ジャングル・クルーズ
筆舌につくしがたいほどの猛暑だった。ここ一週間、つねに三十二度以上を記録している。
八月一日、東京渋谷区の気温は、摂氏三十四度。
コンクリートジャングルにふさわしい、かげろうのできる日だった。
中村ナオコは、片手にジャケットをひっかけ道玄坂をのぼっていた。カンカン照りだ。うめき声が口からついて出る。汗で背中がびしょびしょだ。
ファストフード店の赤、不動産屋の青、風俗店のピンク……看板すらも、汗をかいているようだ。坂をすれちがう人々の息が、水蒸気になって立ちのぼる。そんな妄想すらしてしまう。
こんなことではハロウィンもまだ先だというのに、ゾンビの楽園と化してしまう。
そう考えながらも、必死に坂をのぼる。
なぜなら、今日は記念すべき復帰日なのだ。暑さなんかに負けてはいられない。
上野公園での戦闘から、一か月がたっていた。
ようやく復帰したナオコを、特殊警備部のみんなは優しく出迎えてくれた。ケビンは、あいかわらずの馬鹿力で背中を叩いてくれたし、由紀恵にいたっては「ほんとうによかったわ」と涙ぐんでくれさえした。
しかし感動ムードもつかの間、オフィスに山田が音もなく入ってきた。
「おかえり」の一言すらなかった。ただ「出動命令」と言い渡し、自分はさっさと出て行った。
「……行ってらっしゃい」と、由紀恵が苦笑した。
哀れみの視線に囲まれながら、とぼとぼと外に出た。
だが坂をのぼっていくうちに、やる気がわいてきた。ひさしぶりの仕事だ。そう思うだけで、なまった身体が高揚してくる。
二週間まえ、山田から突きつけられた「なぜ、わざわざこの仕事を選ぶのか」との質問は、もう考えないことにした。
今日から、また彼と上手くやっていく必要がある。いつまでもうじうじ悩んでいる暇はない。不正を突き止める任務も、進めなければならないのだ。
山田が〈異常種〉の出現を存知していた、との予想は正しかった。今朝、オフィスを訪れるまえに、執務室でマルコと話をした。
ここ最近〈異常種〉の出現が、多発しているらしい。
「ただ、これは珍しくもないんだ」と、彼は話した。
「〈虚像〉は〈鏡面〉において、エネルギー体そのものなわけだけど……それらは、すごく不安定なバランスで成立しているからね。ときどき、こうなっちゃうんだよ」
「じゃあ、山田さんが、あのとき妙な態度だったのは」
事前に、彼の様子について伝えてあった。
マルコは「山田くんには経験があるからね」と、苦笑した。
「出動場所が、人口の少ない夜の公園だったから。通常の出現とは違うと考えたんだろう」
「な、なるほど」
「うん。まあ、そう簡単には、尻尾を掴ませないだろうから……ナオコくんのペースで、ゆっくりやってね」
そう肩を叩かれて、話は終わった。
複雑な気持ちだった。山田が〈異常種〉の出現を予想していたとする。その場合、自分の出動を制しした理由を、どう考えるべきか。乱暴だったが、必死にも感じられるような態度だった。
――――心配してくれたのだろうか。
熱に浮かされた考えが、脳裏をよぎった。
よく考えると、山田は嫌な奴だが、公平な人物だ。卑怯な行動をしたり、悪評をたてる場面を見たことがない。単純に他人に興味がないだけかもしれないが、すこしは信頼してもいいかもしれない……。
坂が終わった。渋谷マークシティに辿りつく。入口の芸術的なひさしの下に、山田は立っていた。こんな日でも、きちりとスーツを着こんでいる。
涼しい顔で、汗だくのナオコをみとめる。
「溶けかけたハニワのようだ」
「溶けかけたハニワ、見たことあるんですか……」と、ひざに手をついて、恨めし気に見あげる。
「すまない、ハニワほどの愛嬌はないな。大地の母性も感じられない」
「どうせ、愛嬌も母性もない人間ですよ。それより山田さん、ジャケット暑くないんですか」
「中は寒いぞ。風邪をひきたくなかったら、着たほうがいい」
彼は、すたすたと足を進めた。ジャケットを羽織りながら、後を追う。
渋谷マークシティは、京王井の頭線に食いこむ形で建てられている。クールビズに移行した会社員が、レストラン街をうろうろしている。
ビルの中は、たしかに涼しかった。ナオコは、ようやく一息ついた。
「今年はほんとに猛暑ですね」と、真摯な感想を述べる。
「どうして、こんな暑い日に〈虚像〉は生まれかわろうって思えるんでしょう……秋口まで待てばいいのに」
「言いえて妙だな。セミは、なぜ暑いときに地上に出てきたがるのか、君は考えたことがあるのか?」と、鼻で笑われる。
「ないですけど……」
「そのように体が作られているからだ。暖かい時期に地上に出て、一週間ほどで交尾をして卵を産む命だから、セミは夏によく出現する」
ぺらぺらと話す男を一瞥して、肩をすぼめる。よく知っているものだ。
「はあ、そうなんですか……自分では、自分が生まれ変わる時期をコントロールできないんですね」
「当然だろう。生まれる時期も、死ぬ時期も、自分では選べない」
ひやりとした言葉だった。
「彼らだって、来たくて来ているわけじゃない」
「……え?」
その発言に、違和感を感じた。しかし、背筋に走った寒気に気をとられて、質問する時間がなかった。〈鏡面〉に入ったようだ。
飲食店のガラス窓のむこうで、食べかけのランチが、席に残っている。人間の姿は影も形もない。
「では」
ふと、山田が口をひらいた。
「ナオコくんの復帰戦を、見守るとするかな」
階段の横、壁についた手すりに軽く腰をかけ、伸びをする。
「どうしたんですか」と、驚いてたずねる。
「どうしたって、相棒の復帰戦を邪魔してはいけないと思ってな。手を引いてやっているんだ」
耳を疑った。つい先日までは、役立たずだから邪魔をするなと、口を酸っぱくして言っていたはずだ。
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