第9話 Yシャツとシャツ

 地獄の4月が下旬に入った頃、50代くらいの初老の男性が現われた。シャツを2枚出してきたのでお預かりして、代金を請求したところ、


「おい、値段が高いじゃないか」


 と言い出した。高いと言われても、当店の正規価格であるので困っていたところ、どうやら、男性は、自分が持ってきたものを、Yシャツだと思っているらしかった。シャツとYシャツでは、値段が倍くらい違う。確かに、男性の主張に従えば、値段が高いように見えるのも当然だった。


 しかし、男性が持ってきたのは、Yシャツではなく、明らかにシャツだった。Yシャツとシャツを見分ける最も簡単な基準としては、ネクタイ着用が予定されたものかどうか、というものが挙げられる。ネクタイ着用を予定してビジネスに使うのがYシャツ、ネクタイ着用を予定せずカジュアルシーンで使うのがシャツである。男性が持ってきたものは、襟が柔らかく狭くなっているもので、明らかにネクタイ着用が予定されたものではなかった。


 シャツは、Yシャツよりもデリケートな扱いをしなければいけないので、その分だけどうしても料金は高くなる。わたしは、彼の持ってきたシャツが、繊細な扱いが要求されるものであるということを説明して、もう一度、代金を請求したところ、


「そんなことを言われたのは、あんたが初めてだ! いつもの店では、Yシャツでやってくれているんだ!」


 半径10メートル以内にいる人全てを振り返らせるほどの大声で怒鳴り始めた。わたしは、耳がキインと鳴るのを覚えた。どの店に出されているか分からないけれど、少なくともうちではYシャツで預かることはできないと、耳がガンガンするのに耐えながら、わたしは答えた。すると、男性は納得するどころか、


「あんたみたいな新人じゃ話にならん!」


 わたしの黄色いエプロンを見ながら一層大きな声を上げると、


「店長を呼べっ!」


 高慢な口調で言った。


 わたしは胸がムカつくのを覚えた。子どもや年寄り、そして女に、つまりは力で劣るものに、強迫的な振る舞いをする男のことが、わたしはグリーンピースよりも嫌いだった。大声を出せば恐れ入って従うだろうという了見が薄汚い。わたしはそんな人に従う気などさらさらなかった。そもそも店長は、今日はお休みだった。わたしは、その旨伝えてから、


「Yシャツではお取り扱いできません。それに納得できないのであれば、お引き取りください」


 と言ってやった。そうして一瞬後に、「しまった、言い過ぎた」と思ったけれど、後の祭りである。男性は、


「このままではすまさんぞ、本社に直接電話してやるっ!」


 と歯ぎしりするような顔をして、カウンターから自分の持ってきたシャツをひったくるようにすると、スーパーの出口に向かって歩き去った。


「すごい剣幕だったわねえ」


 店の奥から出てきたのは、他店舗から応援に来てくれたパートさんだった。


「ああいう客、うちにも来るんだけど、うちはYシャツで取っちゃってるよ。それで、工場にお願いして、シャツで仕上げてもらってるわけ」


 それを聞いたわたしは唖然とした。そんな風にして一人の客を特別扱いしたら、また別の客を特別扱いしなくてはならなくなって、収拾がつかなくなってしまうではないか。


「うーん、まあ、それもそうかもしれないけど……めんどうだからさ、ああいう客の相手って」


 面倒くさいから言いなりになるなんていうのは、自分の仕事に誇りを持っていないということにならないだろうか。わたしは別に好きでクリーニング店に勤めたわけじゃない。勤めたきっかけは、はっきりと言えば成り行きだった。でも、いったん勤めたからには、自分のしていることが他人のためになっているんだという実感を持ちながら仕事をしたい。それが誇りを持つというそのことだと思う。


 わたしはすぐに事の顛末てんまつをマネージャーに電話した。すると、


「うーん……そうかあ、そういうときはねえ、ぼくに電話してもらえるといいねえ」


 受話器から、マネージャーのため息まじりの声が聞こえてきた。わたしは謝罪した。店の責任者でもないのに、客を追い返すなんていうことは権限を越えた行為だ。ついカッとして、売り言葉を買ってしまったのだった。若気の至りなんていう言い訳は、仕事をしている以上は使うことはできない。若かろうが若くなかろうが、客からは、どちらも同じ、店のスタッフだからだ。


「もし本社にクレームが行くとね、そういうのはね、結局、ぼくのところに来るからね。どうせ来るなら、クレーマがあったそのときに連絡してもらった方がね、何らか取れる手段もあるかもしれないじゃない? そういうところまで考えてもらわないとさあ。ちらっとでも考えた? 考えてないよねえ。いや、こんなことまでは言いたくないんだけど、いつまでも高校生のノリで仕事をしてちゃダメだよ。社会人としての自覚を持ってだね――」

 

 マネージャーの指導はたっぷりと20分続いた。わたしはその日一日を憂鬱ゆううつな気分で過ごした。そうして、いざ仕事を終えるときに、連絡ノートに今日の件を書いておいた。翌日は休みだったので、今日あったことを、明日のシフトの人に伝えるためである。本社にクレームが行けば、クレームを受けた店ということで、店のみんなに迷惑を掛けてしまうことになるかもしれなかった。申し訳ないなあという気持ちは、休み明けまで続いたわけだけれど、


「何も気にする必要なんて無いわよ」

 

 その日一緒になった店長は平然とした表情で、わたしに向かって言い切った。


「店の前で大声を上げるような人は、お客様じゃないでしょう。お客様じゃない人からクレームが来たって、痛くもかゆくもありません。そういう人に関わる時間とエネルギーを、他のちゃんとした『本当のお客様』に使う方が建設的です。他店舗のことは知らないけど、少なくとも当店は、お客様の取り扱いを差別化しません。よく断ってくれたわね。今回のことは、わたしからお礼を言いたいくらいのものよ」


 店長の温かな言葉に、目の奥が熱くなるのをわたしは感じた。


 結局、その男性から本社にクレームが行くということは無かったようだ。結果オーライではあるし、店長からありがたい言葉をもらえはしたけれど、今後は冷静にクレームに対処しなければいけないと固く心に誓った。

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