クッキーはシンプルなほうが美味しい
マルコ・ジェンキンスは、たいてい日本支社の執務室にいる。恵比寿近郊のマンションに居を構えているらしいが、トラブルが発生したときを考えて、ほとんど帰らないそうだ。
ナオコは、勤勉な上司に尊敬の念を抱いていた。苦手だが、真面目で良い経営者であることはたしかだ。
――――だからといって、この手のひら返しはない。
顔面蒼白のナオコは、執務室の扉をノックした。
「中村ですが……」と声をかけると、すぐさま扉があいて、マルコが飛び出てきた。驚いて後ずさる。
「ナオコくん! 大丈夫?」
彼はナオコをみとめるや否や、心配そうな表情をうかべた。
「いやー、ビックリしちゃった。ごめんよ、ぼくとしたことが。まだ完治していなかったんだね。たしかに一か月で復帰は早いかな、と思ったんだ。でも人手がたりなくてね……」
マシンガンのようにまくしたてながら、背中をおされる。部屋に入ると、書類が机に広げられていて、仕事途中だったのだと判明した。
「あの、マルコさん。ご心配はありがたいんですけれど……」
あまり長居してもいけないと思って、口をひらくも、
「とりあえず座って」と、有無を言わさずソファにすわらされる。
「言いたいことは、分かっているよ。山田くんに嵌められたんだね」
ずばり指摘されて、ナオコは黙りこんだ。彼は苦笑して、机の角に置かれたクッキーを手にとった。整然とした部屋に不釣りあいな、スーパーで売っている箱入りのプレーンクッキーである。
「さっき、保全部から送信されてきた記録をみたけど、あれ、山田くんが撮っただろう」
「え」
「気づいてなかった? 角度がばっちり決まっていたからね、分かるよ。それくらい」
ナオコは絶句していた。〈鏡面〉の様子は、保全部によって映像記録されている。また、特殊警備部の仕事として、〈虚像〉や〈鏡面〉にめぼしい変化があれば、スマートフォン等の機器で記録し、報告することになっている。
わずかに築かれはじめていた山田への信頼が、音をたてて崩れていく。
「スマホで撮ったっぽいね。それにしては、上手いけど」
マルコはいつもの調子でケラケラと笑い、それから青ざめているナオコをみて、肩をすくめた。
「山田くんのやることだからね」
「……」
ケガを引きずっている映像があれば、保全部やマルコも、ナオコを戦闘に参加させるわけにはいかない。つまり、特殊警備部に居させるわけにはいかない。それを見越しての態度だったのだろう。
もはや悲しくもなかった。上野公園での出来事や、見舞いに来たときの言動を思いだす。
役たたず。ぽとん、と心の奥に言葉がおちた。
「ただ、ナオコくんも分かっていると思うけど」
と、マルコが奥歯にものが挟まったような口調で話しだした。
「最近の〈虚像〉は、不安定でね。君に〈芋虫〉として働いてもらうのは、リスクがともなうんだ。安全面もそうだけれど、もし万が一のことが起こったときに、補充できる人員がいないんだよ。そうすると、ちゃんと回復するまで職務に就かせることはできない。相棒に、その、ほら……」
マルコの視線が泳いだ。苦笑して、
「迷惑をかけては、いけないですもんね」と、言葉をつぐ。
「そう、いや、迷惑というか……山田くんがその程度のことで、どうこうなるわけないと思うんだけどね。でもやっぱり、完治するまで現場に居ない方がいいとは、ぼくも思う」
「……ですよね」
ナオコは大きく息をついた。結局のところ、一人で〈虚像〉を倒せなかった自分に問題がある。ずぶずぶと沼に沈みそうな自意識を引っ張りあげて、顔をあげる。
無理やりに明るい声で、
「仰せつかった仕事は、まだわたしが担当して構いませんか? 相棒ではなくなっちゃいますけれど」と、たずねる。
「ああ、もちろん。山田くんのことだろう? 先月も基準値を超していたからね。本人も感づかれていることに気付いているとは思うんだけれど」
と言って、頭をかく。
「こっちも忙しくてね。彼の行動の裏取りができるような人材がいないから、やってくれると本当に助かるよ」
「分かりました。早く特殊警備部に復帰できるように、いまはその仕事と、常駐警備部の職務を頑張りますね」
にこり、と笑ってみせると、彼は逆に眉尻をさげた。
「なんというか、本当にごめんね。ただ、ぼくとしても、君には体を大切にしてほしいと思うよ」
「ありがとうございます」
ナオコは頭をさげた。本当は、悔しくてならなかった。だがここで駄々をこねようが何をしようが、失態は取りさげられない。もし山田を見返したいのであれば、仕事を完遂するしかない。
「お忙しいなか、お時間とらせて申し訳ありませんでした。それじゃ、わたしはそろそろ」
席を立とうとすると「待って」と、引きとめられた。ナオコは、きょとんとした。
「すごく忙しい。たしかに、いますごーく忙しいんだ」
と、クッキーの箱を両手でかかげて、ほほえむ。
「だからすごーく疲れていて、話し相手を求めているんだよね……ナオコくんの時間をとらせてしまうのは申し訳ないんだけど」
ナオコは、思わず口許をゆるめた。彼は茶目っ気の光る瞳で、こちらをうかがっている。
「これ、いただきますね」
ソファにすわりなおして、個包装になった袋をもらう。「どうぞどうぞ」と、片手をさしだされた。ビニール袋を破き、クッキーを口にいれる。甘い。
ふと涙が出そうになって、ぐっとこらえる。黙々と口を動かす。マルコはソファのうえで体育座りをして、こちらをまじまじと見ている。
泣きそうなことが、バレたのだろうか。恥ずかしく思って、ややうつむき加減でいると、
「山田くん、見舞いに行った?」とたずねられた。
「え、ええ。来ましたよ」
「そうかあ」
「マルコさんが、来るように言ってくださったんですよね? ありがとうございます」
実際に山田が見舞いにきて、嬉しかったか否かは別問題として、気づかいに礼を言う。すると、彼は「うーん」とうなった。
「くやしい」
「はい?」
彼は、子供のように唇をとがらせた。
「ねえ、相浦くんが、このあいだナオコくんは映画が好きだって言っていたんだけど。ほんと?」
ナオコはぎくりとした。映画の話を上司とする気はなかったのだ。ケビンを恨めしく思いながら、「好きなほうだとは思います」と、遠慮がちに言う。
「趣味なんです。もともと父親が好きで……」
「へえ、お父さんが」マルコは目をまるくした。「どんなのを観るの?」
「そうですね。なんでも観ますけれど、洋画が多いですね」
「ジャンルは? ラブロマンスとか?」
「ラブロマンスも観ますけれど、うーん、特に好きなのはアクション系はですね。新作は、たいてい観ちゃいます。あとホラー映画も好きです。どう驚かせてくれるのかなっていう醍醐味が……」
ハッとして、口を閉じる。このあいだ山田にたいして行った失敗をくり返すところだった。
「えーと、そんな感じですかね。マルコさんは、映画観るほうですか?」
「うん。結構観るかな。ミュージカル系が好きでマンマ・ミーアとか、コーラスラインとか、そういう頭をからっぽにできるのが良い」
「わかります。頭がからっぽになるって感覚」
「癒されるんだよね。考えなくていいほうが」
「そうですよね……考察のしがいのある作品もいいですけれど、あんまり複雑になると、それで頭がいっぱいになっちゃって」
彼は「それそれ」と言って笑った。まっさらな笑顔に、少しドキリとする。
「最近のアニメとか、それで観るのためらっちゃいますもの……難しくって、ずっと考えちゃうから」
「ああ」
彼は、少しだけためらいがちに、言葉を止めた。
「うん、それも分かるな。いや、ぼくは観ちゃうけど……」
「え、アニメなんて観るんですね」と、純粋に驚く。
すると彼は、気の毒になるくらい気まずそうな表情をした。
「いや、わたしも観ますよ!」と、あわてて弁解をする。
「ロボットものが好きで、エヴァとか、いまだに追っかけています。あ、知っていますか? エヴァンゲリオン」
彼は、あからさまにホッとした顔をした。
「ぼく、これでも来日して七年たつんだよ。当然知っているし、最新作も観たよ」
と言い、つづけて「なんだ、よかった」と、安堵の息をはいた。
「これを言うとき、いつも緊張しちゃうんだよね。イメージと違うみたいで、なんていうか、そう、GEEK? オタクっぽいっていうか」
ぼそぼそと話す姿に、ナオコは、これまでにない親近感を感じた。
「分かります。話題を振られると、つい話しすぎちゃうから」
「それ。安心しちゃうと、ついべらべら話しちゃうから、普段人には言わない」
「話すぎると引かれますしね」
顔を見合わせる。マルコが口もとに手を当てて、くすくす笑った。奇妙な連帯感を感じて、ナオコもほほえんだ。
「あれ、こいつオタクっぽいなって思われると、いろいろ不都合だしね。なめられるし、こまる」
「そういうことがあったんですか?」
彼は苦笑しながら「あるよ、もちろん」と答えた。
「会社でも気をつかうよ……本来ぼくは経営者として来た身じゃなかったし、それに若かったから、最初はなめられないように必死だった」
「え?」
ナオコはきょとんとした。聞いていた話と違う。たしか彼は、21才のときに、日本支社のCEOとして派遣されてきたはずだ。
疑問を察したのか彼は「形ばかりだったんだ」と、話しはじめる。
「ぼくの日本での役目は、アジアっていう落ちついた環境下で、精神分離機の後続機を研究することだから。将来的に本社で〈鏡面〉の研究にかかわるから、一応形ばかりだけど、トップに据えられただけ」
「でも、ぜんぜん形ばかりじゃないですよね?」
ナオコは、真剣に言った。彼は軽薄そうにみえるが、実のところ、非常に働き者で生真面目な性分である。一日中支社に居て、社員にもよく気をくばっている。
「マルコさんは、理想的な上司だと思います」
お世辞ではなく、心からそう思っていた。これは自分だけではなく、ほかの社員もそう思っているはずである。
「そう言ってくれるんだ?」と、うれしそうに相貌をゆるめる。
「もちろんです。わたしだけじゃなくて、みんなそう言っています」
「へえ、これは働きがいがあるな……ね、ナオコくん。君が正式に復帰して、なおかつ、ぼくの仕事が落ち着いたら、映画を観にいこうよ。いいでしょ?」
彼はクッキーのかけらがついた指をなめて、にこりとした。
「もちろんですよ」と、答える。自分の趣味に気をつかったうえでの、社交辞令だろうと考えたのだ。
「そりゃあよかった。これで、ぼくのモチベーションも保たれる」
ナオコは、決意をみなぎらせた。よい上司のためにも、甘いことを言っている場合ではないと実感したのだ。これまでは尾行や偵察に手をつけていなかったが、自分も、より真剣に取り組むべきなのだ。
「わたしも頑張りますね。山田さんと信頼を築くのは、ちょっと難しい状況ですけれど。よい報告ができるように偵察しますから」
マルコの動きが、ぴたりと止まった。すぐに完璧な笑顔をうかべる。
「そうだね、頑張って……山田くんのためにもね」
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