第7話 ドライクリーニングの効果

 クリーニングの受付をするまでは、クリーニングにクレームをつける客などいないと思っていた。わたしもしたことがないし、家族からもしたという話を聞いたことがない。しかし、この業界にはクレームが付きものだということは、入社してすぐに知ることができたわけで、以下もその一例である。


 その日来た客が持ってきたのは、古いジャケットだった。あまりに古くて薄汚れているので、わたしは「水洗い」を勧めてみた。通常のドライクリーニングは皮脂の汚れを落とすものであって、それ以上のものではない。そこを説明してから、水洗いを勧めたわけだけれど、その30代前半の女性客は、ドライクリーニングでいいと言う。客がいいというものを無理強いはできないので、わたしは、言われたとおり、ドライのみで工場に出した。


 帰ってきたジャケットは悲惨な状態になっていた。ところどころに、カピカピと汚れが浮き上がって、もともと薄汚れていたものが、まるきり汚い状態になった。例えるなら、泥水に浸したものをそのまま乾かしたあとのような状態である。


 さすがにわたしも驚いたけれど、それは工場のミスでも何でもなく、ドライクリーニングの通常の効果に過ぎない。説明もしたハズだから、それで納得してもらうしかなかったわけだが、客は激怒した。


「どうしてこんなことになるのよっ! 今日着ていく予定だったのに、こんなことにしてくれてっ! 弁償してもらうからねっ!」


 うちの店では、入会金を取っているのだが、その入会金も返せ、という剣幕けんまくである。研修期間中には仕事の仕方は教わっても、クレームへの対応の仕方まで教わるわけじゃない。どうすればいいのか、焦るわたしの後ろから、店長が現われて、


「どうかなさいましたか」


 と穏やかな声を出した。


 客は新たなターゲットを見つけて喜んだのか、同じクレームを声高に繰り返した。


「お金だけとって、服を汚くするなんて、どういう了見よ!」


 まるで詐欺だとでも言わんばかりの剣幕に、対応したのがわたし自身であることもあって、さすがにムカムカしてきた。ほとんど見も知らぬ人間から詐欺師扱いされて、穏やかでいられるほど人間はできていない。よっぽど言い返してやろうかと思ったところ、店長が、


「お話はよく分かりました」


 と言い出した。まさかこんな嫌な客の言う通りに対処してやるのだろうか、とわたしは目を見張った。客も自分の要求が通ったと思ったのか、それでいいのよ、と言わんばかりに、うなずいている。わたしと客が見つめる中で、店長は、


「サービスで、もう一度お預かりします」


 静かな口調で言った。客は、唖然とした顔で、


「もう一度預かってくれなんて言ってないわ! 弁償してと言ってるのよ。それと入会金を返してって言ってるのっ!」


 キイキイと金切り声を上げる客に、店長は、


「お客様がドライでいいとおっしゃったので、わたしどもはそのようにいたしました。これは全く契約通りのことです。事前に、ドライクリーニングについて、担当の者がご説明差し上げたはずです。入会金に関しても、お客様がご自分の意志で入会されたのですから、これも返還することはできません」


 淡々とした口調で言って、


「これ以上店頭で騒ぎ続けられるなら、営業妨害で警察を呼ぶことになりますが」


 はっきりと言った。すると彼女は、青汁でも飲んだような苦い顔になって、


「……い、いいわ、もう一度預けてあげるけど、次に同じ状態だったら、承知しないからね!」


 と自分に都合のいいことを言って、帰っていった。


「ありがとうございました。わたし一人だったら、対応できませんでした」


 わたしが軽く頭を下げるようにすると、店長は、


「わたしたちとお客様は、あくまで対等の関係なのよ。こちらはサービスを提供して、あちらはお金を払う。サービスに自信があるなら、払ってもらったお金は絶対に返しちゃだめ。それはわたしたちの正当な報酬なのだから」


 そう言って、次に現われた客に向かった。


 完全に対等だとしたら、ジャケットを預かる必要はないわけだけれど、そこはそれ、客の立つ瀬を作るための処置だろう。断るべきところを毅然きぜんと断って、ただし、客の面目も立つようにする。あんな風にクレーム客に対応するようになるためには、どうすればいいのだろうかと考えたわたしは、とりあえず、提供しているサービスの内容に自信を持つために、各サービスの詳細を勉強することにした。


 翌日、その客が現われて、ジャケットを受け取りにきた。ジャケットの汚れは見事に落ちていた。水洗いをしたのである。もしも彼女の目的がドライの料金で水洗いをさせることであれば、それは達成できたようにも思われるけれど、


「日頃のご愛顧のお礼に今回はサービスで水洗いさせていただきました。しかし、次からは、スタッフの提案をよくお聞きになった上で、コースをお決めくださいね」


 店長は、二度同じ手は通用しないぞと、やんわりと釘を刺してから、おもむろに、一枚の紙を差し出した。それは、彼女の出したジャケットが、相当の年数を経ているものであるということをメーカーが証明したものだった。工場が昨日のうちにメーカーに連絡して、もらったもののようである。


 客はそれを見ると、ピクピクとまぶたを痙攣させたあと、


「に、二度とこんな店は利用しないわ!」


 そう言って、パンプスの音を高く鳴らして、店を出て行った。


「本当でしょうか?」


 彼女の言葉の真偽を尋ねると、


「さあ、どうかしらね」


 と店長は澄ました顔だった。


 わたしとしては、店の売り上げが減ることになるかも知れないけれど、正直なところ来て欲しくない客だったのだが、三日もするとけろりとした顔で現われて、また同じように汚いジャケットを出してきたので、今度こそ水洗いするように勧めたところ、前回のクレーム騒ぎを綺麗に忘れたような顔で承諾してくれたので、ホッとするやらびっくりするやら、もしかしたらまた新たなクレームをつけようとしているのだろうかと邪推するやらで、心が騒いでなかなか治まらなかった。

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