3. 老人



「それでは、また明日。さようならー」


「さようなら! ほら、あきらも挨拶して!」


「ふふ、いいんですよーお母さん。じゃあね、あきらくん」


「…」


そんな日常のやり取りが交わされ、あきらも母親に連れられ、帰っていく。


保育園からあきらの家までは5分とかからない。


自宅のすぐ近くまでは親子で歩いていた。けれど母親は買い物をするという理由で、公園の前であきらと別れた。


遊びに行くならいちど家に戻ってから、そんな言いつけをされたが、ほとんど守ったことはない。


あきらは今日も、通園カバンを抱えたまま、公園の中に走っていった。


彼のお気に入りの場所がある。


みんなが集まる、すべり台やブランコではなく、公園の隅の方にある、2脚のベンチの右側だった。


周囲に遊び道具は特に無いため、そこはあまり子供が寄り付かない。逆にそれが、ここをあきらに気に入らせた理由でもあった。


あきらはベンチに座ると、早速カバンの中から、プラスチック製の正方形のケースを取り出した。


入れ物を覆う蓋を開けると、中には何色かの色紙が入っていた。


それらは保育園でもらう度に集めていた、あきらの持つカラーペーパーの全てだった。


彼は何枚か、色紙を取り出し、太陽に向けて透かしてみた。


黄、青、紫。光を通して、紙本来の色がわかる気がした。


いつ見てもキレイだ。あきらは今日初めて、子供らしい笑顔を見せた。


実を言えば、彼が毎日取り出していたので、色紙は新品の時より、だいぶ折り目がついたり、皺になっていたりした。


けれども、あきらの目に、細かい傷は気にならなかったし、むしろ手に馴染む気がした。


あきらはいつも思っていた。


僕のひとことで、カラーペーパーから出てくる、もうこの世にはいない花や動物たち。


眺めるのはとても楽しいしけれど、何だか「違う」気がした。


どうしてかは本人にもわからない。


ただこの紙たちは、少し折れたり汚れたりしても、こうやって手に持って透かしている時の方が、生き生きとしている気がするんだ。


何だか紙を持っているだけなのに――それがあきらをワクワクさせる。


こんな気持ちを持つなんて、ちょっと変かと思う時もある。だからこの事は、誰にも喋った事はない。


もしかしたら、あきらに優しいヒナだけは、わかってくれるかもしれない。でも、どうしても言い出せなかった。


別にいいやと、あきらはすでに諦めていた。


ママにも、ヒナちゃんにも、ましてやあの生意気なぴーえーにも、笑われるのは嫌だから。


それから、こうしてひとりで公園にいる時が、あきらの幸せな時間になっていた。



その日も、あまりにも紙を眺めるのに夢中だったので、あきらは左側の椅子に人が座る気配に、気づかなかった。


「やあ」


とつぜん声をかけられ、園児はおろどいてびくっとし、持っていた紙を落としそうになった。


そこには、帽子をかぶって杖を持ったおじいさんが座っていた。


「こんにちは」


老人がまた、声をかけてきた。


「…こんにちは」


あきらは一見行儀よく頭を下げる。けれど目だけは、相手をじっと見つめていた。


白い髭が顔の半分を覆っていて、だいぶ腰が曲がっている。


目がとても丸くて、いつも何か興味がある者を探している、子供のようだ。


カーキ色のカバンをたすき掛けにして、ぶら下げていた。


老人は、散歩の途中にちょっと休憩して、くつろいでいるように見えた。


「あっ…」


何かのきっかけが働いたのか、急に思い出した。あきらはこの老人のことを知っていた。


以前何度か、保育園の人たちと、ママが喋っていたのを聞いたことがあった。


「ふしんしゃ」の話だった。


最近この町の公園にあらわれるようになった、おじいさんがいる。遊んでいる子供たちを見つけると寄ってきて、貴重なカラーペーパーをタダで配っているというのだ。


僕らにも「変なおじさんがいるから、近づかないよう、気をつけて」と、先生たちは言っていた気がする。


そんなあきらの考えていることが顔に出ていたのか。


「君は私を知っているようだね」


少なくとも老人には、園児の考えが伝わったようだ。


おじいさんは、おもむろにカバンのチャックを下ろすと、そこから何枚もの、美しいカラーペーパーを取り出した。


そして子供の目の高さで、手品師がトランプでやるように美しく広げ、全ての紙の色をあきらに見せつけた。


「ほら、カラーペーパーだよ。すべての色が揃っているんだ」


あきらの目の前で誘惑するように、動かして見せる。


「欲しいかい? とても人気の、金と銀のだってあるんだよ」


その様子を大人が見たら、老人が言葉巧みに、園児を誘惑しているように映っただろう。


最初はその紙たちに見とれていたあきらだったが、不意にそしてきっぱりと、彼は口を開いて告げた。


「いらない」


老人は驚きのあまり、口を開き、杖を地面に落としてしまった。


「ほ、本当に? 君の友達も知らない、すごい絵が出てくるんだよ。しかも今までよりもたくさん、絵とおしゃべり出来るよ?」


うろたえながらも、園児に説明する。


「いいよ。興味ないし、それに、生意気だからぴーえーは嫌いだし」


あきらは本心から興味がなさそうに、返事した。


おじいさんは、きょとんとして黙ってしまった。やがて無言のまま、のろのろとカラーペーパーをしまうと、彼は両手を膝にのせ、体を震わせ始めた。


この大人は具合が悪いのかと、あきらは少し心配になった。そんな園児の心配を跳ねのけるように、老人はいきなり皺だらけの手を叩き、大声で笑い始めた。


「ははは、これは愉快だ!! PAが生意気で嫌いだなんて言う子を初めて見たよ! これはおかしい!」


あきらはキョトンとしていた。悪いのは体ではなく、頭の方だったのだろうか?


「あのAIたちの性格と、口が悪いことについては、謝らねばならないね。あれには私のひねくれた性分が、少しだけ混ざっているんでね…」


老人の言葉は逐一、あきらには伝わらない。ヒヒヒと笑いの残りを楽しんでいたおじいさんも、やがて落ち着いてきたようだ。


「ふぅ。さてさて、少し息をさせてもらうよ…さあ、おじいさんに質問をさせてくれないか? 君はなぜカラーペーパーを欲しがらないのかな?」


「だってもう僕は持ってるし」


あきらは自分の色紙を、老人の前に出した。


「ほうほう、でもありふれた色ばかりじゃないか。しかも、だいぶ古くなっているし」


「これでいいよ」


あきらは愛おしそうにその紙の表面を指で撫でた。


「僕は、みんながピカピカの紙ばかり欲しがるのが、気に入らないんだ。僕の持ってる色紙の方が、キレイなのに。それに――」


あきらは立ち上がって、再び紙を空にかざしてみた。


「金とか銀の色紙がキレイなのは、新しくて、誰にも触られてない時だけ。あいつらは少しでも触るとシワになって、ピカピカ光る表面がグシャグシャに、なっちゃうでしょ?

 でも僕の紙は違うよ。何回折れても、よじれても、色はキレイなままなんだ。それに何だか古くなった方が、手でさわると気持ちよくって…だから僕は、この普通の色の紙が、すごく好きなんだ」


ここが公園で、隣りに人がいることを忘れているようだった。あきらは心から自分の言葉をつぶやいていた。


老人もまるで、そこにいないかのように静かだった。年にして何十も離れた子供の言うことを、押し黙って、噛みしめるように聞いていた。


「…なるほど、私はもう誰も、そんな事に気づかないと思っていた」


深くうなずくと、老人は遠くを見て、再び語りだした。


「実をいうと私はね、このカラーペーパーのアイディアを考えて、この世に送り出した技術者なんだ。といっても坊やには、わからないよね」


老人はくしゃっとした顔で笑った。


「けれど、僕の作ったこの紙はね、外国のおじさんに、売る権利を取り上げられてしまったんだ。妙な気分だよ。私が生んだ子供なのに、別な名前を付けられて、しかもその子が世界中で活躍しているのを見ているなんてね。息子がどれだけ認められて、讃えられても、私にとっては、偽物が褒められている気分なのさ」


あきらは老人の長広舌に目をパチクリした。


「おじいさんの言っていること…よくわからないや。先生に聞いたんだけど、おじいさんはなんで、からーぺーぱーを子供に配っているの?」


老人はそれを聞いて、少し寂しそう表情になった。


「…それはね、やっぱり子供イロガミを愛しているから、この紙をみんなに知ってほしいんだ。どんなに形を変えて、遠くに行こうともね。いつか、坊やが大きなったらわかるかもね」


ゆっくりと節くれだった手を伸ばして、老人はあきらの頭を優しく撫でた。


「さて、君みたいな子供がいてくれて、私は嬉しいよ。だからお礼に教えてあげよう。ひとつはこの紙の本当の使い方さ」


「ほんとうの?」


あきらはまるで意味が分からなかった。


老人はポケットから新たに、1枚のカラーペーパーを取り出した。あきらの好きな黄緑色の紙だった。


その直後、おじいさんがあきらの目の前で見せてくれたその手付きに、あきらは目を丸くした。


それは眼の前で、まるで魔法のように行われ、素早く一瞬で、終わってしまった。


「さあ、どうだい。これがこの紙がもつ大事な、本当の意味なんだ。さあ手に取って、君にやり方を教えてあげよう」


老人は、ぼうっと立ち尽くすあきらの手を取った。


「これだけじゃあない。明日もここに来てくれたら、新しい物を教えてあげよう。大丈夫、少し練習したらすぐに出来るから」


老人は今度は胸元から、様々な色の紙――金や銀以外――の束が入ったビニールの包みを取り出した。


「これをあげるから、家で練習してみなさい。最初から丁寧にやるんだよ。そうすれば最後が美しく仕上がる。それとね」


老人はあきらに顔を近づけると、小声で伝えた。


「私はこれを誰にも言わずに、神さまの所に行くつもりだった。けれど今日、君と会えた。おかげで君みたいな子供が他にもいるかもしれないと、信じられるようになった。だから私は君に、特別な言葉を教えるよ。ちょっとした仕掛さ。私だって、ただ外国のやつらに我が子をポイと差し出すのは、嫌だったのでね」


老人はウインクして、いたずらっぽく笑った。


「さあ耳を貸してごらん…」

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