話を聞かないタイプ

 翌日、ナオコは胃痛と戦いながら仕事をした。

 なにせ二十五年間生きてきて、だれかをこっそり偵察したことなどない。

 彼女には、マルコの意図が分かっているつもりだった。

 昨晩のあれは、脅しだ。

 いや、脅しなんて表現は、彼に申し訳ないかもしれないが、しかし、警告ではあったろう。マルコは、特殊警備部のお荷物であるナオコに、彼の言葉を借りるとのだ。

 山田をうまく探り、成果を出さないことには、お役御免かもしれない。ナオコは、悲痛な気持ちだった。そうでもなければ、偵察なんて、大事な仕事を任せるはずがないと思っていた。


 幸か不幸か、仕事中、山田と会話らしい会話をしなかった。

 本日の彼は、いつも以上に不機嫌そうだった。むっつりして、ナオコに構う気がなさそうだった。そのおかげで、戦闘中も、いつものような邪魔はなかった。

 渋谷駅構内に出現した爬虫類型の〈虚像〉を始末したあと、多少なりとも貢献できたことに、彼女は胸をなでおろした。

〈鏡面〉をぬける。帰宅する人の群れを避けて、二人は工事中の布が張られた、壁際に寄った。


「宿直か」


 山田が、うんざりしたように言った。きびすを返して、早足で歩きだす。

 ナオコは、あわてて声をかけた。


「山田さん、ちょっといいですか」


 虫の居所が悪い彼に声をかけるには、たぶんに勇気が必要だった。しかし、さし迫ったクビの危機のほうが、彼女には恐ろしかった。


 かえりみる姿から立ち上る不機嫌そうなオーラに威圧されながら、

「一緒に帰りましょう?」と、精一杯の笑顔をうかべる。


 彼は、眉をひそめた。ナオコは激しく後悔したが、いまさら言葉は取りさげられない。これはだめだろうな、と諦めて、断りの言葉を待つ。


 しかし、山田は、ちらっと彼女に視線を投げてから、

「急げ」と言い、また歩きはじめた。


 きょとんとする。これは、一緒に帰社することを許された、という解釈でいいのだろうか。彼女は、少々驚きながら、山田を小走りで追った。


 帰宅する人々の混雑を、山田はするすると抜けていく。

 ナオコは、やっと彼に追いついて、少し後ろを歩いた。


「どうしたんだ」彼は、前を向いたまま、いきなり話しかけた。


「はい?」


「なにか話したいことがあったから、呼びとめたのかと思ったんだが?」

 後目で、彼女をみる。

「それとも、ついに会社までの道のりを忘れてしまったのか?」


 あいかわらずの言いぐさだった。


 ナオコはむっとして、

「山田さんは、わたしがニワトリかなにかだと思っているんですか」と、怒った。


 ただ、話したいことなどない、と否定するのもおかしい気がして、

「今朝のことなんですけど」


「今朝?」


 彼は、訝しむようにくりかえした。


「仕事、紹介してくれたじゃないですか。あれ、断りますからね」


 白々しい青年の顔を見すえて、断固とした口調で告げる。

 そのとき、前方から来た大学生らしき青年と、思いきり衝突した。よろけるナオコに、青年が舌うちをして去っていく。

 山田は盛大なためいきをついた。ナオコのシャツの後ろ首が、ぐんと持ちあがる。

 彼は、えりをつかんで、囚人を連れていくかのように歩を進めた。


「ちょ、これ、やめてください!」


 暴れると、彼はあっさり手を離した。そして、こめかみをおさえながら、

「条件がよくなかったか?」と、たずねた。


「は?」


「一度あげた生活レベルを下げるのは、困難だと聞く。そう考えると、君がスキルに見合っていない給料を得ていることは、はなはだ不幸だとも言えるが……」

 また、ためいきをつく。

「まあ、それはいい。そういうことなら、もっと良い案件を探す」


 手に負えないわがまま女だとでも言うかのような口ぶりに、ナオコはかちんときた。


「山田さん、いつからわたしの就活エージェントになったんですか?」

と、目を三角にする。


「転職はしないって言っているじゃないですか」


 バスロータリーに着いた。言い争う二人を、前に並んでいる人たちが、好奇心でちらりとみた。


「無職になるのが嫌だと言ったじゃないか」と、山田がにらんだ。


 ナオコは、ようやく彼の意図をつかんだ。

 どうやら、自分が無職になって路頭に迷うのがいやだから、仕事をやめたくないと思っているようだ。


「あれはそういう意味じゃないです!」


 こぶしを握って、うったえかける。

 山田は、苛立って舌打ちした。


「では、どういう意味なんだ。説明しろ」


 そこで、ナオコは違和感を感じた。

 どうにも今日の彼は、おかしい。普段の彼は、こんなに感情をあらわにしない。皮肉と嫌味の塊ではあるが、たいてい真顔で、今日のように、露骨に苛立つのは珍しい。

 そのことを、山田自身も感じたのだろうか。


 彼は、片手を額にあてて、

「もういい」と、疲れきったようなためいきをついた。心底しんどそうな感じだった。


 しかも、それから山田が嫌味すらなく黙りこんだので、ひとかけの罪悪感を感じた。

 彼を疲れさせている原因には、自分にも非がある。もっと仕事ができれば、もっと彼にふさわしい相棒であれば。そんなことを、つい思う。

 ナオコは、バスに揺られながら、マイナス思考におちいる考えを押しとどめた。

 今は、マルコから与えられた仕事を遂行するしかない。山田がなにを考えているか、少しでもヒントを得なければ。


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