第29話 染み抜きと感謝の言葉
「この染み、落ちる?」
その日の夕方に来店されたのは、60代の女性だった。
ブラウスを始めとして、数点染みが付いているものがある。どうやら、ラーメンの汁らしい。ラーメンの汁の染みが落ちるかどうか、わたしは、正直に、
「分かりません」
と答えた。うちの店では、染み抜きに特別料金を取っておらず、無料で行っている。無料で行うということは、染み抜きを専門にはしていないということで、厄介な染みは落ちないのだった。ラーメンの汁が落ちるのか落ちないのか、うちの技術では、やってみないと分からない。
できないことをできるようにいうのは詐欺であるので、わたしがはっきりとそう言ったところ、とりあえず出してみるということになった。
案の定、染みは落ちなかった。
再預かりして、もう一度工場にやってもらったけれど、やはり落ちない。
「いつもやってもらっているところでは、しっかりと落としてもらえたんだけどねえ」
数日して来店された彼女がため息まじりで言うのに対して、
「じゃあ、そのいつもやっているところに持って行ったらどうですか?」
という声が聞こえた。
わたしは、うっかり自分の心の声を漏らしてしまったのかと思ったが、そうではなくて、それは、隣の原川さんの声だった。そうはっきりと言わなくてもと思ったけれど、客は、気に障った風でもない。原川さんの声が、皮肉ではなくて、心からそう思っているように聞こえるからだろう。
「それができたら、そうしていますよ。個人でやっているお店なんだけど、このごろ店を閉めちゃってね。それでこっちに来たのよ。まあ、仕方ないわね」
そう言って、客は帰っていった。なんとかしてあげたい気持ちはあるものの、これ以上はなにもできないので、見送るしかなかった。
同じような客が数日後もう一人現われた。30代後半くらいの男性は、ワイシャツを20枚くらい持ってきた。そのどれもが薄汚れていて、もちろん、クリーニング品というのは汚れているのが当たり前なのだが、それにしても、ひどかった。特に、首回りの汗染みが濃く、まるでアクセントにするために初めから黒く色づけされているようにさえ見えた。
ワイシャツは普通、一日で仕上げられるのだけれど、あまりに汚れがひどい場合は、二日いただくことになっている。その旨、ご説明差し上げて、いざ二日後に戻ってきたそのシャツを見て、わたしは愕然とした。染みはほとんど変わっていなかった。これ、本当にクリーニングしたのだろうか、と疑いたくなるようなレベルである。引き取りに来た客も同じ感想を抱いたようで、無言でいるところに、
「もう一度お時間いただけないでしょうか」
と再預かりを申し出てみた。
お願いします、と言った客は、しかし、少しして戻ってきて、
「あの……明日着なければいけないことを思い出しまして、一枚だけ返していただけないですか」
と言うので、わたしは、その20枚の中から、最もマシなものを、お返しすることにした。
「あれはもう一回やってもムダね」
藤井さんが爪に息を吹きかけながら言った。
「シャツの寿命だわ。二日後にあの人取りに来たら、そのときわたしいるから、遠回しに言っておくわ」
徐々に暑さがぬぐわれてきた9月の中旬に、一人のお客様が来店された。60代の女性で、大量に衣類を持ってきた。店の売り上げがあがって、今月の目標金額に到達するのが容易になると思っていたところ、
「この前出したもの、間違ってたから、キャンセルしてほしいのよ」
と来た。
以前にも同じようなことがあったことを、わたしは思い出した。
常々わたしは思っていることなのだけれど、いったん契約が成立している限りは、簡単にキャンセルなんてできないのは、常識ではないのだろうか。たとえ、それが、間違いだとしても、それは向こうの間違いであって、どうしてこちらがそのミスを負担しなければいけないのか。
わたしは、すでにクリーニング済みなので、返金はできませんとお答えした。すると、向こうは、
「本社に電話するからね!」
と息巻いている。本社でも、警察でも、消費者センターでもどこでもかければいいと思ったわたしは、とはいえ、これから起こるマネージャーとのやり取りを考えてうんざりしていたけれど、今回は運がいいことに、
「母が無理を言って申し訳ありませんでした。一度お願いした限りは、キャンセルなんてお話にならないのは分かっていますので」
とその娘さんらしき40代の女性が引き取りに来てくれた。そうして、重ねて、別のクリーニング品を出していってくれた。
暑さが引いてきてからぶり返すように暑くなったある晩のこと、30代の後半くらいの女性がやってきて、クリーニング品を出していったあと、
「わたし、このお店のほかにも、クリーニングを出していたんだけど、この店だけにすることに決めたわ。このお店のあなたや他の人の対応がとても気持ちよかったから」
と言ってくれた。
わたしは、思わず目の奥が熱くなるのを感じた。自分がしてきたことが間違っていなかったということが、もちろん、この人一人のことで、完全に肯定できるわけではないけれど、それでも、その可能性は手にできたということだった。今のわたしにはそれだけで十分だった。それだけで、明日の仕事に向かうことができる。
「ありがとうございました」
感動のために一拍遅れてお礼を言ったときには、その客はすでにスーパーの出口へと向かっていた。
※ここまで読んでくださって、ありがとうございます。次話からは、主人公が変わります。
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