ジャングル・クルーズ転覆
「さっさとクラブを出せ。出現位置を感知しろ」
山田は、やる気なさそうに言った。目をつむって、腕をくむ。
ナオコは狼狽した。こんなことは初めてだった。彼は仕事にたいして、過剰なほど他者にゆずらない。それが、いまや手すりに腰を落ちつけ、観戦の構えをとっている。
動揺しながら、精神分離機使用の許可を申請する。
「本当にわたし一人でいいんですか?」
ゴルフクラブを、ひとふりする。なにかの罠じゃないかと疑いたくなり、彼を半目でみる。
「無駄口をたたくんじゃない。ほら、来るぞ」ぴしゃりと言いながら、廊下の奥に視線を走らせる。
広々とした廊下の奥から、なにかが近づいてきた。どん、どん、と鈍い衝突音が響く。白い巨大なホースのようなものが、壁をのたうちまわっている。
ナオコは、こめかみに冷や汗をかいた。爬虫類タイプの〈虚像〉だ。彼女のような初心者にとっては、一つの壁と言える段階である。
粘液で痕をつけながら〈虚像〉は、這ってくる。進行方向に人間の存在を感知して、奇妙な動きを止める。かまくびをもたげた頭部に、うす気味悪い灰色の瞳が輝いていた。
固唾をのんで、徐々に距離をつめていく。山田は、窓辺に座りこんで様子を見守っていた。
先んじて動いたのは〈虚像〉のほうだった。牙を見せて威嚇すると、猛烈な速さで這いよってくる。背筋に恐怖をおぼえつつ、ある程度の距離まで待つ。
あと10メートル、9、8…4メートル。大口を開けるヘビの頭を、紙一重でよける。そのまま両手をふりかぶり、クラブを叩きつけた。
超音波のような悲鳴を聞きながら、前へと転がる。背中に風を感じて、振り向きざまにもう一発。ヘビの頭に、銀色のヘッドがめりこむ。ひるんだすきに、さらにもう一発。
いったん引くべきだ。頭をよぎる。〈虚像〉は、混乱しながら頭を振り、彼女の周囲にとぐろを巻く。
ナオコは青ざめた。すぐに頭が接近してきた。逃げ場がない。とっさにクラブを縦に構え、巨大な口に突っこんだ。
車と衝突したような振動が、腕をふるわせる。二の腕に、弦をはじいたような痛みが走る。
顔面に、ぶわりと腐臭が吹きかけられる。
〈虚像〉の瞳は、ぶるぶると
思いきって、クラブから手を離す。とぐろの隙間に、体をすべりこませる。クラブの柄がかみ砕かれて、消滅した。
段になったとぐろに足をかける。焦りながら、ゴルフクラブを思い描く。
左足が空をきった。背中が泡立つ。足に力が入らない。
「まるでダメだ」
ナオコは「うえっ」とおえつをあげた。首が絞めつけられて苦しい。思わず、右手をシャツの第一ボタンにかける。足を着こうともがくが、地面がない。
「まず、対象が見えていない。見えていないから、動きに無駄が出る。無駄が多いから、隙をみられる。隙をみられると、行動を先んじられる。先んじられると、どうなると思う。ナオコくん」
ぶらりと視界が揺れる。ナオコは、なんとか顔をあげた。シャツのえりを掴んだ山田は、人形のような無表情だ。〈虚像〉の額に深々と突き刺さったナイフを、引きぬく。
「もちろん殺されるのみだ。そして、殺されてから殺すことはできない」
瞳の動きが止まる。白が灰色に染まっていく。
彼は、ナオコの首を掴んだまま、蛇のとぐろから飛びおりた。ぽい、とゴミを捨てるように、地面に投げられる。
激しくせきこみながら、涙目で見上げる。彼の肌は、蒼白だった。光の反射のせいだと思いたいが、非常に怒っているためにも思える。
「山田さん……すみません」
「まるで使えないな」
小さく縮こまる。なにも言えなかった。
「爬虫類相手にこの様子だと、先が思いやられる。いくら保全部が、君の戦闘力を保証したからといって、生命の保証までしてくれるとは限らない。そうだろう?」
2人の背後で〈虚像〉が灰になって、もろく崩れおちていく。
「それとも死にたいのか? わざと頭の悪い戦い方をしているのか?」
彼はひざを折り、視線を合わせてきた。真剣な表情に威圧される。
「ちがいます」と蚊の鳴くような声で答える。
「そうは見えなかったな。まず、動きを先んじられる点でダメだ。気持ちで負けているなどと精神論を語るつもりはないが、相手の動きを利用可能なのは、戦闘に慣れている人間に限る。君のような素人に毛が生えたような人間では、遅れをとってペースに巻きこまれる」
「はい……」
「相手の動きを封じられたとしても、遅れをとる人間だと認識されると、余裕を与える。だから、ああやって逃げ場を封じられる。自分の範囲、自分が確実に戦える手段で動け。それと武器を手放すのは構わんが、先を考えてからにしろ」
左足が、ぱちんと叩かれる。
「足が使えないことくらい、分かっていただろう? どうして機動力を当てにするんだ。馬鹿なのか?」
「すみません……」
足に、びーんとした痛みが走っていた。肩をおとす。なにもかも彼の言う通りだった。
「基礎がなっていない。この間のような仕事があったら、今度こそ命を落とすぞ。改めて考えなおしたほうがいい。これは、忠告でも警告でもなく事実を指摘しているだけだ。理解したか?」
「理解しました」と、うなだれる。
山田は、言うだけ言うと、すくっと立ちあがった。
いつのまにか〈鏡面〉から出ていた。休憩時間の終わったビルは、人通りこそ少なくなっていたが、通りがかる人たちは、しゃがみこんだナオコを、白い目で見ていた。
恥ずかしくなって、慌てて立ちあがる。今日の暑さには本当参っちゃって、気分が悪くなっていただけです。そんな顔つきで、咳払いをする。
上目で表情を伺いつつ、山田の言葉を待つ。これで叱責が終わるはずがないと、ナオコなりに、彼の習性を理解しての行動だった。
しかし、説教は始まらなかった。
彼は、口元を手の甲でおさえて、じっとしていた。
「山田さん? どうかしましたか」
妙に思って、たずねる。すると、瞳だけが、ぎろりと向いた。
「直帰だ」
「へ?」
「君も帰れ」
吐き捨てたかと思うと、信じられないくらいの速足で、駅の方面へ去っていく。
ぽかんとしながら、後ろ姿を見送る。再出動の初日だったので、今日こそ山田の調査を進めたいと考えていたのだが。
しかたがないので、今日は諦めた。前とは違う意味で、傷ついていた。
ビルを出て、井の頭線口そばのエスカレーターを降りる。あいわらずムシムシとした空気の駅前を、とぼとぼと歩いていく。
今日の山田の行為は、戦闘能力の査定だったわけだ。ナオコは、深いためいきをついた。そして、どうやら見事に失望させたらしい。
急に戦闘能力が向上しないとは、重々承知しているが、試験に落ちたような気分だった。なによりも、叱責が的を射ていることが辛い。
――――相手をしっかり見ていないこと、動きを先んじられること、機動力に頼らないこと。
脳内で、言われたことをくり返す。ケビンに相談してみれば、良いトレーニング法を教えてもらえるかもしれない。
ポジティブに考えれば、指摘をしてもらえたのだ。前よりも一歩前進である。あとは、改善さえすれば良いのだ。
なんとか気を取りなおして、ひとりうなずく。そのとき、電話が鳴った。
山田志保と、画面に表示されている。なんとなく嫌な予感がした。
「お疲れさまです。中村ですけど」と、携帯を耳にあてる。
「……マルコ殿に、君の怪我の具合が良くないと伝えた。しばらくは、常駐警備部の手伝いをしろとのことだ。以上」
唐突に切りだされた。ナオコは、思わずその場に立ち止まった。背後で、ぶつかりそうになった誰かが、大きな舌打ちをしてきたが、それどころではない。
「は? ちょ、え、どういうことですか」
「どうもこうも、そういうことだ。じゃあな」
「山田さん!」
電話口に向かって叫ぶも、すでに乾いた電子音しか聞こえない。
頭が真っ白だった。背中が、じりじりと焼けて、コンロに入れられた鶏肉のような気分だった。だが、そんなことに気を取られるひまはなかった。
――――このあいだ、わたし、特殊警備部に残っていいことになったんじゃなかったけ。
携帯を凝視しながら、見舞いにきた際の発言を思いだす。そうだ、たしかに、あの時はそう言っていた。
青ざめながら、進路を変える。家に帰ろうと思っていたのだが、マルコと話をしなければならない。
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