第2話 記念すべき最初のクレーム
研修期間で、わたしは様々なことをならった。あまりに様々すぎて、脳がオーバーヒートしそうなほどである。たとえば、お店が受け付けたものは、小物・礼服などの黒いもの・着物・布団・ワイシャツなどに仕分けする、染み抜きが必要な品は染み抜きをする、水洗いの品とドライ品とは分けて洗う、などなどなどなど。
高校時代わたしは、それほど成績が悪かったわけではないけれど、特別よかったわけでもなくて、こんなに色とりどりなことを覚えられるのかどうか、大いに不安になった。それで一生懸命にメモを取っていたわけだけど、入社式で目が合った女の子などは全て分かっていると言わんばかりに、メモを取るでもなく、ただぼーっとしていた。わたしは、一方で彼女をうらやましく思いながらも、一方で、彼女がメモを取らないことに関して別の可能性を考えて、一緒の店舗に入ることにならなければいいとも思った。
三日間の研修で、仕事のいろはの「い」くらいは覚えたわたしは、四日目から店頭に出た。わたしの勤める店は、県内にある店舗の中で、最も売り上げが多いところらしかった。そんなところに配属させられたのは、わたしが即戦力として大いに期待されていた、というわけでは全然なくて、単に家から近いからに過ぎない。店は、大型スーパーの中にあって、家から近いことでもって、そのスーパーも店もよく利用していた。よくよく利用していた店に、客としてではなく、サービスを提供する側として、行くのだから、なんだか妙な気持ちがした。
店には、四人のパートの女性がいた。もちろん、高卒のわたしよりはみんな年上で、それぞれに事情を抱えて働きに来ているわけだけれど、ひときわ目を引いたのが、30歳前半くらいの女性だった。やたらと化粧が濃いのである。分厚いファンデーション、長いつけまつげ、真っ赤な口紅、としっかりと施された化粧は、人を惹きつけるためというよりは、多分に人を
「真似しちゃダメよ」
と店長にささやかれて、そうでもないということを知った。
店長は、母よりも少し年上で、落ちついたたたずまいの品の良い人だった。同僚がどんな人たちだとしても、上に立つ人に信頼が置けるなら、安心して仕事ができる。初日に一緒に仕事をして、工場では教わらなかったレジの打ち方や、商品タグの付け方を教えてもらっているうちに、店長が懇切丁寧で、新人だからといって粗末に扱う人ではないことが分かり、ホッとした。激戦地に送られた格好だったけれど、なんとかやっていけそう。
そうして、一週間が経った頃のことだった。店の四人とちょこちょこと話をして、それなりに性格が把握でき、仕事にも慣れてきた矢先のことである。
店への客の波が途切れたときに、わたしは、何となくスーパーに来る客を見ていた。店はスーパーの中にあって、出入り口に近いところにあるので、客の出入りがよく見える。店への客は途切れることがあるけれど、スーパーへの客は途切れることなく、ひっきりなしに、自動ドアが開いては閉じ、また開くのだった。その客の一人に目を向けていたところ、偶然に目が合ってしまった。40代くらいの女性だった。わたしは慌てて目をそらしたけれど、それでも、向こうはこっちを見ているのが分かった。
「何見てんのよ!」
とつかつかと近寄って来られて文句を言われるだろうかと冷や冷やしていたところ、そんなこともなくて、ホッと息をついているとしばらくしたあと、一人の男性が店にやってきた。スーパーの店長である。
「こっちにクレームが来たよ。クリーニング店の黄色い人がにらんでくるって」
迷惑そうな目をして言ってくる店長に、わたしは素直に謝った。黄色い人とはわたしのことだ。別に肌や髪が黄色いわけじゃなくて、店の新人が、ドライバーの初心者マークよろしく身につけるのが黄色いエプロンなのである。
「おたくもうちに入っているからには、そういうクレームがこっちに来ることもあるからさあ、気をつけてもらわないと」
店長が嫌みたっぷりの声で言ってくるけれど、自分が悪いので何とも言い返すことができないわたしがもう一度謝ると、
「申し訳ありません。わたしの監督不行き届きです。以後気をつけますので」
と横から一緒にうちの店長も謝ってくれた。
あとで、わたしが謝ると、
「人が多いからつい見ちゃうのよね。わたしも初めはそうだったわ。で、視線が合っちゃうと、じーっと見ちゃって。クレームこそ来なかったけど、不信感を与えてしまったかもしれないわね。スーパーに来るお客様も、うちを利用してくださるかもしれないと思って、できるだけ不信感を与える行動は慎むようにしましょう。スーパーに来るお客様を見る代わりに、うちに来てくださるお客様の目をしっかりと見ましょう」
そう言って微笑んでくれた。わたしは、店頭に出て、一週間しか経たないというのに、もうクレームをもらってしまったことに対してショックを受けたけれど、
「ふふ、こんなことでへこたれていたら、ここでの仕事は勤まらないわよ」
店長は言う。
その言葉の意味を、わたしはこれから嫌と言うほど知ることになった。
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