第47話
目の前に置かれたカップの中身を一口すすり、ターナは「…ほう」と感心したように唸る。
音乃もそれを見て、見慣れない色合いのそれを口にしたが、程よく暖められたミルクに紅茶の風味、それから疲れた体に染み入る甘さが嬉しい味だった。
「堪能できます。これはレーニが?」
「左様。妙に器用なところのある子での。先日もこういった茶については儂や達也の世話をたんとやいてくれたものよ。儂も茶にはうるさいが、全く敵わん」
日本茶と紅茶がベースのものでは話は違うだろうが、音乃にも一口で良いものと思える茶葉を、本来の味を損なわぬようにミルクティーにアレンジするのは簡単なことではないと思える。
「…さて、始めようかの。時間がかかるとあの子が気にしてやってくる」
「…そうですね」
ただ、そんな緩い空気は僅かな時間で終わった。
玄三老の切り出した話題にターナも口元を引き締めて応じると、音乃はあの時受けた苦しみを思い出して胸が絞られる思いに、なる。
「……ターナ?」
だが音乃は、卓の下で自分の手を握られて、覚えた不安をすぐに鎮めることが出来た。
察してしまわれて話が進まなくなるのは嫌だったから、音乃はじっとしていただけだ。
けれど、ターナは音乃の抱えた昏いものに気付くと、ためらうことなくその手を差し伸べてくれる。
こうして自分の気持ちを察してくれることが嬉しくて、隣に座るターナの横顔を、盗み見るように覗ってみた。
「………」
顔つきは厳しかったが、音乃には頼もしく、それからとても可愛く思えた。
こんな少女と自分がどうにかなってしまったことが信じられなくて、浮かれた気分にもなる。
「…音乃、済まないが後にしよう」
「あ、う、うん…ごめん。そうだね」
そんな視線に気付いたターナに、困ったように、言われてしまった。
手を放されてしまったのは残念で、離れたあとが急に熱の冷めてしまったかのようだったが、離れ際にターナの指が、惜しむように一瞬留まったから音乃にはそれで、充分だった。
気を取り直し、玄三老に向き直る。
「では、始めようかの」
「宜しくお願いします」
そして話は始まった。
「樫宮の嬢ちゃんには事情は言うておらなんだか?」
「ええ。音乃、お前には黙ってやっていたことだが、奴に関する話を収集してもらえるよう、頼んであったんだ」
奴、とは言わずもがなの「異世界統合の意思」のことだろう。しかし、探すにしてもどんな探し方をしたというのだろうか。
「ウヅキを探していた時のことがあったからな。ああいった真似をしていないか、噂話なりの聞き込みをしてもらっていた」
「ああ、なるほどね…それでターナが言いづらかった理由も分かったよ」
「…悪かったな。お前がまた嫌なことを思い出すかと思ったんだ」
「いいよ、別に。ターナが私のことを思ってそうしてくれたのは、分かるし」
「仲睦まじくて結構じゃがの…」
「あっ…」
「…済みません」
目の前でいちゃつかれては面白くもないだろう…と思われたが、玄三老は音乃とターナの関係にはさほど興味もなさそうに、ソーサーの上にカップを置いて続ける。
「頼まれていた件はの、ほぼお前さんの言う通りの話が聞けた。あるいは偽装、欺瞞が含まれている可能性もなくはないが…」
「いえ、それはわたしの方で判断します。一先ず、聞けた話の内容を」
「うむ…」
それならば話は早い、とばかりに、玄三老は早速話し始めた。
音乃も経験したとおり、「異世界統合の意思」は警察などにかけ込む心配の少なそうな…有り体に言えば大喜びで暴力を振るう輩を、ある意味それ以上の暴力で従えていた。
それで何をさせるのか、どんな目的があるのかはこの場では関係のないことだろう。玄三老とターナが、卓の上に広げた地図を見ながら話す内容にはそんな話は含まれてはいない。ただ、この場所でこんな話が聞かれた、というだけのことだ。
「話の内容としてはどれも共通しておったからの。といって個人の主観による揺らぎも一切認められない、というほどではない。あからさまに操作された情報とは言い切れんのだとは思うが」
「…それで、あなたがおかしいと思ったのはどのような点なのです」
地図上の一点を指で押さえていたターナが問う。
場所としては池袋の駅周辺、といったところだが、この際場所はどうでもいいのだろう。
「時期の話だな。噂の広まるのは早かったが、どうにも発生源と噂の距離が近いようでの。ある時期を境に、その発生源に近い方からの話がとんと途絶えてしもうた」
「…それってつまり、その時期以後はその子供も活動を止めた、ってことですか?」
音乃の問いに玄三老は難しい顔で答える。
「さてな。目的とするところが分からんのだから、儂には何とも言えんよ。お前さんの方が分かるのではないかね?」
と、ここはターナに水を向ける。
「時期は特定できますか?その、途絶えた、という時期ですが」
「実は時期と呼べるほど広くない。距離が近い、と思った由縁じゃの。先週の月曜からだな、ピタリと止んだのは。脅されておった者共の証言もある。ちょうどその日を境に、一切存在を匂わせる痕跡が消えた。お前さんに伝えなかったのは情報が入ったのが昨日だったのでな…急ぎであったのならすまなんだが…」
「いえ、それは大丈夫ですが…月曜?」
うむ、と大きく頷く玄三老。
ターナの様子に何か厳しいものを見て取ったのかもしれない。
「…ターナ、月曜日っていうと」
「ああ。気になるな……音乃、戻ろう」
「うん」
月曜日。マリャシェがターナの部屋に担ぎ込まれた翌日だった。
つまり、マリャシェの出現と時を同じくして「異世界統合の意思」の探索活動が止んだことになる。関係がないと思う方が無理だろう。
「随分と急ぐことよ。危ない話かの?」
「分かりません。が、こちらの心当たりと合致する部分があります。急いだ方がいいかもしれない」
「分かった。何事かは聞かぬが無事であることを祈っておるよ」
ありがとうございます。ターナが気ぜわしげではあるが気持ちのこもった礼をする間、音乃は立ち上がってレーニを探しにいく。しばらくは顔を合わせられないかもしれないな、と思いながらだった。
・・・・・
車で送らせようという申し出があったが、今回は素直に受け入れて近くまで乗せてもらった。
ターナ一人であれば不要だろうが、音乃を置いて戻る気になれなかったターナの判断だった。
「…ね、どう思う?っていうか、着いたらどうしよう?」
「出たとこ勝負、だろうな。どちらにしてもまずマリャシェがちゃんと部屋にいるかどうかだ。くそ、スマホの一つでも持たせておけば良かった」
「そんなに安いものじゃないんだし、それに携帯って契約するとき身分証明書要るでしょ…っていうかターナってスマホ買う時どーしたの?」
「そんな今どうでもいいことを聞かれてもな…事務所の人に身元保証してもらった、と、そこでいいです。止めて」
車と運転手は玄三老に付いているものだったので、詳しい事情を説明する必要もなく、ターナは一応警戒して下北沢駅にほど近い静かな場所で車を止めさせる。
「ありがとう。玄三老には礼を言っておいて下さい。音乃、降りるぞ」
「うん」
余計なやりとり一切無しで車を降りた。なんやかんや思われているやもしれないが、こちらに気を遣わせない辺り、プロの運転手という感じがした。
「…何か静かだね」
「気のせいだろ」
降り立つと同時に音乃が口にした感想を素っ気なく否定するターナ。
そうは言ったが、ターナも常に無く緊張はしている。音乃の気のせいとばかりは言えなかった。
焦りはないつもりだがそれでも足は急く。
二人はいつも通る道を、一言も口を利かずに歩む。それでも時間が無為に過ぎていくように思え、いつしか小走りになっていた。
「見えた!…と、灯りはついているが…」
「…ターナ、急ぐならわたしを置いてってもよかったのに」
「ばか、お前を置いていけるわけがあるか。そんなことを言うな」
「あはは…こんな時だけど、それは素直に嬉しいって思うよ。で、どうする?」
ターナの部屋の玄関が見える位置にいる。
灯りは窓から見てついているものの、マリャシェがいるかどうかは分からない。
「行ってみよう」
「うん」
つい数時間前のことを音乃は思う。
ターナの気持ちを告げられてなんとも甘い雰囲気になっていたのに、今はこうして危険とすら思える場面に出くわしている。まったく、この展開のスピードは何なのだろうか。もう少し落ち着いた時間というものが欲しくなる。
けれど。
ターナと一緒にいると起こるこんな騒動も、無意味ではないと思える。
音乃としてもそれは静かな生活の方が望ましいが、ターナという個性の側に居ればどうしたって騒ぎにはなる。
ターナの隣に居ることを選んだ以上、それはついてまわるというものだ。
ならば、こんな事態はターナの一部だ。選んだことに覚悟が追いつくのではなく、音乃の決めた覚悟で受け入れるべきことだ。
言葉で語ることが苦手だ、と言ったターナは気持ちを直接音乃にぶつけてきた。言葉と心の違いではあったが、それでも彼女は自分に自身の全てを見せてくれたのだ。
ターナの側にいよう。居続けよう。
もう一度決心して、音乃はターナの背中を追う。
「…しっ」
唇の前に人差し指を立ててターナは自室の前にしゃがむ。
階段はもちろん静かに上がったが、あるいは「異世界統合の意思」が待ち構えていたとしたら、無意味な行動かもしれない。
音乃はそちらとは正反対の意味でこの警戒が無意味であることを祈りつつ、大人しくターナの後ろに同じくしゃがんでいた。
一度ターナが振り向いて頷く。音乃はそれに瞬きだけで応える。
意味が通じたのか、ターナは小さく微笑んでそれからゆっくりと立ち上がった。
”……マリャシェ。帰った。いるか?”
”…いますよ。お帰りなさい”
…思わず脱力した。良かった、何事もなかったようだ。
ターナも同じ気分なのか、音乃の方を見て大げさに肩をすくめてみせる。流石に満面の笑顔、とはいかなかったがそれでも安堵したように口元を綻ばせていた。
鍵を取りだして開ける動作もどこか慌ただしく扉を開ける。
”ただいま。何も無かったか?”
「お邪魔しまーす」
部屋の中はいつものターナの部屋だった。音乃が初めて訪れた時、部屋の主は「何も無い部屋だ」と言っていたが、あれから時間は重ねられてその分ものも増えている。その一つ一つにどんな経緯と意味があるのか、音乃は残らず覚えている。
自分にとってのターナという少女の存在の重さを、改めて確認できた。
”遅かったですね?”
”ああ、済まない。食事をご馳走になっていたからな…と、マリャシェの分を考えてなかった…”
「あ、それなら私が何か作るよ。ターナも食べる?」
”そんなに食べられるか、ばか…あ、いや、やっぱりわたしの分も頼む。少しでいいから”
「…へぇ~、そんなに私の作るご飯食べたい?明日まで待てないくらい?」
”うん。久しぶりということもあるが、音乃の作るものをずっと食べていたいと思うぞ、わたしは”
「…あ、あー、うん。あはは、そこまで言われるとおさんどん冥利に尽きるというかね…」
時々見せるターナのストレートな愛情表現は音乃に戸惑いと大きな喜びをもたらす。
しどろもどろになりながらも、冷蔵庫を漁って相変わらず食材の乏しいことに呆れながら、それでも冷凍していたものと白米で何かを作り始めるのだった。
”…随分仲良くなりましたね”
”ん?あ、ああ。まあ、な。その…音乃とわたしは、まあ、そういうことになった”
”そういうこと……ふふ、そうですか。幸せそうでなによりです”
”ん、んんっ!…あまりそう真っ正面から言われるとな…でも、ありがとう”
「当人の片割れを放っておいてそーいう会話しないで欲しいんだけどな。はい、お茶。マリャシェさん、昼間何も食べなかったの?台所キレイだったけど」
”ありがとうございます。…そうですね、二人のことが心配で何も喉を通りませんでしたよ”
”またそーいうことを言う…”
苦笑しながらだったが、ターナも少し照れながらマリャシェの心配にはそう感謝していた。
朝に出かけてから起きたことを、二人してマリャシェに楽しく話していた。
ターナが、今思うと、と付け加えてはいたが音乃の顔を見るまではマリャシェに煽られて悶々としていたことを告げると、一方の音乃はマリャシェに自分の気持ちを言い当てられて動揺し、それからずっとターナと向き合う決心がつかなかったことを言ってターナを呆れさせる。
そして音乃の相談にのってくれたことをマリャシェに感謝し、二人がこうなれたのは間違い無くマリャシェのお陰だと、これは音乃も含めて重ねて礼を述べていた。
”まあそうなると、いろいろと大変なこともあるとは思いますが”
「…そうですね。でも私は大丈夫だと思います。ターナのことが大事で、ターナもわたしのことを大事にしてくれます。先のことは分かりませんけど、今はそれで充分なんですよ、きっと」
”だな。何も変わらない…なんてことはないが、わたしたちが大事だと思うことは変わらないと思う”
”…ふふ、羨ましいですね。わたしにもそう思えるひとはいましたが…もう手が届かなくなって久しいですから”
遠くにあるものを懐かしむようにマリャシェが言う。
ターナにとってマリャシェは同族と呼べる存在ではあったが、ここ最近のように近くあって親しく話をする間柄ではなかったから、個人的な人間関係には詳しくはない。
”マリャシェ。いつかわたしに『竜の娘』の恋について語ってくれたように…あなたにもそういう経験はあったのだろう?その、今さらだとは思うが、力になれることは…”
”ありがとう。ですがもう無理な話です。マリャッスェールス・アリェシトゥアとしての生涯は終わりを迎え、届くものは何もありません”
「マリャシェさん…そんなに思い詰めなくても…」
”音乃、気持ちは分かるがあまりお前がそう入れ込むな。いつか辛くなる”
ターナのそんな言葉は音乃を気遣ってのものだったが、それでも音乃にはいくらか気に障るところはある。音乃に心を配るあまり、マリャシェに厳しいのではないのか。
「そういうこと言わないでよ。まだ何も決まったわけじゃないんでしょ。そりゃあさ、ターナたちの力とか立場とか、私はそーいうこと全然理解出来てないけど、マリャシェさんっていうひとの気持ちだけは汲み取っておきたいもの。そう思えるようになったのってターナのお陰なんだからね。私にターナがそんなこと言うのだけは許さないよ」
「音乃……うん、そうだな。ありがとう」
「どういたしまして」
にっこりと顔を見合わせる。
まったく。通じ合っているということは時に厄介なこともあるが、言葉少なくとも気持ちのすれ違うことはないのは悪くないものだ。
ターナがそんな風に思っていると、マリャシェも感じ入るところがあったかのように口を開いた。
”そうですね。わたし自身、竜の娘としてではなく、ひとつの存在として他者と繋がりたいと思うことはあります。だからもう少し足掻いてみたいとは思います。ターナ、手伝ってくれますか?”
”もちろんだ。そもそもだな、マリャシェには沢山世話になった。恩を返すことに竜の娘だのなんだのと関係はないからな”
「ターナいいこというー。じゃあ私も、だね」
”ふふ、そういうことであれば、ありがたく力を借りましょう。さしあたって、ですが”
”うん。何だ?”
ここでマリャシェは姿勢を改め厳しい顔つきになった。
そして、何を言い出すのかと身構える二人の前で、こう切り出す。
”狂戦士について。知るべきことを知っておく必要があるでしょう”
部屋の温度が下がったような心持ちだった。
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