タワシって生きていないよね?
ケビンが、恐る恐る背後をふり返ると、そこには完璧な笑顔をうかべた由紀恵が立っていた。
片手に2メートルは超える長さの槍をかかえている。レプリカのため、刃先はプラスチックだが、首の筋をなぞった先端に殺意がみなぎっている。
「ゆ、由紀恵。違う、これは」
ケビンは血の気のひいた顔で、ナオコからどこうとした。しかし槍の先端がのどぼとけに食いこみかけると、いっそう青ざめて口をとじた。
「違う? なにが違うの。ナオコちゃん、こっちに来なさい」
ナオコは冷や汗をながしながら、彼の下から這いでた。ケビンは立ちあがりかけた姿勢のまま停止している。
「由紀恵さん、これは」弁解しようと、口をひらく。すると片手で言葉をさえぎられた。
「大丈夫よ、ナオコちゃん。はあ、せっかくだから三人でごはんでも行きましょうって、誘うつもりだったのに……ケビン、あなたって人は」
彼女の背後に、まがまがしい怒りがたちのぼっている。
「あのケビンは、システマを教えてくれていて。その、これは訓練で」
山田に未熟さを指摘されてから、予定が合うときは、ケビンに稽古をつけてもらっていた。彼が、ロシアの誇りにかけてシステマをやるべきだ、と主張したため、ここ数日はその訓練をしていたのである。
そのように説明したが、由紀恵は「訓練でもなんでも」と強い口調で反論した。
「年頃の女の子に、そんな風にまたがって……破廉恥極まりないわ。恥をしりなさい」
由紀恵はきっとケビンをにらむと、槍を回転させ、頭を棒尻でなぐった。「いてぇ!」とケビンがさけぶ。
「ちょっとは考えなさい、まったく」
「おいっ、あくまで訓練だっつってんだろうが! 勝手に人のことを変質者みたいに言いやがって」
由紀恵の言いぐさが頭にきたのか、ケビンは立ちあがった。
「だいたい、こいつにまたがることのなにが悪いっつーんだよ。こんなガリガリの歩くタワシみたいな女、またがってても尻が痛くなるだけだわ!」と、人差し指でナオコをさす。
ナオコは一気に無表情になり、その指を右手でつかみ、全体重をかけて後ろに倒れこんだ。ケビンが驚きの声をあげながら、前につんのめる。すばやく背後にまわりこみ、背中にむかってヤンキー蹴りをくらわせた。
痛そうな音をたてながら、ケビンの頭が床をスライドしていく。
「ほーらケビン、システマシステマ」
ナオコは怒りを押し殺しながら、くりかえした。この間から、溶けかけたハニワだ、歩くタワシだと無機物に例えられる。それほど自分は、人間からほど遠く見えるのだろうか。
「なんで中村まで怒ってんだよ……意味わかんねえ」
のそりと起きあがりながら、彼は解せないという顔をした。さきほどの自分の発言の意味を、まるで理解していないようだ。
「ほんと、このおバカさんは……」
由紀恵は深いためいきをつきながら、相棒の横にしゃがみこんだ。ほおを両手でつかみ、餅のように伸ばす。ケビンが涙目でにらむが、彼女は意にかいさない。
「そんなふうにデリカシーがないことばっかりしていると、お母さまに言いつけるわよ?」
彼の耳が、みるみるうちに赤くなった。
「このあいだ会ったときも、すごく心配していたものね。うちの息子、気はいいんだけど、どうにも女心を理解していないって。それでいつまでたっても、いいひとが迎えられないんじゃないかって……」
「あああ、おふくろは関係ねえだろ?」
ケビンは、頭をヘッドバンキングのように振り、由紀恵の手をはらった。
「関係あるわよ。お母さまの気持ちを考えなさいな……いい年した息子がお見舞いにくるたびに、SWATの訓練を取りいれたいとか、HRAのベンチプレスは早く最新モデルに更新すべきだ、とかいう話しかしないのよ?」
「べつにいいじゃねえか……」
ケビンはすねたような顔をしている。
ナオコは、それはお母さんも心配だろうなあ、と遠い目になった。ケビンの母親は、都内にある病院に入院していて、ナオコも二回ほど会ったことがある。とても快活な女性で、なるほどケビンの母親らしい明るい人だった。
だがそんな女性といえども、二十代半ばをすぎた息子が会うたびに筋肉とトレーニングの話しかしないのでは、多少なりとも心配になるだろう。
「とにかく、ちょっとはデリカシーってものを備えなさい。お母さまだって、なにもあなたに恋人を作れって言っているわけじゃなくて、もっと毛色の違うお話が聞きたいんでしょう。ね、ナオコちゃんも、そう思うでしょう」
「そうですね……うん、歩くタワシっていわれて傷つかないと思っているなら、ケビンはいろいろと考えなおしたほうがいいよ」
「な、なんだよ。悪かったよ」
悲しげな目で語るナオコに、彼は頭をかいた。
「そんなに言うなら、今からちょっくら病院行ってくるよ。よく分かんねえけど、別の話してくればいいんだろ?」
「ええ、お母さまにもっと楽しいお話をしてあげなさい」
由紀恵はきっぱりと言った。
ケビンは「へいへい」と返しながら、目をぐるりとまわした。
「なら、飲みはお預けだな。中村、また今度やろうぜ」
彼は一杯あおるしぐさをしながら、トレーニングルームを去っていった。
由紀恵は相棒の後ろ姿を見おくりながら、苦笑をうかべた。
「ああいう素直なところはかわいいんだけどねえ……でも、まだまだ子供よね。あんなことナオコちゃんにするなんて」
「あはは……ケビンは、あれが良いんだろうなって思います」
「あら、奇遇ね。わたしもそう思うわ」
由紀恵は、くすくすと笑った。それを見て、ナオコもほほえむ。
なんだかんだと、この二人は仲がいい。少し年が離れているからか、由紀恵にとってケビンは弟のような存在なのだろう。
――――まあ、多分、ケビンはそれだけじゃないだろうな。
そう察するナオコだったが、なにかを言及するつもりはなかった。由紀恵には交際してもう三年もたつ彼氏がおり、ケビンもそれを知っている。
「さてと、それじゃあ、今日は女子会かしら?」
と、由紀恵がウィンクをした。
「え、やったあ。そうしましょう!」
「じつは、行ってみたいお店があるのよ。ナオコちゃん付きあって?」
由紀恵は小首をかしげて、艶然と笑んだ。
「もちろん了解です!」と、笑いかえす。
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