第11話 五月の始まりと二つの問題

 初日の問題は、背広だった。


「明日、出張で持って行くから、当日の仕上がりでお願いします」


 とラフな格好で現われた、30代後半の男性は、会社勤めをしているようにも見えなかった。午前中にオーダーがあって、普通のクリーニングでよければ、当日の仕上がりが可能なこともすでに書いた。承諾して受け取ったわたしは、昼過ぎに、工場からその背広に関して、連絡を受けた。


「糸が劣化してたのかな、背中の部分が破れちゃった」


 それを聞いたわたしはパニックに陥りかけた。事情も事情だし、それまでの間に、4月の時同様次から次へとやってくる客に対応していて疲労していたのである。とりあえず、わたしは、客に連絡することにした。事情を説明して、リフォームのために、時間をいただきたいと言うと、


「いや、困ります。背広はあれ一着しかないんですよ。何とかしてくださいっ!」


 と言われた。受話器を置いて途方に暮れるわたしに、


「何で一着しか持ってないんだろ。スーツが一着しか無いなんて、社会人失格じゃん」


 と遠野さんが言って、もう一度工場に電話して、事情を話して何とかならないか訊いてみるように勧めてくれた。


「何とかなりますかね?」


「確か、うち、リフォーム専門の人がいるから、もしかしたらだけどね」


 他にできることもないので、ダメ元で工場に連絡してみたところ、遠野さんの言った通りになった。背広は無事、綺麗な状態で戻ってきた。


「ありがとうございました」


 と工場長にお礼を言うと、


「気にしないで、何かあったらいつでも言うのよ」


 と温かな言葉をもらった。わたしは工場への感謝を形にして、翌日の休みの日に、二回目のお給料を使って、工場に差し入れを持って行った。


 初日の問題に比べれば、三日目の問題は、問題それ自体としては小さいかもしれないが、問題から受けるストレスは大きかった。


 5月のセール三日目も、青天に恵まれて、客がどっと押し寄せてきた。午前中から津波のように襲いかかってくる客にあっぷあっぷしていたところ、他店舗から応援に入ってくれていた人が、


「ごめんなさい。息子が遊んでて骨折したみたい。今すぐ病院に来てくれって」


 と言って、風と共に去って行った。セール時には基本的に三人で対応するところ、これで、二人になったわけである。4月のセールの最終日と同じ状況になったのだ。


「やー、マジか……これはちょっとキツいかもね」


 一緒に入っていた遠野さんは、マネージャーに連絡して、もう一人応援を頼んだのけれど、どこの店舗だってセール中なわけで、すぐには回せないとのことだった。


「あー、もう! こういうことを見越して対応を考えておくのがマネージャーの仕事でしょ! あれもできない、これもできないって、じゃあ、一体何ならできるのか、教えてよっ!」


 遠野さんは毒づいた顔をすぐに営業スマイルにして、あらわれた客へと向かった。二人いるからと言って、二人で受付できるわけではない。一人は、今日引き取りに来る客のために、ちゃんと品物が店に届いているかどうか検品しなければいけない。これが三人のときは、一人が検品して、あとの二人で受付できるので、何とか客をさばくことができていたのだけれど、一人ではそれがかなわず、カウンターの前に列ができた。


 セール時に列ができるのはやむを得ないところだが、それにしたって長くなってしまって、しびれを切らしたらしい男性客の一人が、


「おい、二人いるなら、二人で受付しろよっ!」


 と叫び出した。それができるなら初めからしている。まるで、サボッているとでも言わんばかりの物言いに、わたしはムッとしたけれど、失敗は成功の母、以前の間違いを思い出して、


「お待たせして申し訳ありません。一人は、お客様にお渡しするお品物を調べておりますので、ご容赦ください」


 と若干、使った敬語に自信が無いながらも、言い返すと、


「なるほど、それなら仕方が無いな」


 と納得されることもなく、小娘に言い返されたのがしゃくさわったのか、ますます大声を上げて、


「いつまで待たせるんだ、この店はっ!」


 とわめき散らし始めた。どうやら、一度の失敗で次に成功できるほど、この世の中は甘くないのか、あるいは、わたしの能力が低いのか分からないけれど、怒れる男性への対処に迷ったわたしの隣に、遠野さんが立って、受付を手伝ってくれた。すると、わたし一人だけでやっているときの、倍以上の速さで列は小さくなっていった。


 男性が去ったあと、


「ありがとうございました」


 と遠野さんに言うと、

    

「いいのよ。大体、一時間も二時間も待たせているわけじゃないのに、なんであんなに大きな声を上げる必要があるんだろ。腹立つ。それもこれも、応援をよこさないマネージャーのせいよ」


 そう結論づけた彼女に、わたしは、自分が手が遅いこともあって、完全に同意はできなかったが、セール中に二人ではキツいのは確かだった。早く応援が来て欲しいと念じ続けたけれど、祈り届かず、結局その日は、遠野さんと二人でやり続けて、時間内に終業できず、残業にまでなった。

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