家出娘の帰還・後編

 手紙を受け取った翌日、昼前に目を覚ますと家には誰もいなかったので、用意されていた朝食をお昼代わりに食べてしまうと音乃は早速行動を開始した。


 県の協会に話の通じる相手がいたのは幸いだった。そうでなければ飯田亜伊子の実家の電話番号を教えてもらうことなど出来なかっただろう。

 そして相手は顔見知りでもあったので、近況などを話し合い、音乃が趣味の範囲ではあるが陸上をやっていることを知ると、それは良かったと喜んでくれたのは意外にも思えた。

 ほんの十分くらいのことだったが、音乃は自分のやってきたことの足跡を少し知れたような気がする。


 「…さてと、実家にいるのかな?」


 教えてもらった番号は飯田亜伊子の、こちらでの実家のもの。夏のことだからもしかして帰省しているかもしれないが、もしそうでなくても東京での連絡先を教えてもらえれば、と家電からかけてみた。


 『…はい、飯田です』


 若い声だった。あるいは本人なのだろうか。


 「あの、私、樫宮音乃と申しますが、飯田…亜伊子さんご在宅でしょうか?」

 『えっ…?』


 驚く声は若い女性のものだったから、もしかして本人?と思ううちに、息を呑む音に続いて返事があった。


 『…はい、亜伊子は私ですけれど…樫宮さん?』

 「はい、お手紙頂いたので。電話番号は協会の人に教えてもらいました。不躾でしたらごめんなさい」

 『いえ、そんなことはないですけれど。あの、今はどうして…?』

 「あはは…いろいろあって東京で女子大生やってます。スケートは…まあ、やってはいないんですけど。飯田さん、は?」

 『………あの、ごめんなさい。私あの時、直接謝ることも出来なくて……』


 まいったなあ、と思った。

 飯田亜伊子は、それだけを言うとすぐに鼻をすする音と共に、泣き出してしまったようなのだった。


 「あの、私も別に飯田さんのせいで止めたわけじゃなくって。それより私の方こそ何もフォロー出来なくて済みませんでした。犬山家具の会長さんから、その、私が止めた後に飯田さんがいろいろ責められたって聞いて、私の方こそ申し訳ないって思って」

 『………………』


 今にして思えば、妙な縁でその後のことを知れたのは幸いだったと思える。

 確かに怪我は音乃の責任ではないが、その後の振る舞いが褒められたものではないことだと、最近になって痛切に感じることが出来たからだ。


 『………あの、樫宮さん。直接会って話できませんか?私もちょうど帰省しているところですし』

 「それは喜んで。今日早速でも構わないですよ」


 まだしゃくり上げる声が時折挟まれる中、飯田亜伊子のその提案は、音乃にとっても歩いてきた道を一度俯瞰する、またとない機会のように思えるのだった。

 だから話はすぐにまとまり、これから出かけることに決めたあとの音乃の行動は素早く、身支度を調えるとと一台残っていた自転車を駆って、最寄りの駅へ赴くのだった。




 『別にそれは構わないけれど、遅くなるようならちゃんと連絡は入れなさいね。音乃、あなたまだおじいちゃんとおばあちゃんに顔見せていないでしょう?』

 「うん、分かってる。話するだけだし、暗くなる前には帰るから」


 長野駅に着いてから、母の携帯に連絡を入れた。

 そもそも自宅方面と長野駅を結ぶ電車はそう本数が多いわけでもないのだから、あまり遅くなれるわけがなく、まああまりにも遅くなるようなら迎えを頼めばいいか、と気楽に考えながらスマホを仕舞う。


 「樫宮さん…?お待たせしました」

 「あ…」


 そして待ち人は、と辺りを見渡したところ、先に声をかけられた。

 その方向に体を向けると、こざっぱりとした濃い紺色のワンピースに、ゆったりとした白いパンツを合わせた装いの女性が視界に入って、音乃は目を瞬かせる。

 その顔に見覚えはあったが、スケートリンクでしか見た覚えがないため、一見して飯田亜伊子本人かどうか、分からなかったのだ。


 「えっと…飯田さん?」

 「はい。ご無沙汰、ですね」


 先程の電話での印象と違い、にこりと微笑んだ顔は予想外に柔和で、なんとなくマリャシェのことを思い出す音乃だった。


 「えっと…すぐ私だと分かりました?」

 「ええ、あの時と同じ髪でしたし」


 それはこないだ切ったばかりだしなあ、と美容院に行っていたことを幸いだったと思う。ただ、それ以外はあまり自分も変わってないのかなあ、となんとなく残念ではあった。


 「ええと、立ち話っていうのも何ですし、どこかに入りますか?」

 「そうですね。といっても、私もあまりこの辺は詳しくないので、どこかいいところありませんか?」


 そう言われても。

 音乃とて中学、高校とこの辺はよく通ったものだが、遊び回ることもしなかった身だ。大学生が入ってちょうどいい店など見当もつかない。


 (ええと、こういう時はターナと一緒だと…)


 だから、ターナと遊びに行った時に休憩するような店を探し、けれど店選びに難儀する東京と違って周囲にはさして選択肢もなく、結局スマホを取りだして近くのカフェを探すしかなかった。




 「…涼しー」

 「そうですね」


 一見してチェーン店と思しき店ではあったが、中はしっかりと冷房も利いており、涼しいイメージながら実際は暑さの厳しい長野においてはオアシスにも等しい店内に入ると、音乃は脱力したように入り口近くのボックス席に座り込む。


 「いらっしゃいませ」


 今の時間はそれほど客入りも少ないのか、手拭いとお冷やを持ってきた店員はすぐにやってくる。

 音乃はアイスティーをストレートで、飯田亜伊子はアイスコーヒーを、それぞれ何も見ずに注文すると、そんな客の反応は慣れたものなのか、差し出しかけたメニューをひっこめてカウンターへ引っ込んでいった。


 「…あの、樫宮さん。今は東京で大学生を、という話ですけど」

 「あ、ええっと…」


 落ち着くとすぐ、飯田亜伊子の方から話を切り出した。

 といってそれも話の継ぎ穂のようなもので、音乃もそれほど拘りのある内容でもない。自分の通っている大学の名を告げ、住まいの環境なども話すと、通学に大変そうだ、と同情されて音乃も困ったように笑うくらいのものだ。

 そしてそれをきっかけに、互いの近況話に花が咲く…という程ではないが、さして時間もかからず届いた注文品のグラスが汗をかくのも構わず、特に音乃にとっては体育大という環境に興味があって、つい時間の経つのも忘れて話し込んでしまうのだった。


 (私、結構人見知りだったはずなんだけどなあ…)


 話が途切れた折に、ふとそんなことを思った。

 そういえば、ターナと知り合ってからはこんな感じに、知らない人と相対する場面に遭遇することが増えた気がする。その度に自己紹介をしたり相手のことを知ったりとしているうちに、なんとなく慣れて、実は人見知りだと思っていた自分の性質は、ただ単に他人から身を避けていただけなのではないか、と感じる。


 「…飯田さん。ちょっと聞きたいんですけれど」

 「はい?ええ、どうぞ」


 アイスコーヒーのグラスから口を離した隙に、声をかけてみる。

 もしかして、と期するところがあった。


 「私、あの…事故っていうか怪我したあと、私が飯田さんについて何か言ってたとかって、聞いたことあります?」

 「え?」


 何を言い出すのだ、みたいな顔で見られる。

 それはそうだろう、今の今まで全然関係の無い話で盛り上がっていたのだ。

 音乃としても唐突なのは否定しないが、なんとなく今ならこれを聞いても素直に話が出来ると思ったのだ。自分も、彼女も。


 「……いえ、そういうことは無かったです」


 そして案の定、飯田亜伊子の方も、多少口ごもりはしたが気後れや気まずさといった空気とは無縁な顔で、そう答える。


 「樫宮さんに怪我をさせたことでいろいろ言われたのは事実です。当時は結構ひどいことも言われましたけれど、オリンピックだって狙える優秀な選手を失ったのは自分のせいだ、っていう自覚はありましたから、それは仕方ないな、って今は思います」


 けど言われてたときはすごく落ち込んだりもしましたけどね、とそこは流石に辛そうに言うのだったが。


 「…でもどうしてそんなことを気にするんです?」


 一転して、どこか探るような気色。その時の音乃の心情を想像していくらか申し訳なさが誘発でもされたのだろうか。


 「あ、えっと…その……私、ですね。怪我したことは別に問題じゃなかったんです。スケートをやめたのも、結局自分が満足出来なくなったからですし、体自体に問題は無い、ってみんなから言われてましたし。けど、私のその選択で傷つく人がいた、ってことだけは本当に不本意で…飯田さんのせいじゃない、って言えれば良かったんですけど、そんなことにも気が回らなくって。だから、今日会えて、飯田さんにごめんなさい、って言えてすごく…勝手な言い草だとは思いますけれど、ホッとしてるんです」

 「そんな…樫宮さんが謝るようなことなんかじゃ…」


 戸惑い、と呼べそうな顔色が見える。


 「時間はかかってしまいましたけど、私にそう思わせてくれた……友人がいて、きっと家族もそうなんだろうな、って思えて。私がした過ちを、ちゃんと認めることが出来たのって本当に最近なんです。だから、今日飯田さんに直接言えたのは、私にとって大事なことなんです」


 ありがとうございました、と膝を揃えて音乃は頭を垂れる。

 まあ、突然こんなことを言われて困惑しているだろうな、と思いながら顔を上げると、彼女は鼻から下を両手で覆って、目を赤くしていた。


 「飯田さん?」

 「あの…ごめ、んなさい…ちょっと…」


 鼻づまりのような声で、腰を浮かせかけた音乃を制止し飯田亜伊子は化粧が崩れるのも構わず、手拭いで目元を拭う。

 落ち着くのを待とう、と音乃はソファに座り直してしばし待った。


 そしてそれも長く続くことはなく、年下の音乃に泣き顔を見せてしまった照れくささを押し隠すように、けれど明るい顔で、こう言う。


 「…樫宮さん。私ね、今ショートトラックに転向してスケートは続けているんです」

 「はい」


 先程の近況の話の時には出なかったことだ。


 「正直言うと、体がぶつかったり転んだりは、やっぱり怖くて。あの時のことを思い出すと身が縮まることなんてしょっちゅうなんですけど、スケートはやっぱり楽しくて、止められないんです」


 犬山玄三老から、とターナに聞いた話では出なかった事実だ。

 あるいはショートトラック競技についてはあまり関知していなかったのだろうか。


 「そんな自分が申し訳なくって…樫宮さんは止めてしまったのに、自分ばっかり競技を続けて何様のつもりだ、って。でも、これは最後のけじめなんだと思います。私は、スケートが好きで、誰かを傷つけてしまった事実は覆すことは出来ないけれど、言っておかないといけない、って」


 彼女が謝罪のつもりでいるのなら、それこそ音乃にとっては筋違いの話だ。

 音乃が音乃でいることを選んだように、飯田亜伊子は彼女自身で在り続けることを選んだ。ただそれだけの話だ。

 だから、音乃は、これ以上言葉を重ねることもなく、テーブルの上に置かれた彼女の手に自分のそれを重ねて、深く二度、頷くだけにとどめるのだった。



   ・・・・・



 『陸上、楽しいですか?』

 『はい。私は続けますから、飯田さんも続けてください』


 別れ際に交わした言葉はそれだけだった。

 東京での連絡先を交換したわけでもないから、自分の人生でこれから先、彼女に会うことは無いかもしれない。

 けれど、それこそ縁というものだ。

 ターナと出会ったのが縁と呼べるものだったと同じように、それがあるのであればまた言葉を交わすこともあるだろう。ただ、そう思うのだった。


 「んー、音乃ちゃん?なに黄昏れてんの?」

 「せめて物思いに耽ってる、とか言って欲しい…」


 約束通りに暗くなるちょっと前に家には着いて、家族六人揃った夕食の時間を過ごすことができた。

 祖父も祖母も相変わらずで、おっとりした祖父としっかりした祖母、という組み合わせは両親とも重なって見えて、家に帰ってきたという実感を音乃にもたらすものだった。


 「今日さ、音乃ちゃん何してたの?出かけてたとしか聞いてないし」

 「別に何でもいいでしょ。マキこそ何してたのよ、畑の手伝いもしないで」

 「あたしはー、ほら、現役のじぇーけーとしてはいろいろ忙しい身でもありますのでー」


 まあいつもの友達と遊び歩いてた、というところだろう。何やかんやと東京で買い込んでいたから、それを配っていたのかもしれない。

 浮ついた印象ではありながら、蒔乃は身持ちはしっかりとしている。普段通りなら別に心配することもなかろう、と音乃は自室の学習机から見上げることの出来る夜空に、目を戻す。

 そんな音乃の様子を見ながら、蒔乃はポツリと漏らした。


 「んー、ターナどうしているのかな」


 …期せずして同じ事を思い出していた。

 どうも自分は、空を見上げると、あの蓮っ葉でいながらどこか初心いところのある、可愛い恋人のことを思い出すようになってしまっているらしい。

 妹に知られぬよう、そう苦笑する中、蒔乃は音乃のベッドに腰掛けてこんなことを続けて言う。


 「…あのさ、音乃ちゃん。やっぱり…ターナのこと、おとーさんたちに言った方がいいんじゃないかな」

 「ターナのこと、って…何て言うのよ」

 「それは…その、やっぱり正直に」


 蒔乃が言いたいことは分かる。

 が、ターナに関しては蒔乃も知らないことが多すぎるのだ。


 異世界からやってきた、とんでもない力を持つ、かっこいいけど可愛い女の子。

 そして今は、この世界で自分の居場所を見つけようと、必死で戦っている。


 「まだ言えないかな、それは…」

 「そっか」


 音乃の感慨とは別のものだろうが、蒔乃は一応そう納得したようだった。

 ただ、音乃を含めた家族が、望ましくあるように、という妹の願いにも似た心遣いは、ありがたく受け止める。

 そしてそれに応えるべく、音乃は蒔乃に宣言する。


 「でも、今度ターナと連絡ついたらさ、これだけは言っておくよ」

 「なんて?」


 「私は、ちゃんと家に帰ってきたからね、って」


 網戸の外の鈴虫の声が、その決心を言祝ぐように一際大きく鳴り響いていた。

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