第10話
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時間いっぱいまで相手の怒鳴り声を聞き続け、受付事務は終わった。
望月さんは早退だ。窓口業務の結果はややマイナス評価。
まったく、どうやればもっと上手く出来たのだろうか。僕には見当もつかない。
昼休み。精神的に疲れて甘いものが欲しくなり、僕は幾つもの菓子パンを皿に並べた。前に座る班長はジンギスカン風の炒め物。
「偉そうなことを言ったんだから、もう少し状況をコントロールしろよ」
班長は笑いながら野菜と肉をまとめて口に放り込む。豪快に咀嚼してから軽い皮肉を僕に浴びせかけた。
「人材の確保は大事なんだぜ」
くそう。その言葉は意外と痛く刺さった。僕は菓子パンを口の中に押しむ。
小麦粉とチョコレートの甘さが、僕の精神を少しだけ癒してくれた。
「いくらなんでも異常ですよ」
理不尽な怒鳴り声に押し潰されていた心が、反感の力を少し取り戻す。
「一体なにをしたいんですか、あの人は。完全に妄想の世界じゃないですか」
班長は軽く頷く。
「ああ。一般的に言えばアレは病気だな」
その態度が僕を苛立たせた。ついつい僕は不満を漏らす。
「なぜ、あんな人の話を延々と聞き続けなければならないんですか? 補償を求めるというなら、とっとと法務窓口に行くよう案内すればいいじゃないですか」
前回の女性についてはまだ理解できる。あの主張は法律の枠内で、僕たちには応対の義務があった。だが今回は違う。単なる言いがかりでしかない。
サポートAIは、速やかに法的対応に移行することを認めていた。方針が異なる指示を出したのは班長だ。それが原因で、あの戯言を延々と聞く羽目になったのだ。
「指示が不満か?」
班長は食事の手を止めない。
「合理性が見出せません。解決に繋がらない不毛な業務を行うのは資源の損失です」
「何事も経験さ。簡単に見切らず、自分が応対する人々がどういった存在であるか、実際に見ておくことも重要なんだよ」
それはひどく古臭い精神論に聞こえた。
黙りこくった僕を三十秒ほど待ってから、班長は軽い溜息をついて問う。
「お前さ、真実は記憶と記録のどちらにあると思う?」
そんなものは即答できる。
「記録に決まっています。記憶は脳内での再現ドラマのようなもので、毎回シナリオが書き換えられますから」
記憶は基本的に当てにならないものだ。業務における記録の重要性は最初に叩き込まれる。しかし、班長は僕の答えを否定した。
「違うな。記録の中にあるのは単なる事実さ。人にとっての真実はむしろ記憶の中にある。そして、そいつが途方もなく厄介なんだ」
むう。また良く分からない話が始まりそうだ。そう予感した僕は、二つ目のパンに手を伸ばす。
「人間は他の生き物に比べて遥かにVRへの適正が高い。それは知ってるな?」
「視覚情報に頼る部分が多いから、ですよね」
「そいつはあくまでも理由の一つだ。視覚情報がメインの生き物は数多いが、そいつらもVRにはなかなか騙されようとしない。本質的な理由は他にある」
班長は間を取るように、スープを一口飲んだ。
「類人猿まで含めても、人間以外の生き物は空想する能力が無い……あるいはその能力が極めて低い。理由は単純だ。起こり得ないことを脳内でシミュレートする力なんて、生存のためには何の役にも立たないだろ。だから、通常そんな能力は進化しないんだ」
その解説に僕はちょっと疑問を持った。
「未来を想像する能力って、役に立たないんですか? 獲物や捕食者の行動の予測とか。結構重要な気もしますけど」
「予測、そして推測の能力だけなら多くの生き物が持っている。過去の経験と似た出来事が起きることは、そんなに珍しくはないからな。だが、絶対に起こりえない状況を嬉々として空想するのは人間だけさ。羽を生やした美しい天使が自分の目の前に現れて、「あなたが世界を救うのです」と囁くとか、そういう系のな」
うーん。確かにそれはそうだろうけれど。
「人間は脳を高度に発達させて現実を分析する能力を得た。だがその副産物として、他の生き物のように現実をそのままに視る能力を喪ったとも言える。人間は常に、脳という演算装置が映し出した仮想現実の中に生きているんだ。VR機器との相性が良くて当然さ」
「その話とさっきの来庁者が、どう関係しているんでしょう?」
「まあ聞けよ。自分好みの仮想世界こそが人間にとっての真実だ。だからこそ記録よりも記憶の方が正しいと信じる。ところが、だ」
班長は食堂の天井、その一角を指した。監視カメラの位置。
「現代じゃあらゆる行動が機械によって記録に残されている。地球上に生命が誕生してから何十億年も、過去を再現する手段なんて存在していなかった。脳に記憶が可能な生物が誕生して初めてそれが可能になったが、あくまでもその機能は限定的だった。こんな風になんでもかんでも記録が残される時代ってのは、生き物にとっては異常な状況なんだよ」
だから、と班長は言う。
「客観的に見れば記録が正しくて記憶が嘘をついているんだろう。だが、記憶こそが真実だという前提で考えれば、見るたびに記録の方が改竄されているって解釈も哲学的にあながち間違った結論じゃない」
はい? 僕は首を傾げる。
「真実なんてものはそれぞれの心の中にしか存在しないのに、それを外部の機械に委ねて平然としている。ある意味じゃあこの社会は、狂気の世界とも言えなくもないんだぜ」
「あのう。それは、あの人の言うことが正しいっていう結論でしょうか」
「そいつは、正しいとは何かという定義次第だな。まあ、現代社会での一般的な認識としてならアレは病気だ。しかし生き物として考えた時、ある種の正常な反応だとも言える」
やっぱり良く分からない感じになってきた。僕はコーヒーを飲んで、口の中に残ったクリームの香りを洗い流す。
「そういう意味では、見た目ほど奇妙な存在じゃない。前にも言ったろ。職員の業務には市民の精神的ヘルスケアを保つことも含まれる。あの程度の相手なら、素直に怒鳴られるのも仕事の内さ」
僕は先日班長が語った言葉を思い出す。
「泥球の的、ですか」
「ああ。感情をぶつけてくるって事は、理解を求めているってことでもある。だからせめて、相手の話を聴くんだよ」
「話を聞いて、それが解決の代わりになるんでしょうか」
「なりはしないさ。だが、それ以外何も出来ないのなら、そうするしかない」
班長の顔は意外なほどに真剣だった。
「公権力を振りかざして相手を黙らせる。経験が浅いうちからそういった手法に慣れるな。俺達の仕事は理不尽なことだらけだ。ああいう場面を経験することだって、必要なんだぜ」
班長が悪意で指示を出したとは思わない。経験が必要だと判断し、僕にやらせたというのも本当だろう。
だがそれでも、あんな滅茶苦茶を黙って耐える理由としては受け入れられない。
納得しきれない僕に、班長が再び質問を投げかけた。
「お前さ。人間が担当する窓口がAI窓口に比べて優っている部分が分かるか?」
僕は不貞腐れたように答える。
「見当もつきませんよ」
それは紛れもない僕の本心でもあった。窓口業務の中で、人間がAIよりも優秀に仕事をこなせる光景など想像がつかない。
「そいつはな、ストーリーを創れることさ」
僕は怪訝な顔をする。ストーリー?
「AIは自分の失敗を悔やんだりしない。相手の言動に怒りを覚えることも、恨みを抱くことも。だが人間は違う」
僕はますます混乱する。
「それに何か意味があるんですか」
「大抵は無意味だ。だが稀にな。そんな無意味なことの積み重ねが、大きな効果を持つことがある。だからお前も、それを目指してみろ」
まるで禅問答だ。僕は三つ目のパンに手を伸ばす。
「どちらにしても、まっとうな解決策には思えませんね。もう少しこう、正当な業務プロセスで行える内容にならないんでしょうか」
腐り切った様子の僕を見て、班長は笑う。
「そいつは無理だな。諦めろ」
そして、元気よく残りの肉と野菜を掻き込み始めた。
「真っ当な業務プロセスで解決できる内容なら、それこそAI窓口に行った方が早い。あそこで受付をしている時点でどれもこれもマトモじゃない内容ばっかりさ」
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