第2章第9話 出来ないことはできません!

 奥村さんとの蜜日が終わったあと、わたしの普段入っている店舗にやって来たのは、30代前半くらいの男性で、作業着を持ってきた。それがまあ、何の作業をしているのか分からないけれど、随分と薄汚れていた。もちろん、作業着というのは汚してなんぼというところはあるし、汚れたものを綺麗にするのがクリーニング屋の使命だということも分かっている。しかし、


「新品みたいにはなりませんよ」


 できないことはできないわけで、それは客に対しても、はっきりと断っておく必要がある。


 客はちょっと鼻白んだ様子を見せたが、


「そんなことは分かっているよ。新品が欲しければ、新品を買うさ」


 と答えた。さあ、それはどうだか、とわたしは疑わしく思いながらも、その作業着に、できる限り汚れを落としてくれるように書いたメモを貼り付けて、工場に出した。


 その翌日に作業着は返ってきた。工場は頑張ってくれたらしく、新品同然とはもちろんいかないまでも、かなり綺麗になっていた。ビフォー・アフターの写真でも見比べてみれば、一目瞭然、ほとんど奇跡みたいな仕上がりである。しかし、その日受け取りに来た客は、また、翌日にやってきて、


「袖と襟の部分が汚れたままなんだよね」


 とクレームをつけてきた。


「袖と襟ですか?」


 わたしは確認した。確かに汚れていた。

 しかし、クリーニング前と比べると、やはり明らかに綺麗になっていた。


「新品同然にはならないって申し上げましたよね」

 

 わたしは確認した。すると、彼は、


「それは聞いたよ」

 

 しぶしぶといった調子でうなずいたけれど、


「でも、これじゃあんまりだろ。クリーニング前と大差ない」


 と言ってきやがりました。大差ないどころか、ほとんど別物の感さえある。これで大差ないなんて言うなんて、作業着のクリーニングの前に、彼の目の方をクリーニングした方がいいんじゃないだろうか。クリーニング前の写真を撮っておけばよかったとわたしは本当に後悔した。これからは、そうしよう。


「分かりました。じゃあ、もう一回だけお預かりすることにします」


 わたしは、「だけ」のところに、力を入れて言った。客は、それが癇に障ったような顔をしたけれど、何も言わずに帰った。そのあと、50代半ばほどの女性がやってきて、


「ちょっと、これ!」


 と言って、見せてきたのは、薄手のコートだった。白いコートの胸のあたりに茶色のうっすらとした染みができている。これ、と言われただけでは、何なのか分からないので、話を訊いてみたところ、


「この前おたくに出したものなのよ。全然、染みが落ちてないじゃないの!」


 ということだった。見覚えのある顔ではないので、「この前」というのが、わたしがこの会社に入る前とかいうのでなければ、わたしが受け付けた客ではないはずだ。染み関連でクレームをつけてくるということは、うちは染み抜きは専門にやっていないということを、この客を担当した人がちゃんと説明しなかったのだろうと、わたしは思ったが、


「そのときの受付の人が、『絶対に大丈夫です』って自信たっぷりに請け負ったのよ。だから、わたしは出したの。それなのに、こんな状態だなんて、ふざけないでよ! わたしは、何度か念を押したのよ、本当に大丈夫なのかって。それで大丈夫だって言われたから出したっていうのに。わたしをバカにしてるの!?」


 事態はそれ以上の話だった。わたしは受け付けたスタッフを調べた。そうして、その人の名前を見たとき、なるほど、と思った。何でもハイハイ客の言うことを聞きそうな人だったのである。


「何なの、この店は!? 客をだますの!?」


 そんな気はなかったとしても、客側からしてみれば、そういう気になってもしょうがない。わたしは、そんな気は無いと言ったけれど、彼女は納得せず、それから、10分ほど、壊れたラジオみたいに、同じ事を繰り返し続けた。わたしが受け付けたわけじゃないという言い訳はできない――客側にとっては、わたしだろうが誰だろうが、この店のスタッフには違いない――ことを差し引いても、いい加減うんざりしてきたので、


「上司に連絡しますので、少々お待ちください」


 と言って、マネージャーに電話をした。マネージャーのほとんど唯一の美点は、電話に出るのが早いということである。まるでこれによって他の欠点を全て補おうとしているかのようにすぐに出てくれる。わたしは、事情を話した。すると、彼は、ふうっ、とはっきりとため息をついてから、客に替わるように言った。わたしは、その通りにした。客は新たなターゲットに向かって、意気揚々と、わたしにした話をそっくりそのまま一から繰り返した。わたしは、その間、他の客の対応をしていたが、その客の対応が終わったあと、電話をしていた彼女が、わたしに受話器を渡してきた。マネージャーと話をすると、とりあえずもう一度コートを預かって、なおかつ、うちの店舗で使える金券を出してやれとのことだった。


「分かりました」


 と言って、電話を切ったわたしが、マネージャーに言われた通りにしようとすると、


「本当にどうして、できないことをできるなんて言ったの? この店は、客をだます気なの?」


 と彼女は、また同じ話をし始めた。


 わたしは、さっき聞いた話とほとんど同じ話をまた初めから聞くことになった。

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