第46話

 夕食の仕度、というものがどんな内容かは分からないが、離れた場所で人の動く気配はする。あるいは玄三老とレーニが談話しているのかもしれない。

 却って、そんな物音とも呼べない音が余計に、隣にいる音乃からもたらされる熱のようなものを、際立たせている気がした。


 「ね、マリャシェさんどうしてる?」

 「どうもこうも…ずっと部屋にいる。何だか悪いことをしてる気になるくらい大人しいな」

 「そう…あのさ、今度マリャシェさんも誘ってどこかに出かけない?」


 悪くない提案だ、と思う。

 ターナの耳に届く音乃の言葉は相変わらず優しくて、マリャシェに今の状況を強いている様々な事象をも許せそうな気にさえ、なる。

 けれど、今それをさせられないのは自身の怯懦にも依るのだ。


 音乃の魅力的な申し出を形にするためにも。


 「…そうだな。けれど、その前にやっておかないといけないことがあるんだ」


 どんな形になるとしても、ターナは音乃と自分の気持ちに、明確な形を与えなければならない。


 「うん。なに?」


 「音乃。わたしは……………お前の作る食事が食べたい」

 「うん、いいよ。明日でいい?最近ご無沙汰だったからいろいろ作りたいものあるんだけど」

 「……………」


 失敗した。

 そーじゃないだろう、わたし!


 「あ、あれ?ターナどうしたの?私何か変なこと言った?」


 思わず膝から崩れ落ちて四つん這いになったターナを、隣の音乃もしゃがみ込んで心配そうに見守る。


 「い、いやなんでもない。別に音乃のせいじゃない」

 「そう?でも何か今日のターナはちょっと…かっこ悪いよね」

 「…あー」


 立ちっぱなしもどうかと思って胡座に座ると、音乃も隣に腰を下ろした。少し離れている。ターナの欲しい距離ではなかった。

 というか、かっこ悪いとは何だ、かっこ悪いとは。わたしは音乃のヒーローではなかったのか。

 いつか玄三老に言われたことを思い出す。変身ヒーローのようだ、と。

 ヒロインの危難に颯爽と駆けつけ救い出すのが自分ではなかったのか。今の自分は自信の気持ちさえ持て余しているみっともない姿を晒しているだけだ。

 …確かに、音乃の言う通りかっこ悪いのだろうな。

 思わず嘆息する。


 「それでご飯どーする?今日帰るときに買い物でもしていこうか?」

 「あー、うん。それはありがたいのだけどな。わたしが欲しいのはそーいうことではなくて…」

 「はっきりしないなあ、今日のターナは。ご飯の他にターナがわたしにして欲しいこととか全然想像つかないし、何かあるならちゃんと言ってよ。私、ターナと違って思ってることなんか言葉にしないと分かんないんだから」


 (………そうだな。お前が言葉や態度で示してくれた好意に報いることが出来るのは、結局わたしの示す言葉や態度でしか…なし得ないのだな)


 音乃はずっとターナを気にかけてくれていた。

 言葉で好意を示すだけではなく、異なる世界に逃げてきたターナに、新しい世界を与えてくれた。

 彼女自身はどうだったのか。

 同じく、置いてきたものと自分なりに向き合い、それから自分の手で道を拓きつつあるのだと、思う。

 そしてその姿はターナには眩しく、抗い難きに抗ってきた「竜の娘」の歴史に屹立すべく在るようにさえ、見えた。

 自分はどうなのか。遠祖の立ち向かった危難の大きさを思い、今自分にもそれと同じ機会もある意味、訪れている。

 音乃の個人としての抗い様とは比べるべくもないのは確かなのだろうがそれでもターナは、音乃に憧憬にも似た愛おしさを抱いている。


 (いや。それで済ませていいはずがない)


 自惚れと誹られるかもしれないが…ターナは、音乃がターナとの関わりの中で、自分を変えてきたのだと、思いたい。

 音乃が失っていた音を取り戻し、また立つべき場所に向かい始めたことを、ターナも誇っても構わないのだと。そしてそう言った時に音乃は、間違い無くにこりと笑って自分を受け入れてくれるだろう、と。


 音乃が音乃であったように、自分は自分であればいい。

 それで二人は並び立つ資格を得る。寄り添うのではなく…その形ではあっても、互いの足で立つ場所が異なっていたとしても、言葉と心で繋がった関係は途切れることはない。

 だから、ターナは、恐れない。恐れる必要など、ない。


 「…音乃、わたしにはやらなければならないことが、ある」

 「うん」


 意を決した述懐は、何の気負いも無い柔らかな言葉で受け止められた。


 「マリャシェのことだ。彼女は、わたしが捨て置いてきた世界から追ってきた、わたしのやらなければならないことの、一つだと思う。その結末がどうなるかはまだ分からないし、悲劇で終わる可能性だってある。それでもやらなければならないことに違いは無い。音乃」

 「はい」

 「…わたしのやることを、見ていて欲しい」

 「いいよ。私はターナのことを見ている。手伝えることなんかないかもしれないけど、力になれることをするのは、私にとっても喜びだもの」


 ターナの言葉に、何の逡巡も無く頷く。

 心の底から、愛しいと思えた。


 「そして、だ。『異世界統合の意思』のことだ。音乃、お前に苦しみを与えた奴のことを放ってはおけない。奴が何を考えて何をしようとしているのかは分からないが…この世界に災いをもたらそうとするのならば、音乃の生きる世界を壊そうとするのならば、わたしは命をかけてでも阻止する。これは誓いだ。音乃の寄せてくれた気持ちに対して、わたしが報いて行うべきことだ」


 言葉を告げている今の自分は、音乃にはどう映っているのだろうか。

 きっと自分の言葉に込めたものと同等以上の熱が、その視線にはあるだろうことを確信して、続ける。


 「…もう一つあるんだ。音乃、わたしは言葉で語ることが…その、上手くはない。だから、わたしの出来る最も強い形で伝える。聞いて、くれるか?」


 こくん。


 そこにあったのは間違い無く、勇気。

 目の前に広がる景色がどんな形のものなのか、これから知ろうとする勇気。


 ターナは想いを込める。

 傍らに居る愛しい存在の両肩に手をかけ、願うように想う。


 幼い頃にいた、竜の娘の理と在り方を教えてくれた先代の娘たち。

 その在りように疑問を抱き、厭い、逃げ出していた自分。

 この先に行けば何かが分かると諦め、日本に来た。

 けれど、生きることに精一杯で、何も見つけられず何も変わらず、ただ時間が過ぎていた。


 音乃に出会ったのは偶然だったのだと思う。運命、などという言葉を簡単に信じられはしないが、もしそんなものがあるのだとしたら、この出会いをもたらしてくれたことにだけは感謝してもいい。


 音乃が訪れてきてくれた時間は、自分の心の宝だ。埋められなかったものが歓喜と感謝で彩られていく日々は本当に楽しく、この世界に惜しみない愛着を抱かせるに充分なものになった。


 命が失われる、ということの意味と怖さを教えられた。

 それが自分とって一番大事なものだということを、気づかされた出来事だった。


 音乃。

 お前はわたしの心に刻まれた。

 音乃のために生まれた、最初で最後の竜の娘となることを固く誓おう。



 そして、ターナは目を見開いた。

 音乃の顔は、すぐ目の前にあった。

 期するものが、見えた。


 だから、言葉で伝える。


 「音乃。わたしはお前を、愛している」


 「………うん。わたしも、ターナのこと…大好きだよ」

 

 擦れた声は、何よりも心に響いていた。



   ・・・・・



 「二人とも遅い、です」


 口を尖らせて文句を言うレーニに迎え入れられた部屋では、いくつもの食器が並べられた大きな食卓が待っていた。


 「…うわぁ、あの、こんなに豪華なお食事、いいんですか?」

 「遠くから見えた孫の許婚だからの。それに加えてその大切な友人となれば、存分にもてなす理由としては充分であろう。近在の割烹に腕のいい板前がおってな。贔屓にしておるのだが、今宵は随分と力を入れてくれたようだ」


 つまり料亭の仕出し料理、というわけなのだろう。

 家事を手伝う者はいるようだが、この場には見えなかった。音乃が他に誰もいないか問うと、今日は水入らずだから帰らせた、とのことだった。ターナもありがたく思う心遣いだった。


 「…それで、ネノとターナ、仲直ったです?」


 早速食卓についた二人を見て、レーニが聞いてくる。

 特に意識はしていないつもりだったが、レーニからは距離が近くなったようにでも見えたのだろうか。思わず顔を見合わせて顔を赤らめる音乃とターナだった。


 「ふふ、それは良かったです」


 なんだかマリャシェにでも言われているようだ、とターナは苦笑する。


 「…それで、だの。例の話だが、後で話そう」


 だが、何事かを察したかのように遠慮深く告げられた玄三老の言葉には、ターナも身を固くする。

 例の話、となると「異世界統合の意思」の件だろう。

 音乃やレーニの前でしていい話かどうかは微妙だが、少なくとも音乃を遠ざけてしたいとは思わなかった。

 それはきっと、つい今し方の出来事を経て起きた、ターナの変化の一つなのだろう。


 「例の話?」

 「ん、まあ、後でな。今はレーニの歓迎会のようなものだし」

 「…そうだね。レーニ、乾杯とかする?」

 「カンパイ?…あ、Kippis、です、ね。じゃあ、わたし、やります!」


 なんともやる気満々な顔で立ち上がり、ジュースの入ったグラスを持ってレーニはこう言う。


 「…わたしの友だち、ネノとターナの、新しい関係に、です!」

 「わぁっ!ちょっ、ちょっとレーニそれどーいうこと?!」

 「とんでもないことを言うなバカっ!!」


 一人楽しそうに顔をほころばせる玄三老と違い、動揺しまくった音乃とターナは慌ててレーニの口を塞ごうとするのだった。




 そのようなことはせずともいい、という言葉にも従わず、音乃とターナは一緒に食器を洗って片付けた。

 様々な料理が、人数分に取りそろえられていたからとにかく食器の数は多く、音乃に仕込まれて洗い物だけは上手くなっていたターナもなかなか減らない食器に閉口していたものだが、音乃と並んでする作業はそれだけでターナの手を軽くするもので、音乃が思わず自画自賛で感心してしまうくらいに手際良く、全ての食器は綺麗になっていた。

 二人は、レーニが何やら造り始めた食後の一杯を待つ間、玄三老にことわってまた屋敷の中を見て回ることにした。


 「…ねえ、これからどーしよ?」

 「どう、と言われてもな…」


 まあ結局は二人きりになりたいだけだったので、ターナが告白をした部屋で肩を寄せあっているのだったが。


 「…マキに会ったら何て言おう……あーもー、こんなことなら来週の誕生日お祝いしてあげるから来いとか言わなければよかった!」

 「うん?なんだ、来週なのか。いつだ?」

 「土日に来るって。夏休みなのに土日しか動けないって、あの子何やってんだろ」


 そういえばターナの誕生日、にかこつけた騒ぎの時に聞いていたことを思い出す。


 「…まあ別に、マキノが来ても今まで通りでいいんじゃないのか?」

 「そーかなー…私としては折角ターナと両想いになったんだから、いろいろしたいんだけどなー」

 「いろいろって何なんだ…」


 なんとなく、獰猛な肉食動物にでも狙われたような気分になる。

 こう見えて、思うとなると一途というか周りが見えなくなる音乃のことが、少し心配なのだった。


 「とりあえずだな、今まで通りということで…明日は食事を作って欲しい」

 「私はターナの飯炊き当番か!…もー、もう少し労って欲しいな。愛しの恋人なんだから」

 「おっ、お前ハッキリした途端に遠慮がなさ過ぎるなっ?!」


 実のところ、音乃の態度としては今までとそう違いがあるわけでもない。単に受け止めるターナの気持ちの方の問題だ。


 「大体さ、ターナだっていつぞや私に抱きついて、『ずっとこうしていたい』とか言ってたじゃないかー」

 「そこまでは言ってない!ねつ造するにも程があるぞ…」

 「んふふ…今ならずうっとこーしてても…いいよ?」


 そう言って音乃は、並んでいるターナの肩に頭を預ける。


 「お前、この姿勢好きだな…」


 自分より背の高い音乃にそうされて思うところがないでもないが、結局ターナは音乃の肩に腕を回し、もっと近づけとばかりに力を込めて抱き寄せるのだった。


 「…ん」


 鼻に掛かった、音乃の甘える声が心地いい…いや、心地いいどころかむしろ落ち着きがなくなる。


 (そ、そういえば…こういう場面で恋…人同士がすることとは、確か……うむむむ…)


 聞きかじりの知識でやっていいのかどうか。

 思い悩まないでもないが、こんな時にターナは、音乃を暴漢どもから救った時のことを思い出してしまう。


 (あ、あれは…あの時はその…わっ、わたしにもそういうつもりがなかったからで、だな…今は、今はその……………しても、いいのか?)


 そっと隣の音乃を見る。

 ターナの肩に頭を乗せたまま、こちらを見上げていた。


 (………?!)


 意外だとは我ながら思ったが、ターナはこの時初めて、音乃が可愛く見えた。


 艶やかな黒髪は垂れてターナの肩にもかかっている。

 微かに開いた口元は、想うことを言葉にせずとも雄弁に語っているかのようだ。

 そして、全幅の信頼と愛情を込めて自分を見上げる瞳。


 視線は、音乃の唇に集中する。

 この可愛い唇を、自分のもので塞いでしまいたい。


 欲望にも似た激しい感情だったが…。


 「ネノ、ターナ?お茶入ったですよ!」


 (…まあそんなことだろーとは思ったがな!)


 悶々としたまま、「はーい」とあっさり自分を離れていった音乃の背中を見送るしか出来なかった。



   ・・・・・



 「うん?レーニはどうしましたか?」

 「あれ、レーニいないんですか?」


 食卓の間に戻ると、玄三老が一人で三人分の茶器を前にして座っていた。


 「レーニには少し席を外させておいた。話をしておいた方がいいと思ってな。二人一緒の方がいいかの?」

 「はい。お願いします」


 頼み事を持ちかけた時は音乃には告げていなかったが、ことこうなっては隠すべきではない。

 ターナはそう判断して音乃を促し、並んで玄三老の対面に座る。


 「うむ。そういうことであればこのまま話そうか。お前さんに頼まれていた、怪しい力を扱う子供のことについてだ」

 「…え?」


 驚いた音乃の不安そうな声は、舞い上がっていたターナの心をひどく苛むものだった。

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