第2章第8話 人を痰つぼ扱いするな!
翌日も、わたしは、同じ店舗で、奥村さんと一緒だった。はあ、楽すぎる。ずっと奥村さんと二人だったら、まあ、客からのクレームによるストレスはあるにせよ、それ以外の点では、めちゃめちゃストレスフリーなことだろう。
「奥村さん、この店って、一人足りないんだよね?」
わたしが訊くと、奥村さんは、うん、とうなずいた。
「なかなか人が入らないみたいで」
「わたし、こっちに来させてもらおうかな。マネージャーに言ってさ」
そう言うと、奥村さんは難しい顔をした。
「わたし、来ちゃダメ?」
ひょっとして嫌われているのかなと思って訊いてみると、奥村さんは、慌てて手を振った。
「違うよ。そうじゃなくて、原川さんは、わたしと同じで正社員だから、難しいんじゃないかなと思っただけ」
「正社員は各店舗に分散して置いておきたいってこと?」
「会社としては、そうなんじゃないかな?」
「そういう風に正社員とパートを分けるって意味ないよね。だって、能力がある人が必ずしも正社員になっているってわけでもないじゃん」
「それは確かに……」
「ま、わたしたちは、能力がある正社員だけどね」
わたしが胸を張ると、奥村さんは苦笑した。
その日の午後に不思議な客が来た。もっとも、クリーニング店の客は、ほとんど不思議な人ばっかりだけどね。身なりは普通の、40代の女性なんだけど、
「クリーニングに出した息子のスーツが縮んでしまったみたいなんです」
と言う。それ自体は大したクレームじゃないんだけど、問題は、そのクリーニングというのが、二年前に行ったものだというのだ。
「二年前ですか?」
「はい」
と彼女はうなずいた。二年前にクリーニングに出したスーツを店から受け取ったあと、この二年間一度も着ずに、ずっと大事にしまっていたのだろうか。まずもって、そこからして怪しいし、
「申し訳ありませんが、当店では、規約にございます通り、クリーニングに関する補償期間は三ヶ月とさせていただいています」
ということになっていることを、奥村さんが丁寧な口調で言っていた。
女性はそれに対して抗弁するようではなかったけれど、二年前に出したそのとき「デラックス仕上げ」という特別な仕上げ方をしたのに、どうして縮んだりしたのだろうか、と声を荒げるわけではないのだけれど、グズグズやり出した。
奥村さんは、いちいち相づちを打っていたが、そんなことが10分近くも続いたので、
「あのお」
わたしは口を出した。こちらを向いた女性に向かって、
「単純に息子さんが太ったんじゃないんですか?」
と言ってやった。
女性はまるでそんな可能性を考えていなかったかのような虚を突かれた顔をした。いやいや、それが一番ありうる話でしょとわたしが思っていると、彼女は、ムスッとしたような表情になって、
「そちらはミスをしていないと言いたいの?」
と訊いてきたので、
「いえ、そうは言っていません」
本当はそう思っていたが、一応否定したあとに、
「こちらのミスかもしれないし、息子さんが太ったからかもしれないって言っているだけです。こちらのミスかどうかはもう確認ができないので、せめては、息子さんの体型が変わっていないかどうか確認してみたらいかがですか?」
そう言うと彼女は、息子の体型については何とも言わず、
「こういうチェーン店じゃなくて、個人のクリーニング店に出した方がいいのかしら?」
とあてつけるように言ってきた。わたしは、
「うちは即日仕上げが基本ですから、もしも時間がかかってもいいからとにかく丁寧に仕上げてほしいというなら、その方がいいかもしれませんね」
とはっきりと言ってやった。本当のことだからね。それを聞いた彼女は、なおもぶつぶつ何か言っていたけれど、結局、持ってきた衣類をクリーニングに出して帰った。
「なんだかんだ言って出して行くなら、なんだかんだ言わなきゃいいのに」
わたしが言うと、
「スーツが縮んでいて悔しい気持ちを吐き出したかったんだね」
奥村さんが答えた。
「吐き出し先にされても困るよ。わたしたち、痰壺なの?」
「え、なに?」
「た・ん・つ・ぼ。たんを吐き出す入れ物だよ」
「ああ……そう言われると、確かに」
何がおかしいのか、奥村さんは微笑した。
「わたし、グズグズ言う人ってさ、痰を吐いているのと同じだと思うんだ。他人に痰を吐きかけて平気な人が多すぎるよ。この国のマナーはいったいどうなってるの?」
わたしが続けると、奥村さんは、なるほど、とうなずいて、
「一つ学びました。わたしも気をつけないと」
と言った。
「奥村さんはそんなことしてないでしょ」
「どうかな。してるかもしれないよ……でも、原川さん、その筋で行くと、身近な大事な人に愚痴を言うことは、その人に痰を吐きかけているのと同じことになって、身近な大事な人にほど愚痴を言うことはできないことになるね」
奥村さんが考えながら言った言葉に、わたしはうなずいた。確かにそういうことになる。身近にいる大事な人にほど愚痴はついてはいけない。これはなかなか厳しいルールだろうか。どうだろうか。身近に大事な人などいないわたしにとっては、よく分からなかった。ま、カレシでもできたら分かるでしょ。その時の楽しみにしておこう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます