追いかけなくていいんですか」と、思わず言う。
「え?」男性はハッとした顔で、ナオコをみた。
そこで初めて、彼を正面からみた。眼鏡の似あう、柔和な印象の男性だった。鼻筋のとおった相貌が、かえって少し気弱そうにみえる。
こんなに大人しそうな人でも、あんなふうに女性から言いつのられるものなのか。ナオコは謎の感慨を感じながら、
「彼女さんが」と、入口を指さした。
すると男性は、ティッシュペーパーで床をふきながら「いいんです」と答えた。
「いつものことなので……」
「こんなことがいつもなの?」
由紀恵は笑いながら、ナオコのバッグから慎重にガラスの破片を取りのぞいた。
「それは災難ね」
男性は戸惑いがちにほほえみ「そうですね」と答えた。
「迷惑をかけて、本当に申し訳ないです……クリーニング代はもちろん出しますので」と、彼はあらためて謝罪をした。
「あ、いや、そんなことはいいんですけれど」と、ナオコは首をふる。
「あなたのほうこそ、大丈夫なの? いったん落ちついたほうがいいわ」
由紀恵は、そう言って席をすすめた。それくらい疲れきった顔をしていたのだ。彼はためらいがちに座り「すみません」と、もごもご謝った。
「ほら、すこし飲んだほうがいいですよ」
ナオコは男性が気の毒になって、水をすすめた。
「ありがとうございます。迷惑をかけておいて、こんな……」
「気にしないでください。ほら、このスーツ、青山で一着二万円の安物ですから。そろそろ買いかえなきゃなあって思ってたし」
元気づけようと思って冗談めかすも、彼の表情は晴れない。
「彼女さん?」と、由紀恵がたずねる。
「いえ、バンド仲間で……」
「バンド?」ナオコは、思わずすっとんきょうな声をあげてしまった。
女性はともかく、彼のほうは、バンド活動にはげむ人間には到底見えなかった。
「はい。元、ですけれど」
彼は苦笑した。
「すみません。迷惑かけたうえに、気までつかわせてしまって……あ、お金、出しますね」と、財布をとりだす。中身を見た瞬間に、顔から血の気がうせる。
「どうかしましたか?」
彼はしばらく財布のなかを凝視して、
「すみません」と、消え入りそうな声で謝った。
「さっき、降ろしてくるのを忘れていて……その、クリーニング代が」
由紀恵と顔をみあわせてから、
「大丈夫ですよ、そんなの」と、ナオコはできるかぎり優しい声で言った。あまりにも不憫に思えたのだ。
「お金はいいですから」
「いえ、そういうわけには……今からおろしてきます」
彼は財布を片手に立ちあがったが、
「ああ、でもそうするとお待たせしてしまいますよね」と、うろたえた様子で言った。
すると由紀恵が、ふいに口をひらいた。
「じゃあ、今度会ったときに渡してくれればいいわ。わたしたち、このあたりで働いているから」
「え、でも、いいんですか」彼は、心配そうにたずねた。
「いいわよ。ねえ、ナオコちゃん?」
「それは、かまいませんけど……」
由紀恵はニコニコしながら「それじゃあ連絡先、交換しましょうか?」と、すばやく携帯をとりだした。
ナオコは彼女が、なにかをたくらんでいることを察知したが、男性ともども押しきられる形でメッセージアプリのIDを交換した。彼のアイコンの下に『飯田達也』との名前が示されている。
「飯田さん?」
「あ、そうです。飯田です」
「中村です」
自己紹介をすると、飯田は照れくさそうにほほえんだ。
「中村さんですね。よし、すみません、それじゃあ週末までには必ず連絡しますので……本当にすみません」
青年は、終始申しわけなさそうに何度も頭をさげると、店を出ていった。
彼の後ろ姿を見届けたあと、由紀恵は「チャンスよ」と言った。
店の親切で入れなおしてくれたサングリアを飲みながら、ナオコは首をかしげた。
「ちゃんす?」
「もう、やっぱり分かっていなかったのね。そんな感じだとは思っていたけれど」
由紀恵は頬をふくらませて「あの子、いい子そうじゃなかった?」と、つづけた。
「ああ、いい人そうでしたねえ。優しさが、顔ににじみ出ているタイプというか」
「こういう出会いこそ、逃しちゃダメよ」
「え?」
ぽかんとしているナオコに、由紀恵は母親が出来の悪い娘にむけるような表情をした。
「あのね、ナオコちゃん。職場外の出会いなんて、なかなかないのよ。こういう偶然から、すこーしずつ人脈を広げていかないと」
それを聞いて、やっと由紀恵の意図を把握する。
「でも、わたし、そういうつもりじゃ」
あたふたと両手をふる。たしかにいい人そうだ、とは思ったが、そういうつもりで会う気持ちは微塵もない。
すると、由紀恵はめずらしく厳しい顔をして「そんなんじゃダメよ」と言った。
「彼氏が欲しいなら、ガマンしなさい。恋愛は努力よ……彼が合わなくても、彼のつながりで、いい人に巡りあえるかもしれないでしょう? それを望むなら、まずは行動。行動あるのみよ」
「ど、努力ですか」
恋愛は努力。真実味をおびた言葉に、ナオコは圧倒された。
たしかにそうかもしれない、と納得する。近頃は忙しさにかまけて、友達から合コンに誘われても断ってばかりだ。プライベートが枯れはじめていることは否定できない。
由紀恵に彼氏が欲しいなどと嘆くのであれば、努力が必要なのかもしれない。
そう思ってしまったのが、いけなかった。
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