数値化、手を離す

 九の数字に、短針が届く少し前、ナオコは上野駅に到着した。中央改札を出て、山下口を出る。明るい駅構内に比べて、外は不気味に暗かった。

〈虚像〉の出現した場所を、メールで再度確認する。右手の細い道をてくてく進んでいると、木が揺れた。生ぬるい風だ。なまり色の雲が、夜を押しつぶしている。

 東京文化会館を横目に、周囲を見渡す。

 そこで、肩を背後からつかまれた。


「うわっ」


 背中が、壁に押しつけられる。山田が立っていた。走ってきたのか、みだれた前髪の中から、鋭い目つきがのぞいている。


「や、山田さん?」


 彼が神出鬼没なのは、いまに始まったことではない。そのため、特別驚きはしなかったが、様子がおかしい。


「今日は、俺一人でやる」


 ナオコの肩をおさえて、言いふくめるように話す。


「わかったな? わかったら、帰れ」


「は? え、どういうことですか」


 山田は、苛立たし気に舌うちをする。


「だから、君は帰れと言っている」


「いや、だから、どうしてですか!」


 不穏なものを感じる。

 山田は、はあと息をついて「役立たずだからだ」と、吐き捨てた。


「悪いが、本当に君がいると困る。皮肉でも冗談でもない。一刻もはやく帰ってくれ」


 息をのむ。口に出さずとも、彼の本気は、十分に伝わっていた。いつものように皮肉を言うでもなく、只々役たたずであると宣告されたのである。

 それでもナオコは、冗談だと思いこもうとした。

 ひきつった笑みで「なにを言ってるんですか?」と、口をひらく。


「帰るわけにはいきませんよ、いくら山田さんが嫌でも、わたしたち、バディなんですよ?」


「だからなんだ。俺は、仕事の邪魔だと言っているんだ。仕事を増やすつもりか?」


 山田は、あくまで淡々と、しかし厳しい声で告げる。


「君がいなかったことは、保全部にどうとでも説明してやる。悪いようにはしない」


「悪いようにはしないって」


「これはバディとしてではなく、上司としての指示だ。君の仕事は、いますぐ帰宅し、おとなしく待機すること。それだけだ。給料は出るし、待遇も変化しない。それなら文句はないだろう?」


 口のなかが、急速にかわく。視界がふらふらしている。

 お荷物、役たたず、足を引っぱるな、などなど。散々言われてきたことである。分かっているつもりだった。

 そのはずなのに、胸が痛かった。山田が、これまでにないほど本気で言っていると伝わっていた。

 両手を縛られようが、暴言を吐かれようが、それでも自分たちは、こういう形のバディだ。そうやって、一年間やってきた。今は実力が追いついていないから、疎まれているのだ。だから、きっと、いつか。


 ――――そんな甘い考えが、この事態を引きおこした。

 

「そんな指示、従えません」


 強く言いきった。気を緩めると、視界がにじみそうだった。


「これが、わたしの仕事なんです。役たたずだって言うなら、放置してくれてかまいません。わたしは、わたしの仕事がしたいだけです」


「よくも身勝手なことを言えたものだ」と、彼は眉をひそめた。


「人の足を引っ張っておきながら、放っておけだと? バディ失格だな。せめて邪魔にならないように、身を引くつもりはないのか?」


 胃のあたりに、沈むような重さを感じた。


「だから、放っておけばいいじゃないですか」と、視線を落とす。

 そして、自棄になって、

「いいえ、むしろ居ないほうがいいんでしょう?」とつづける。


 役立たずとの言葉が、心臓を何回も突き刺す。立ち方さえ分からなくなるような、心もとない気持ちと裏腹に、口は勝手に動く。


「放置して、わたしがムシャムシャ食べられるのでも、鑑賞していればいいじゃないですか。山田さんは、バディなんて必要ないんですから。そっちのほうが嬉しいでしょう?」


 手を払って、精一杯の虚栄でにらみつける。暗がりに、彼はどんどん青ざめていくように見えた。ああ、怒らせている。どこか冷静な部分が、そう思った。


「そういうわけなので、帰りません。邪魔だっていうなら、わたしが〈虚像〉に食いちぎられようと踏みつぶされようと、放置しておけばいいでしょ。それで山田さんは……」


 満足なんでしょうから。

 そこから先は、言葉にできなかった。


 山田が、胸倉をつかんだ。携帯の画面が、視界にはいる。とっさに顔をそむけて、目をつむる。まぶたの裏に、鋭い閃光が走った。

 体を思いきり右に投げだして、道路に倒れこむ。


「……そんなに邪魔なんですか」


 あまりのことに、笑ってしまった。

 山田は携帯を片手に、こちらを見下している。再び、画面を向けられる。


 転がるように立ちあがり、走りだした。


「戻れ!」


 鋭い声が、背中にささる。ナオコは、ふり返らなかった。


 走りながら、涙が一滴だけこぼれた。悔しかった。山田が仕掛けたのは、保全部開発の記憶処理を行う際の電磁波である。強制的に、自分を立ち去ろうとさせたのだ。

 そこまで、信頼されていなかったんだ。そう思えば思うほど、駆ける足は速くなった。


 地図を思いうかべる。指定された場所は、国立西洋美術館の前だった。走れば二分もかからない。それまでに保全部が〈鏡面〉に入れてくれなければ、山田に捕まってしまう。

 ナオコは、暗闇を無我夢中で走った。昔、両親が連れてきてくれた記憶を頼りに、道をたどる。風は、またもや強くなっていた。お化けのような木々が、うるさく叫んでいる。


 角を曲がったところで、襟首を掴まれた。国立西洋美術館の四角い箱のような外観は、すでに目と鼻の先である。


「離してください!」


 怒鳴りつけるも、すでに会話をする気はないようだ。肘を引く動作がみえた。なぐられる、と思い、間一髪で体をひねり、その勢いで手を引き離す。


 ああ、ついに手が出たのだ。感情が、すっと冷めていく。本当に嫌われてしまったのだな、と心底実感する。

 ふいに、風がやんだ。木々のざわめきが消え、公園に静けさがもどる。

 ヘビのように、背筋を寒気が這いあがる。


 ナオコは、心のなかで勝利を確信した。

〈鏡面〉に入ったのだ。


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