第28話 ギリギリの客と陣中見舞い
そろそろ8月も終わり頃になって、夜、受付時間ギリギリに来た客がいた。
「あの、まだ大丈夫ですかね?」
40代くらいのその女性は、どこか怒ったような顔つきをしている。一日仕事なり家事なりをしていれば、そうそう機嫌良くはいられない。特に気にもせず、大丈夫ですよ、と答えたわたしは、彼女が持ってきた大量の衣服を見て、
「いつもありがとうございます」
と礼を言った。
「こんなギリギリに来られて、迷惑でしょ?」
彼女はつんけんした声で言った。
受付時間外に持ってこられたら迷惑……というか、そもそも受付できないのだが、どんなにギリギリだって、時間内であれば、何の問題も無い。その分は、全て店の売り上げにもなる。それに、別に嫌がらせでギリギリに持ってきているわけでもないだろう。事情があって、この時間しか持って来られないのかもしれない。
わたしは、迷惑などということは決してないこと、この辺りに数あるクリーニング店から当店を選んでくださって嬉しい、ということを彼女の目を見て、伝えた。すると、客は、眉をゆるめるようにして、表情を崩すと、
「実はね、この前、同じようにこちらに持ってきたとき、明らかに迷惑そうな顔をされたのよ。それで、ちょっと腹が立っててね。そのときいたのはあなたじゃなかったのに、あなたに当たっちゃって、ごめんなさいね」
言った。
わたしはギョッとして、すぐに謝罪した。
すると、機嫌を直した客は、あなたがいるときに持ってくるわ、と言ったけれど、わたしのシフトを教えるわけにもいかないし、そもそも、そんなクリーニング品を持ってくる日を限定するなんてことは、彼女の不利益にしかならない。わたしは、店長に成り代わって、
「本当に申し訳ございません。二度とそのような対応をしないよう徹底いたしますので、いつでも、いらしてください」
と言っておいた。
客が帰ったあと、わたしが、その客の対応をした人を確認してみると、この店のレギュラーではなく、店長候補として研修中の沢口さんだった。自分が店長になる店でも同じ対応をして、客を一人失うつもりなのだろうか、と思うと、げんなりしたわたしは、翌日はお休みだったので、連絡ノートに事の次第を記しておいた。
9月に入ったが、全く過ごしやすくはならなかった。スーパーにクレームをつけて以来、クーラーがちゃんと入るときが増えた(それでも、いつも入っているわけではない)ので助かってはいたが、暑さと忙しさで、どうしても疲れが溜まってしまったときに、
「お疲れ様。これ、みんなで飲んで」
と課長がジュースを差し入れしてくれたのはありがたかった。管理職の中で唯一の女性である課長はフットワークが軽く、ちょこちょこと店舗を見回っては、陣中見舞いをしてくれて、
「何にも持ってこないで、ただ無駄話していく、マネージャーとは、大違いだよね」
と評判が良かった。わたしも、例の飲み会のとき以来、それまでも課長には好感を持っていたけれど、ますます好感を持つようになった。言っては悪いが、もしも課長がマネージャーと同類の人だったら、つまり、わたしの直属の上司と、そのまた上司が尊敬できない人だったら、この仕事は長くは続けられないかもしれなかった。と言っても、まだ5ヶ月しか続けていないので、この先長く続くかどうかは分からないわけだけれど。
「あなたのことはチーフからよく聞いているわ。これまで通り、お客様を第一に考えつつも、誰かお一人を特別扱いしない、という点を踏まえて、あなたの思うように頑張ってね。何かあれば、わたしが責任を持つから」
課長がわたしをしっかりと見ながら言った。
わたしは感激した。以前、父から、
「赤心を
という言葉を聞いたことがあった。それは、他人にまごころがあるということを信じて、他人のことを疑わない、という意味だけれど、まさにその言葉通りのことを、課長から言われたような気がした。
チーフとはうちの店長のことで、話によると、店長を抜擢したのがこの課長だったらしかった。店長に直接聞いてみたことはないけれど、それは、確かにそうだったのだ、とわたしは、そのとき確信した。
課長はそれだけ言うと、タグという認識票をクリーニング品につける仕事を手伝ってくれた。もちろん、それは、わたしたちの仕事であって、課長が手伝う義務なんて無いわけだけれど、義務に無いことを、しかも、手際よくやってくれれば、好意はさらに高まらずにはいられなかった。
「ああいうところも、マネージャーとは大違いね」
わたしの隣で、遠野さんが言った。
「あの、素朴な疑問なんですけど……どうして、他の人がマネージャーをやらないんですか?」
「ああ、あの人ね、誰かのコネで入社したみたいなのよ。だから、あんな程度でもやれてるわけよね」
遠野さんは辛辣なことを言ったが、そもそもそれは、わたしの質問への答えだったわけで、わたしも相当人が悪くなってきたかもしれない。わたしが、そう言うと、
「そんなことないってば。ムカつく人のことを、『ムカつく』って言うのは、すごく健康的なことだと思うよ。嫌いな人のこと、好きな振りするのって、すごく不健康だと思う」
遠野さんは、実に健康的な笑みを見せてくれた。
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