タワシのように生きよ

 ナオコは新宿駅中央線のホームに、人ごみと共に降りたった。アリの群れのような集団が、なだれおちるように階段を駆けおりる。もう16時をまわっているが、暑さがゆるまる気配は一切ない。もわっとした汗と消臭剤がまじった匂いがする。

 改札の直前で、ようやく人のながれから抜ける。旅案内のポスターがならぶ壁ぎわに寄り、ためいきをこぼす。帰宅ラッシュの新宿は、ほんとうに殺人的である。




 特殊警備部としての実質的死刑宣告を言いわたされてから、三週間が経過していた。

 もともとナオコは常駐警備部に所属していたので、部内の人々は好意的だった。ありがたく思うナオコだったが、感謝の気持ちは、仕事がはじまった瞬間に憂鬱に変わった。

 常駐警備部の仕事の大半は、移動である。一般企業につとめる忙しい営業マンもかくや、という頻度で動きまわるのだ。


 ――――炎天下をスーツで歩きまわる苦痛を、すっかり忘れていた。


 うんざりしながら携帯を確認すると、保全部からメールがとどいていた。地図が添付されている。

 これが今日最後の一件だ。ナオコは、なけなしの気合をいれて改札をでた。

 新宿駅南口を出て、左にまがり、繁華街へ歩をすすめる。これから飲みに行くらしいサラリーマンの間をぬけて、地図を確認する。ビルとビルのすきまに身をすべりこませて、しばらく待つ。


 何度も経験した寒気を感じて、周囲をみわたした。あれほど居た人々がいない。〈鏡面〉に入ったようだ。


 すばやくビルの間から出て、地図をみながら、慎重に足をすすめる。北に20メートル。西に9メートル、行きすぎた。すこし戻って、地図が示す座標にたつ。

 こつこつと地面を足でたたき、その場にしゃがみこむ。携帯の画面を、地面にむける。


「〈焦点〉感知」と電子音が話す。


「はいはい」


 ナオコは胸ポケットから小瓶をとりだした。透明な液体が入っている。ふたを開けて、液体を地面にたらす。地面が波うつように揺らぎ、やがて静まった。

 再度、携帯をむけると、今度は「〈焦点〉消滅」と話したので、ナオコは大きく息をついた。ようやく今日の仕事が終わった。


〈焦点〉とは〈虚像〉の出現位置になる可能性をもつ地点のことだ。常駐警備部は、〈焦点〉の消滅を目的に、日々あちらこちらを走りまわっている。

 HRAにおける仕事のながれとして、まず保全部が〈鏡面〉を監視し、精神エネルギーの動きを感知する。この値に異変が発生した地点が〈焦点〉である。この〈焦点〉のエネルギー値が一定値以下であれば、常駐警備部。高かった場合は、特殊警備部が派遣される。


 率直にいって、ありとあらゆる場所を移動し、謎の液体を地面にたらすだけの仕事だ。ナオコは〈鏡面〉をぬけて、がっくりした。

 つまらなくない、と言ったらウソになる。常駐警備部の仕事は退屈だ。ナオコにとって、特殊警備部の仕事が特別すばらしいわけではなかったが、酷暑の都内を一日中歩きまわるのは辛すぎる。


 彼女は意気消沈しながらも、体を引きずって山の手線に乗りこんだ。渋谷で降りて、支社へと帰る。汗だくの体をどうにかしたかったが、それより前に、やることがある。


 10階にあがり、トレーニングルームの扉をひらく。すると、ケビンが先に訓練をはじめていた。


「おー、中村。おつかれ」


 彼は訓練を中止すると、ナオコに近づき、顔をしかめた。


「おまえ、会うたびにやつれてないか?」


 彼の指摘するとおり、ナオコは常駐警備部になってからというものの、日ごとに生気が抜けていた。体力的に厳しい仕事をしていることはもちろん、スケジュールをみっちりと組んで過ごしているからだ。


「そんなことないよ、毎日充実してる」


 乾いた笑いをうかべると「充実していても楽しくなさそうだな」と、同情の目をむけられる。


「ま、〈芋虫〉に復帰できたら、暑さともおさらばだ。今日も頑張ろうぜ、ブラザー」


「おーがんばるよ、ブラザー」


 空元気を出して、腕まくりをする。

 部屋の真ん中でケビンと向きあい、首をまわす。ぼきぼきと、鳴ってはいけない場所から音が出た気がするが、気にしないことにする。


 まばたきの隙間に、ケビンの姿が消えた。左上から風切り音がきこえる。落ちてきたひじ鉄を流し、半身をひるがえして、手刀でうなじをねらう。


「おっ、いいねえ」


 ケビンは前にすばやく避け、巨体に不釣り合いな素早さでしゃがんだ。鋭い足払いによって、ナオコの体勢がくずれる。右手を地面につくと、靴のかかとが上からせまってきた。

 ナオコはにやりと笑うと、地面についた手を支点に、自分の体をはじいた。その勢いのまま、足をあげた彼のひざを両腕で押す。


「うおっ」と、ケビンは背中から地面におちた。

 思わず「よし!」と声をあげるが、その興奮もつかのま、ナオコの胸倉に手がからむ。ケビンが地面から身をおこすのと同時に、今度は自分が床に打ちつけられた。


「ほらほら、システマシステマ」ケビンがうれしそうに言う。


 ナオコは背中の痛みと苦しさを逃がすように、小刻みに呼吸をした。だんだん痛みがなくなっていく、ような気がする。


「へへ、ツメがあめぇな」


 彼は鼻の下を指でこすって、にやにやとした。


「力を利用されるって分かってんだからよ、あんな風に押しきる時間を作っちまったらダメだな。やるときは、一瞬でやらねぇと」


「うー……おっけい」


 ナオコは床に体をあずけたまま、うなだれた。


「体格差も考えねえと」


 ケビンは彼女の上にまたがったまま

「ほら、俺のことどかしてみ?」と、にやにやした。巨大なダンベルを置かれているような重さだ。


「無理無理」と笑いながら、彼の腕をたたく。


「わかった、わかったよ。自分に不利な方法はとらないってことだね……そうすると、体重の軽さから考えて、わたしは、ケビンにたいしては上から攻撃するしかないってことか」


「そういうこった。逆に言うと、中村みたいなウェイトの軽いやつは攻撃をうまく流して、相手の動きを利用するのに向いているはずだ。俺みたいに重さがあると、自爆する可能性が高いからな……よし、したらば第二ラウンド」


 行くか、とケビンが立ちあがりかける。


「うぎゃあ!」と、ナオコは悲鳴をあげた。頬をかすめて、銀色にひかる槍の横顔がつきでていた。


「ナオコちゃんに、なにしてるのかしら?」

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