第3話 ズボンに三重線

 店に入って、二週間が過ぎたころのことだった。大分、仕事にも慣れたところ、ある晩、一人の老婦人が、品物の引き取りに来た。その中に、スーツのズボンがあったのだけれど、折り目が二重線になっていた。プレス機にかけているので、ちょっとプレスがずれると、どうしてもそういうことが起きてしまう。それを確かめた婦人は、それまで穏やかな雰囲気だったのに、急に鬼のような顔になって、


「ちょっと! 三重線になってるじゃないのっ!」


 と怒鳴り声を上げた。わたしはびっくりした。いきなり怒声が上がったこともそうだったけれど、彼女が主張する三重線などどこにもなかったからだ。両眼で2.0のわたしの目をもってしても、三つ目の線など見つからなかった。


「ここにあるじゃないの!」


 一体婦人には何が見えているかわからないのだけれど、とにかくそう主張してくる。三重線はともかくとしても、二重線ができているのは確かなので、もう一度お預かりすることになった。婦人は、


「三重線なんて信じられないわっ。もしも、消えなかったら弁償してもらうから!」


 と目を三角にして、肩をそびやかして立ち去った。


 翌日、店長と一緒になったので、その件について言うと、


「そうなのね。大変だったわね」


 と労をねぎらってくれたあとに、それでも、


「いいのよ、あのお客様は」


 そう言って、平然としていた。わたしは自分が怒鳴られたこともあって、全然良くなかったので、何がいいのか事情を聞きたかったけれど、その日は、朝から休む間もなく忙しくて、ついにその客のことを聞くことはできなかった。


 その翌日のこと、やっぱり店長と一緒に店に入っていたときに、三重線のおばさんがやってきた。旦那さんだろうか、車いすの男性と一緒だった。


「先日は大変申し訳ありませんでした」


 そう言って、店長が頭を下げるので、わたしも頭を下げるしかなかった。


「ちゃんと直ったの?」


 婦人は居丈高いたけだかな様子である。


 店長が例のズボンを見せると、そこには綺麗な一本のラインが引かれているだけだった。


「……まあ、いいようだけど、でも、三重線にされたことは忘れないからね。これから預けた物を受け取るたびにちゃんと見るから。この店は、信用できないわ」


 ズボンを受け取った婦人は捨てゼリフを残して、立ち去った。わたしは、確かに二重線にしてしまったことは申し訳ないことだけれど、それはシステム上やむを得ないことだし、三重線には絶対になっていないのだから、あんな捨てゼリフを浴びるいわれはないと思ってムッとしたけれど、店長は特に気分を害したようでもなかった。


「あのお客様はね、福祉の仕事をなさっていて、あの通り、ご主人のお体もあまり自由が利く状態じゃなくて、ストレスを抱えていらっしゃるんだと思うの」


 店長がそんなことを言ったけれど、わたしは全然納得行かなかった。仮にストレスを抱えていたとしても、それを他人に吐き出すような真似は大人として下品だし、福祉にたずさわっているならましてのことだと思ったからだ。店長はわたしの気持ちを読み取ったのか、


「もちろん、わたしたちは、お客様のストレス解消の相手になる必要は無いのよ。でも、怒っている人に対して言葉を尽くしてみても、それは逆効果だと思うの」


 と穏やかな声で言ってきた。


 わたしはそれでも納得がいかなかった。結局のところ、それは「お客様は神様」だということにつながらないだろうか。わたしは、神の相手などしたくない。人間の相手をしたい。そうはっきりと言うと、店長は微笑むだけで、もう答えなかった。それは、わたしの言うことを受け入れてくれたようでもあり、怒っている人にまともに反論してもしようがないというルールをわたしに対して適用したようでもあった。


 後日のこと、またわたしが一人で店に入っていた昼、店の前で急にふらりと倒れた女性がいて、確かめると例の三重線の人だった。


「大丈夫ですか?」


 彼女に対してはいい感情を抱いていなかったわけだけれど、それはそれ、これはこれ、店先で倒れられたら介抱するしかない。近寄って助け起こすと、


「ごめんなさいね」


 としおらしい声を出して、夜勤明けで寝ていないのだと言い出した。


 それを聞いた瞬間、わたしは、わたしにわたしの人生があるのと同じように、この人にもこの人の人生があるというごく当たり前の事実に気がついた。わたしがわたしの人生を懸命に生きているのと同様――まあ、まだまだ努力が足りないところはあるかもしれないけれど――、この人も懸命に生きている。それに気がついたときに、この三重線おばさんのことが少しだけ愛おしくなった。


「ありがとう、もう大丈夫よ」


 婦人は、弱々しげに微笑んで、買い物かごを持って、スーパーの食品コーナーへと歩き去った。


 お客様は神様ではなく人間だった。だからこそ許さなければいけないときがある、ということを初めて知った瞬間だった。もちろん、わたしは聖女ではないので、誰でも彼でも許せるようになったわけじゃないけれど、でも、少なくとも許す可能性を手に入れたということである。

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