アルコールにあきらかは不要

 その晩、出動命令はかからなかった。

 退勤時刻である午前五時、彼らは玄関で待ち合わせをして、渋谷にある二十四時間営業の大衆居酒屋へ足をはこんだ。いつもケビンと飲みに行く店で、こじんまりとしながらも、昭和の雰囲気ただよう良い店だ。

 のれんの前に、赤いビールケースが積んである。店内では、大学生のグループが一組、大声で語りあい、飲みすぎたおじさんが二人、つぶれていた。さわやかな朝とは、ほど遠いのんべえたちが、夜も朝も忘れて飲み明かしているのだった。


 そのなかで、ナオコたち四人は、ひときわ目立って大変なことになっていた。


「兄ちゃん、よくのむねぇ」


 一番奥まったテーブル席に、大将がとっくりを置いた。汗と涙と酒が染みこんだ机に、食べかけの軟骨のからあげ、枝豆、フライドポテト、海藻サラダ、そして、それらの皿が隠れてしまいそうなほどに、おびただしい量のとっくりが並べられている。


「うち来るのはじめてだよね? こんなに飲むお客さんなら、おぼえてるだろうし」

 空のとっくりを回収しながら、大将が豪快に笑った。


「そうだろうな」


 さらりと言いながら、とっくりを掴んだのは、山田だった。


「相浦、ほら、大好きな酒だぞ。飲め」と言って、ケビンのおちょこに酒を注ぐ。

 ついで、自分の酒をぐいっとあおいで、挑発的に笑った。

 ケビンは、泥酔寸前だった。完全に据わった目をして、おちょこを手にとるので、由紀恵が止めようと手をのばした。


「もうやめなさい。倒れられても、わたしじゃ連れて帰れないわよ! 路上に放置して帰っちゃってもいいの?」


「あー、だれが倒れるってェ?」と、くだを巻き、一気飲みをする。

「おれは、まだ、いける」


 今度はケビンがとっくりを手にとり、酒を注いだ。山田は薄笑いをうかべて、今にもひっくりかえりそうな青年を眺めている。

 由紀恵はため息をついて、すでに隣で死に体になっているナオコの背中をなでた。


「ナオコちゃーん、起きてー、わたしだけじゃこの状況、どうにもできないわよ」


「ううん……」


 由紀恵に迷惑をかけているようだ、とは分かったものの、言葉が出てこない。ここまで酔ったのが初めてで、自分でも混乱していた。




 店に入った直後、ナオコはやる気に満ちていた。どうにか山田を酔わせ、ヒントを得てやろうという気だったのだ。

 しかし、席に着いて30分たった頃だった。


「酒に強いんだろう?」と、山田が日本酒をさし出した。

「君の飲みっぷりが見たい。普段は、おとなしいほうだからな。意外と、君のような女子のほうが、飲める口だったりする」


「ええ、まあ」ナオコは、すこし気分がよくなって、うなずいた。

「そういうことって、ありますよね」


「よかったら、俺と飲みくらべしよう」


 そこで警戒すればよかったのだが、山田にしては珍しく、にこやかに提案するので、ナオコは嬉しくなって了承してしまった。


「もちろんです。負けませんよ!」などと、自信満々で彼のあおりに返した。

 これまで、酒に強い体質をどう思ったこともなかったが、仕事に使えるのならば、使うにかぎる。


 そう思って、山田のペースにあわせて飲んでいた。とっくりが並び、大将が回収し、もう一度並び、回収する。

 ようやくナオコは危機感をいだいた。これは飲みすぎだ、と警鐘を鳴らす。ただ、もうすでに頭の芯がぽうっとしているうえに、山田はあいかわらず平然として「もう終わりか? つまらん」などと言う。それで、自分もまだ飲めるに違いない、と思ってしまった。

 由紀恵とケビンが止めたが、その30分後には、ナオコは机に沈んでいた。


「ナオコくん、あまり無理はしないほうがいいぞ」と、優しげなことを言いつつ、それから数えて5回は、なかば強制的に飲まされ、再起不能だ。


「おーし、中村、おまえの仇はとる」

 と、息巻いたケビンもロシアの血をかけて山田に挑んだ。しかし、今しがた飲んだ一杯によって、ついに起きあがらない。


 若い二人が机と同化したすがたを眺めて、由紀恵が「体質?」とたずねた。


「あきれるほどに強いわね。こんなに飲んでも酔えないなんて」


 山田は肩をすくめて、枝豆をつまんだ。そして、半分寝かかっているナオコを見て、

「どういうつもりなんだ、彼女は」と、つぶやいた。


「あなたと仲良くなりたいんですって。もっと、ナオコちゃんに優しくしてあげなさいよ」


「優しくしているじゃないか」と、あざける。

「こんなにも使えないのに、まだ解任すらしていない」


「あら、そうね」


 由紀恵は、くすりと笑った。


「山田さんが、こんなに気をつかう人間だったなんて、わたし、初めて知ったわ」


 ナオコの意識が、ぼんやりと戻った。

 なんとなく、山田たちが、普段はしないような会話をしている気がした。耳をすまそうと頑張るも、頭がずきずきと痛いせいで、会話内容がするすると抜けていく。


「男の子って、いつもそうね、優しくする方法をわかっていない……」

 妖艶な声だった。

「あら、そういう顔すると、あなたもまだ若いわね」


「……年の功には勝てないな。新藤先輩に、優しくする方法をご教授願いたい」


 山田の声は、穏やかだった。由紀恵と話しているからだろうか、とナオコはぼんやり思った。眠気がおそってきて、目をとじる。






「ねえ、せっかくの機会だから、聞きたかったんだけど」


 由紀恵が、なんでもないことのように話はじめた。


「それ、大丈夫?」


「それ、とは?」


「だから、それ。見えているわよ。気づかれないと思ってた? わたしだって、山田さんほどじゃないけど、そこそこ古株よ。見たことくらいあるわ」


 山田の無言がつづく。


「べつにわたしは構わないけど、ナオコちゃんには、言ったほうがいいんじゃないかしら。相棒でしょう?」







 がたん、と椅子をひく音がした。ナオコは驚いて、すこしだけ覚醒した。

 だれかが席を立ったようだ。


「大将? 支払いをたのむ」


「ねえ、ナオコちゃんは、あなたが思うよりも、ずっと強いわよ。なにをそんなに意固地になっているの? あなたらしくもない……」


「老婆心だな、新藤。君も年をとった」


 ナオコは、不穏な空気を感じとって、顔をあげた。ずきん、と脳に針が打ちこまれたような痛みがはしる。


「いたぁっ」と、叫んだ彼女を、ふたりがぎょっとしてふりかえる。


「な、ナオコちゃん。だいじょうぶ?」由紀恵が心配して、肩に手をおいた。


「だ、だいじょうぶです……すみません」


 飲みすぎると、こういう風に頭が痛むのだな、とナオコは思った。照れ笑いをうかべて、山田を見あげる。なぜか、表情が硬い。


「やまださん?」


 まだぼんやりとしているナオコが、首をかしげた。すると彼は、狼狽したように目をそらし、すぐに、ぎろりとにらみつけてきた。


「禁酒だ」


「へ?」


「上司として言うぞ……禁酒しろ。女子がそんなふうに正体をなくすまで飲んで、みっともない。寝酒もやめろ。以上」


 ぽかんとしているナオコを後目に、彼は去っていった。


「ふふ」と、由紀恵が急に笑いだした。

「なにあれ……すごいわね」


「え、ええ。え?」


 なぜ禁酒を命じられたのか、理解できなかった。なにがおかしいのか、由紀恵はケラケラと笑っている。


「あの、いったいなにが。というか、なにかあったんですか?」


「うん。飲みすぎは良くないって話をしていたのよ」


「はあ」


 それはそうだ。ナオコは、それを今日、身をもって知った。

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