インターミッション・4
家出娘の帰還・前編
新宿から長野へ行くバスは、新幹線が開通して何年と経っている今でも少なくない便が運行されている。長野の駅前まで、新宿から四時間弱。もちろん、所要時間としては新幹線の方が圧倒的に早いが、その分安い。学生には大変ありがたい存在なのだった。
新宿、という場所でターナを思い出ししんみりしていた音乃だったが、バスの車内では蒔乃と石が離れていたこともあって、久しぶりの実家に向かうという妙な緊張感も忘れてずっと寝ていた。
「音乃ちゃん、そんなに寝てたら夜寝られなくなるんじゃない?」
「うん、あー、まあ、覚悟はしておく…」
終点ではない長野駅に到着して、音乃を起こした蒔乃はそう呆れて言う。
「覚悟するならおとーさんとおかーさんの顔見る時にとっておいた方がいいと思うけど…あ、いたいた」
樫宮家は長野市から更に北上し、峠を一つ越えた山裾にあるので、そこまでの足は別に必要になる。そして今日のところは、二人一緒ということで父親が迎えにきていた。
「………うう」
見慣れた父の運転するSUVが視界に入ると、流石に気後れを覚える音乃だった。
「ほら、音乃ちゃん行くよー」
「わかってる…」
蒔乃に促されて、駅前のロータリーに待期していた車の後部座席に乗り込む。あらかじめ蒔乃が知らせてあったのだろう。
先に乗り込むと逃げ場を奪われたように思えなくもなかったが、蒔乃はそんなことに一切頓着なく、運転席の父親に声をかけていた。
「ただいまー。ちゃんと音乃ちゃん連れてきたよ」
「おう、おかえり。混んでたか?」
「あー、帰省するっぽい人は結構いたかな。でも静かだったよ」
別に蒔乃に連れてこられたわけじゃない、と抗議しようとしたのだが、ルームミラーの中の父と目が合って、黙り込む音乃だった。目を逸らす際に見えた父の顔が笑っていたのには、ほんの少し気が楽にさせられる。
ここから家までは、順調に行って一時間かからない、といったところか。それほど気の重くなることもなさそうな出だしではあった。
…などと思ったのは車が動き始めて五分くらいのことで、走り始めると音乃には会話の糸口もなく、父の
ただ一人、蒔乃だけが音乃の下宿での出来事、というか先輩連中のことを面白おかしく話そうとしてその度に大胡の、「そうか」とか、「楽しそうでいいな」といったおざなりな相鎚に不満そうに口を尖らすくらいで、市内から灯りの乏しい峠道に差し掛かるまで、音乃もずっと車窓の外に顔を向けたままなのだった。
だがそれも変化に乏しくなった頃、蒔乃もいい加減しびれを切らしたのか重い空気に耐えかねたのか、とうとう蒔乃が鬱憤を爆発させる。
「…もー、音乃ちゃんもおとーさんもいい加減にしてよ!帰ってきてから一言も会話してないじゃん!あたしばっかり喋ってバカみたいじゃないか!」
しばらく静かにしていた蒔乃の突然の噴火に、隣の席の音乃もぎょっとしてこちらを睨み付ける妹の顔をつい見つめてしまう。
「二人ともさあ、なんてーかこお、一人で気を揉んでる末っ子を可哀想と思うんならさあ、何か話くらいしてよー…」
「…あ、あのね、マキ。別に私そーいうつもりとかはなくって、その…
「だからそーいうことどうでもいいって、何度も言ったじゃないか。おとーさんもさあ、親なんだからもうちょっとこう、歩み寄り?したらどーなのさ!」
「………」
音乃はちらりとルームミラーの中の父の顔を覗く。曲がりくねる登り坂の運転に集中しているのかその視線に気付くことは無いようだったが、見慣れた父の前髪辺りに、白いものが目立ち始めているのに気がつくと、隣の蒔乃に気付かれないようにため息をつくのだった。
蒔乃はまだ一人でぎゃーぎゃー言っている。
最初のうちは気の毒になって宥めようとも思っていたが、次第にヒートアップしてか音乃が一方的に悪いみたいな言い草になってきたため、音乃もヘソを曲げて車外に目を向け、意地でも口なんか開いてやるもんか、みたいな空気になっている。
そしてそれが気に食わない蒔乃が更に音乃ににじり寄って耳元で喚くのだったが…音乃がさっぱり応えないことに業を煮やしたか、急に声を潜めてこんなことを言った。
「……音乃ちゃん、そんなんだとターナに面目が立たないんじゃないの?」
「…ターナ?って誰だい?」
「あ」
バカ、マキ!…と口を塞いだが遅かった。というか、音乃のその激しい反応は余計に父の興味をひくところだったようで、つづら折りの道が途切れて短い直線にさしかかった車はかえって車速を落とすと、顔を逸らして後部座席の二人に目を向けてくる。
「お父さん、前、前!よそ見しない!」
「…いや、そうは言ってもな…ああ、駐めるからちょっと話しようか」
音乃の注意にもどこか焦った風に答え、そして言った通りに、大胡は車を脇に寄せてハザードランプを点ける。
しまったあ、みたいな顔をしてる蒔乃を渾身の目力で睨むと、慌てて目を逸らされる。
後で覚えておけよ、ともう一度強く睨みを利かすと、蒔乃の口から手を離して音乃は座席に深く腰をかけ直し、こちらを向いていた父に言った。
「…友達だってば。あっちに行って知り合った。仲が良いのは確かだけどお父さんが心配するようなひとじゃないよ」
「…外国人か?男なのか?」
「だからそういうんじゃないってば。もう遅くなるでしょ、いいから車出してって」
外国人どころか地球人ですらないのだが、まさかそう告げるわけにもいかず、もう言うことはないとばかりに、はよ行けと前に向けて人差し指を突き出す。
だが、それを無視して父は音乃の顔を見つめ続けている。
心配なのは分かるが、ターナとの関係を勘ぐられるのも困りものだ。偏見とまではいかないが、父は外国人というものに微妙な印象を持っている節があるので、本当のことを言ったら卒倒くらいはやりかねない。
「…女の子だよ。大丈夫、お父さんやお母さんに心配させるようなことしてないって」
「……本当か?」
と、今度は蒔乃に向けて問う。まさか蒔乃が、デンマークから来たかっこいい女の子と音乃ちゃん恋人になりました、などと言うはずもないが、音乃はあからまに「余計なこと言わないでよ!」な顔を向ける。
「…まあ、それはホント。おとーさん、もう少し娘を信用して欲しいなあ」
ちらっと音乃の顔を見てから、蒔乃は何だかおねだりでもする時のような猫なで声で父に答えた。
これで誤魔化せるようなら娘二人にダダ甘いただの父親、というところだが、当然ながら大胡は娘にダダ甘い普通の父親だった。
「そうか。なら、いい」
音乃が家を出ていく時、蒔乃は駄々をこねて散々両親をも困らせていた。その後、蒔乃が両親とどう接しているか、などという話は聞いていなかったから、あるいは反抗期の娘に手を焼いてでもいたのか。
父はそんな蒔乃の様相に少し音乃も幻滅するようなだらしない笑みを浮かべ、運転を再開するのだった。
その後は和やか…とまではいかないにしても、音乃の近況、主に勉学に関してのことだが、それを話題として何事もなく家に辿り着く。
近所の家々はもう灯りを落として寝入っている頃だろうし、父も特に気をつけて静かに車を家の車庫に入れた。
「ただいまー。おかーさーん、おじーちゃーん、おばーちゃーん!帰ったよー。音乃ちゃん連れてきたからお小遣いちょーだーい!」
「あんたはそんな契約結んでいたのっ?!」
「…冗談じゃない。あわよくば、とは思ったけど」
妹のしたたかっぷりに呆れかえりながら、音乃も荷物を抱えて玄関に入った。
車を片付けている父を待つこともなく鞄を下ろし、靴を脱いでいると、奥からスリッパの音と共に母の
「…おかえりなさい。二人ともお腹空いてる?」
「あ、うん。ただいま。新宿で食べてきたから大丈夫」
「そう。おじいちゃんとおばあちゃんはもう寝たから、静かにね」
樫宮家は一家で農業を営んでいるから、朝は早い。祖父と祖母の顔を見られなかったのは少し残念だったが、音乃は「うん」とだけ応えて、さっさと上がり込んでいった蒔乃の後を追っていった。
「ああ、音乃?手紙が来ていたから机に置いてあるの。後で見ておきなさいな」
「はぁい」
手紙?高校の頃の同級生とは連絡のやりとりをしていないでもないが、手紙を往還させる程の友人はいないはずだ。
訝しくは思うが、とりあえず久しぶりの自分の部屋に向かう。隣の蒔乃の部屋はとっくに灯りがついていて、行動の速い妹に思わず苦笑を漏らす音乃だった。
「手紙…誰だろ?」
自室に入り荷物を下ろすと、使い慣れた学習机の上に置いてあった封書を手に取る。
住所は長野市内の聞き覚えの無い町名で、名前となると。
「飯田、亜伊子……何か聞き覚えはあるよーな………あ」
恐らく、家を出る前であったなら即座に思い出していただろう。
その名前は、音乃と衝突して大けがを負わせ、そして音乃がスケートを諦める切っ掛けを作った選手の名だった。
「………」
そうと気付くと、手の中の紙が急に重みを増したように思える。
母はこの差出人について知っていたのだろうか。つい先程の気軽な調子の母の言葉が疑わしくもなる。
すぐに顔に出る父と違い、母はその長閑な雰囲気に似合わず何を企んでいるのか容易には察せないところがある。しつこく帰郷を求めたのも、この手紙のことがあったからなのだろうか。
「…っても届いたのは…多分一昨日か。お母さんが何か企んでるわけもないね」
消印の日付を確かめ、それが音乃の警戒を深めることもなさそうだと知ると、一先ずはと居間に向かう音乃だった。
・・・・・
『いつか直接伝えたいと思っていましたが、このほどようやく筆を執る機会に恵まれたので、お手紙差し上げました』
で始まった内容の手紙を、落ち着いてゆっくりと、最後まで読む。
気にはなっていたのだが、とにかく両親との面通しを済ませる必要があり、また窮屈な車内で五時間ほど過ごして凝った体をほぐしたくもあって、風呂に入って濡れた髪を拭きながら手紙の封を切ったのが、十分ほど前。
「………」
バスタオルを頭から被って立ったまま読み終えた手紙を音乃は机の上に置き、自分はベッドに腰掛け、思う。
アクシデントの後で知ったことだったのだが、ぶつかった相手の飯田亜伊子は自分よりも三つ年上。当時だと大学の二年生で、東京の体育大に所属していた。実力は、というと高校生だった自分と比べても仕方ないのだが、体育大生となると期待はされてはいたのだと思う。
ただこれも後で聞いた話だが、当時彼女は伸び悩んでいた時期で、焦りのようなものがあったとのことだ。接触や転倒など当たり前のショートトラック競技と違い、音乃のやっていたアウトトラック競技は、転倒があったとしても直接選手同士が衝突することなど滅多にはない。
それでもぶつかってしまった。そして片方は、大けがを負った。
怪我をさせた方に、非難があったとしても不思議ではない話、だったのだろう。
「…ふう」
読み終えて、一つ息をつく。
手紙の内容は、ごく常識的なものだった。
連絡がこれほどまでに遅くなったことの謝意。それから、音乃に怪我をさせてしまったことへの謝罪。そして一件から自分がどうしてきたか。もちろん、他の選手や競技関係者に責め立てられたことなどおくびにも出されてはいなく、それだけに音乃には通り一遍の陳謝のようにも思えるのだった。
「なんだかな…もう少しぶっちゃけた話が出来ればいいな、って思うのは私だけなのかな」
そう思えるようになったのも恐らくは、東京での体験やターナとの出会いに負うところはあるのだろう。ともあれ以前なら重く受け止めていただろう内容も、今の音乃には余裕すらもって受け止められる、また逆に相手の事情を斟酌することすら、出来るようになっていた。
「…連絡、してみるかな」
先方の住所は封書にも記されている。
返信をしたためるのは当然吝かではないが、お盆に前後して手紙のやりとりをするのも少々迂遠に思える。
そしてそれ以前に、手紙の文面から受ける印象が音乃を少し焦らせるものであったこともまた、事実なのだった。
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