数値化、手を離したのはだれ?
ナオコは、慌てて山田と距離をとった。
「特殊警備部第五課三班、中村ナオコ。これより〈虚像〉一名を対象に、精神分離機の使用許可を求めます」
と、宣言をする。
ポケットから「許可します」の声が聞こえたが早いが、右手にゴルフクラブを握りしめる。
「やめろ」
低い声が、耳朶をたたく。
「絶対に手をだすな」
聞こえてはいたが、無視した。もともと会話をする気がなかったのは、彼のほうだ。
ばちっ、と電線がはじけたような音がした。
視線を走らせる。周囲の様子に、変わったところはない。まだ〈虚像〉も出現していない。
そのとき、地面が大きくゆれた。ナオコは地面に手をついて、顔をあげた。
みるみるうちに、コンクリートに蜘蛛の巣のようなヒビが入る。破壊音と共に、地響きが響きわたる。美術館の前庭から、太く白い触手が、勢いよく突きでた。粉塵が舞い上がるなか、二本、三本、四本と増える。お互いに絡み合い、やがて、一つの塊になった。
美術館のまえに、巨大な白い樹木が植わっていた。肌なみの下に、血管の赤が、透けてみえる。
枝先に、灰色の葉が密集している。粘液をしたたらせて、地面に痕をつけている。
鳥肌がたつ。
風もないのに振動している葉のすべてが、〈虚像〉の瞳であると気づいたのだ。
「なんですか、これ……」
意図せずして、言葉がこぼれた。
「〈虚像〉は、胎児の成長過程をとるはずじゃ」
嫌な汗が、こめかみを伝う。
右上から、影がさした。反射的に左横に飛ぶ。地面をえぐるような衝撃が、足元を震えさせる。コンクリートの断片が、頬を引きさく。
パイプほどもある太さの枝が、深々と突き刺さっている。ゆっくりと抜ける。密集した瞳たちが、乱暴に振動しながら、ナオコを見つめている。
右腕をつかまれる。後ろを振り返る間もなく、ナオコは、竜巻に出くわしたような勢いで、放りだされた。横を、山田が走りぬけていく。彼が体をかつぎあげて〈虚像〉と反対方向に投げたのだ。悲鳴すらあげられないままに、吹っとんでいく。
地面に激突する。なんとか受け身はとれたが、肩が痛い。よろよろと立ち上がり、クラブを握りなおす。
〈虚像〉を見上げる。山田が、攻撃を受けながらも、枝を伝って登っていく。
ナオコは、なんとなくだが、彼の意図がつかめたような気がした。
ためらいもせずに、走りだす。山田のように特別な身体能力はなくとも、機敏なほうだという自覚はある。
巨木の根本に走りより、クラブを幹の側面に叩きつける。すると、彼を攻撃していた枝の先端が、くるりとナオコを指した。
頭上から、いっせいに槍が降りそそいだようだった。地面が削り取られ、破片が顔や手に裂傷を生む。それでも枝の猛攻を、必死で避ける。
訓練と一緒だ。大丈夫。冷静にやれ。大丈夫。心の中で呪文のように唱えながら、近づき、殴り、離れ、という動きをくり返す。
〈虚像〉が、ナオコに攻撃しているあいだに、山田は巨木の頂点に辿りついた。幹の密集している内部にすべり落ちる姿を、目視する。
〈虚像〉から距離をとろうと、身を反転させる。
そのとき、左足に、鉄の棒を撃ちこまれたような衝撃が走った。とっさに右足で踏んばる。目の前がチカチカする。
左足のふくらはぎが、串刺しになっていた。口から「うわあ」と、気のぬけた声がでた。痛すぎて、悲鳴すら出なかったのだ。
〈虚像〉は、自分の身におこった違和感を表現するかのように、幹をよじらせて、枝を振りまわしている。かん高い超音波のような音が、辺りを包んだ。
なにかが引き裂かれる音がした。
〈虚像〉は、現代アートさながらの奇妙な形になっていた。枝すべてが、その幹自身に深々と突きささっている。山田が樹の内部から攻撃したために、自滅したのだ。
根本から、灰色の粘液があふれだした。コンクリートのひび割れを伝って、地面を流れだす。〈虚像〉は、枝を自分の体から抜こうと、けいれんし、やがて動きを止めた。
幹の間から、山田が飛びでた。彼の背後で、幹が乾いた音をたてて、割れた。
枝の端から粉雪のように溶けていく〈虚像〉をみて、ナオコは、その場にへたりこんだ。
「よかった」と安堵の声をもらすと、左足に激痛がはしった。
唇をかんで、悲鳴をこらえる。おそるおそる患部を見た。
暗いうちにも、スーツがぐっしょりとぬれていることが分かる。痛すぎて、足があるというよりも、なにか痛みの塊が、そこにあるようだった。
〈鏡面〉から出たはずなのに、先程よりも、ひどい寒気を感じた。深呼吸を試みて、気が遠くなりそうなのを、必死でとどめる。
駆け寄ってくる足音が聞こえた。息をのむ音。肩を強く掴まれ、山田が顔をのぞきこんだ。見開かれた目と、視線が合ったのは一瞬だった。
彼はジャケットを素早く脱ぎ、傷口に強く押しあてた。悲鳴をあげそうになる。開いた口に、なにかが突っ込まれる。失神しかけていた意識が戻った。
「噛め」
彼は患部を抑えつけたまま、一言つげた。その左手は、ナオコの口の中にある。目を白黒させながらも、言われるがままに噛む。
しばらく、そうしていただろうか。複数人の足音が聞こえた。かつぎあげられて、口から山田の手が抜ける。かすかに血の味がした。
薄らぐ意識のむこうで、話し声が聞こえた。
「ああ、もう無理だ。ナオコくんに〈芋虫〉は務まらない。わかったな? わかったなら、そう手配しろ……」
担架に乗せられた。ナオコは、手をのばそうとした。
結局のところ、やはり自分は役立たずなのだ。だが、迷惑をかけてごめんなさい、と、謝りたくとも、彼は遠い。
だれかが、手をつかんだ。
「ナオコくん、大丈夫だからね」
山田さんだろうか、と疑う。
「大丈夫、大丈夫だから」
手のひらを、ほのかな体温がつつんでいく。すこしだけ安心して、それで、手の持ち主が山田でないと気づいた。彼は、こんなに優しい温度を持っていない。
「大丈夫……ぼくが君を」
なにか言葉がつづいたが、聞こえなかった。手のひらがぎゅっと結ばれる。
声のひびきに、不思議な気持ちになった。
その声は、山田にそっくりだった。
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