第36話
「へくちっ」
音乃のかわいいクシャミが、下北沢の夜の空に響く。
「…ほら」
「あ…、ありがと」
ターナは自分の革ジャンを脱いで、音乃の肩にかけてやった。
早速達也に会いに行きたいと言っていたレーニとは、川崎の駅で別れていた。
玄三老にその旨を伝えると、迎えを寄越すと言ってきたのでその迎えが来るまで一緒に待っていたから、ターナの部屋に着くのは十時も回る頃になるだろう。
本当に、長い一日だった。
「…お腹空いた。お風呂入りたい」
そうぼやく音乃だったが、これに関してはターナも同感である。
「途中で銭湯に寄っていくか?道具なら買えばいいし」
「うん、そうだね。そしたら、何か買ってってターナの部屋で食べよう?」
「いいな」
道すがら、色々な話をした。
特に音乃が驚いたのは、玄三老が音乃のことを知っていて、スケートをやめた今でもその身を案じていたことだった。
「…そっか。やっぱり私、色んな人に迷惑かけてたんだね」
「そういうことじゃないだろう、バカ」
そうとられたのでは「過去からの気がかり」とやらを届けたターナの立つ瀬が無い。
「…私、今日一日で何回ターナにバカって言われたんだろ」
「自覚が無ければ何度だって言ってやる。あのな、お前は一人で全部背負い込んでしまう悪い癖がある。音乃は一人じゃない。ご両親に蒔乃、一緒に住んでる先輩たちだって、それぞれに出来るやり方で、お前の力になってるんだ。そこのところをもう少し理解しろ」
ターナの革ジャンにくるまり首をすくめる音乃は、珍しく説教口調のターナの小言を黙って聞いていたが、それが終わると隣を歩くターナを不満げに睨む。
「…なんだ。わたしは何も間違ったことは言ってない。怒ったって謝らないぞ」
「そーじゃなくって。あ、いや、ウチの先輩たちにそー見られてるのは正直面白くないとこもあるけどさ。私が言いたいのは、一人忘れてないか、ってこと」
「一人?」
一瞬首を傾げるターナだったが、音乃の真意をすぐに理解すると、にわかに顔を赤くして慌てて言うのだった。
「ばっ、バカ!わたしがお前のことを気にかけているなんて当たり前のことじゃないか!何を今さら、そんな…」
「当たり前だからって言わなくてもいい、ってことじゃないんだよ、ターナ。言われて嬉しいことなら、何度だって言われたいんだから」
「あう…」
言い負かされたようにターナは項垂れる。言い負かされた、というよりは力尽くで想いをぶつけられた、というようにも思えたが。
…そういえば、とターナは音乃に話を振る。
「…音乃、真面目な話なのだがな」
「照れ隠し?私はどんなターナだって大好きだよ?」
「照れてるのはお前の方じゃないのか?…真面目な話だと言っているだろうが」
そこで言葉につまった音乃は可愛く見えたが、それはさておきターナは続ける。
「お前がわたしの刀を飛ばしてくれた時、なんだかすごく…わけのわからないものがわたしの内を巡った。いつも絡めとっている他人の認識に近かったが…とにかく質量がとんでもなかった。押しつぶされると思ったんだ。心当たりないか?」
「……………ないなぁ」
「おい」
反対側を向いてそんなことを言っても、嘘くさいことこの上ない。
「音乃がわたしの名前を呼ぶと同時だ。お前に心当たりが無いわけないだろうが」
「…………」
重ねての追求にも答えず、向こう側を向いたまま。
けれど、その耳は真っ赤に染まっている。
「はぁ…」
それを見て、ターナも追求を諦める気になった。
疑問の態ではあったが、なんとなく想像はつく。
ただ、それを認めると自分と音乃に関係が変わってしまうような予感もあった。
だからここではっきりさせなくても別にいいか、と矛を収めようとした。
「…まあいい。言いたくないのなら……」
「ちょっ、ちょっとそれは待って!」
ほとんど止まるところだった歩を戻したターナに、今度は音乃の方が慌てて止める。
どっちなんだ、一体、と眉間にシワを寄せる。
「…そのー、言いたくないわけじゃないんだけど…ターナがどう受け取ったかとゆーのがまず前提的に私としては問題になるわけでー……そこんとこどーなの…でしょう…?」
「いや、どう?とか言われても…」
ターナとしては自分の受け取ったものの正体が分からなくて確認したいのだし、それが分かる前に感想など聞かれても困るだけだ。
それでも、音乃の真剣な顔を見てしまうと、冗談に紛らすわけにもいかないとだけは、思う。
だから、一つだけ確信を持って言えることだけは、言った。
「…熱かった。これまで経験したことが無いくらいに。それくらいのものだな、言えるのは」
「はぅ…」
住宅街の真ん中で若い娘が二人して何やってんだい、みたいな空気を醸し出しながら、おそらく近在であろう老人が通りすがって、去っていった。
別に顔見知り、というわけではないが、何かと目立つターナのことだから向こうはこちらのことを知っているかもしれない。今更ながら、人の口に戸板の立てられないことに難儀する立場であることを、思い知る。
ただ、それもごく僅かな間の慨嘆だ。今ひとつ反応の芳しくない音乃に向きなおり、
「…それで結局、音乃は何を想ったのだ。こんなことは初めてだから、捉えてみたところで音乃のわたしへの認識がどういうものなのかが、分からない。流せ、というのであればそれはそれで構わないが、なんだかこの辺がもやもやする」
と、胸の真ん中を人差し指で指し示しながら、困ったように言った。
これでも返事が望めないのであれば、それはそれでいい。音乃にだって自分に言いたくないことの一つや二つくらいはあるだろう。些か胸に
「…その、それはターナに気付いて欲しいのがオトメゴコロというか、あんまりみだりに口にすると負けた気がするっていうか………でもね」
と、ここでようやく音乃は、正面からターナを見据えて話す。
「ターナを援けなくちゃ、って思って、そしたら無くしたと思っていた音の無い世界が私の前にあって、そこを駆け抜けたらターナを守れて、そうしたら……もう、ここで死んでも悔いは無い、って思った。それだけは言える、ターナに伝えておかなきゃいけないことだって、思う」
「…そう、か」
それで得心のいったことが一つだけある。自分が何故、音乃は死んだのだと思ったのか、だ。
音乃は、仮の話ではあっても、自分の死を受け入れてしまったのだ。
それがターナに音乃への認識として流れてきてしまい、音乃自身の認識とターナ自身の認識が曖昧になっていたから…。
「…だから、わたしは音乃が死んでしまったのだと、思ったのだな」
「え?…あ、そういえばターナ、それでスゴく泣いてたんだ……」
「う……うん…」
「………ごめん。あと、ありがと。ターナが私のために泣いてくれたことは、嬉しいって思う」
「うん……」
それきり、二人とも黙り込む。
もう五分もすれば、音乃も何度か通った銭湯に着く。雨は大分前に上がってはいるが、夕方から降っていたせいで気温も低く、体は冷えたままだ。
「…くちゅん!」
「……しょうがないな。風邪引くぞ」
「そうなったらターナに看病してもらうから、いいよ。おかゆくらいは作れるようになったでしょ?」
「腹壊しても知らないぞ」
「何作る気なのよ、もー」
まあ音乃のことだから、ターナが何を作っても喜んで食べてしまうだろう。
そんな予感だけは確かとして、下北沢の夜は更けていく。
以下は後日の話になる。
その夜に起きた事件の存在は、犬山家具における不祥事として、会長である犬山玄三の名のもとに公表された。
もちろん、ターナや音乃の関わった部分が公になることはなかったが、社長の犬山郡司がカジノで生じた損失で会社の資財に穴を空けたこと、そこにつけ込んだ暴力団の関与があったこと、会長と社長の間の対立はそれまでも知られてはいたが、この件をもって社長が退任し、会長も代表権を持つ役職から退位し、以後は内部の取締役から昇格した新しい社長が舵取りを行うこと、などが明らかにされた。
ターナが推測として音乃に語ったことによれば、犬山玄三は事をこのように運ぶことを準備してはいたが、その遂行のために実の息子で社長でもある犬山郡司の
暴力団絡みということで当然警察の捜査も入ったのだが、ターナが対峙した男のことは犬山玄三とその周囲のごく僅かな人間によってのみ処理され、事件として取り上げられることはなかった。
レーニ個人についてのこと、またハースキヴィ家との個人的な関係については、関係者以外に知るところはなく、レーニと犬山達也の仲もごく親しい友人(音乃やターナも、当然含む)の間で、微笑ましい出来事として佳話を提供することになるのみだった。
音乃は、ターナと共にレーニと友誼を結び、だがそれ以上犬山家に関わることはなかった。
一方ターナは、どうも犬山玄三とは何かしら約束事があるらしく、音乃も詳しく聞き出したりはしなかったので不明なのだが、ターナの方から頼み事をしたようだ。
レーニは一週間ほど日本に滞在した後、国に帰っていったが、直接対面した犬山達也とは仲を深めたようで、空港まで見送りに行った音乃とターナに散々砂糖を噛ませたものだ。
ちなみに、その見送りの時になってようやく音乃は、話題の犬山達也に会ったのだが、それが十五歳の少年であることに驚きは見せたものの、少し話してその聡明なことに感心し、散々惚気られた礼とばかりに今度は二人を冷やかす方に回ったりもした…あまり効果は無かったようだが。
レーニとは再会の約束は交わされたので、遠からず見えることにはなるのだろう。それまでは、メールや電話での交流が続くことになる。
・・・・・
そして、事件の翌々週の日曜日。
今年の梅雨はしっかりとそれらしい天気が続くが、それでも今日は晴れわたった空が広がっている。
そんな空の下、音乃の下宿である屋敷の縁側にターナは朝から陣取っていた。
「おはようさん」
縁側のある広めの部屋は、参加者の多い会食の時に使われる共用の部屋であるから、特に誰が縁側に通りがかることを妨げるものでもない。
それでも、我が部屋のように入り込む無遠慮な住人といえば菜岐佐しかいないから、慣れた様子でターナも、「おはようございます」と背中で返事をするのだった。
「何か面白いものでも?」
「いえ、空を」
菜岐佐はターナの隣にやってくると、立ったまま同じように空を見上げる。
それは何の変哲もない青空だった。
「別に何も無いな。雲すら無い」
雲一つすら無い、というのは好天を称える言葉じゃなかったか、と菜岐佐の諧謔の通用しないことを思う。
「…故国の空が同じ色なので。ふと思い出していたところです」
「お前さん日本生まれじゃなかったっけ?」
普段ならそんな指摘には焦るところだったろうが、不思議と「だからどうした」みたいな気分にしかならず、軽く肩をすくめて済ます。
菜岐佐も特に追求することもなく、もうすぐ朝飯が出来るよ、とだけ言い残して立ち去っていった。今日は樫宮の当番でなくて残念だったな、と付け加える辺り、相変わらず一言余計な人だ、と苦笑しながらその背中を見送るターナ。
生活はすっかり元通りになっている。
レーニがターナの部屋に居候していたのは数日のことだったし、その後の音乃を巻き込んでの大騒動については僅かに一日半程度のことだ。
あれからすっかり、というかより一層、音乃とターナの距離は近くなっている。
といって生活が変わったわけではない。それはいつもの通り、学校帰りに音乃がターナの部屋に寄り、週末はターナが音乃の部屋に泊まる、というサイクルのままだ。
「…よく考えたら、拙くないか?コレ」
「なにが?」
「…あ」
縁側に投げ出していた足を胡座に組み、片頬杖ついて難しい顔になったところに、聞き慣れた声で呼びかけられる。
その主を確かめるためではなく、その主の顔を見たくて、振り向く。
音乃が、きょとんとした顔でこちらを見下ろしていた。
「…いや、別に」
それを見ただけで、懸念は霧散する。まあいいか、と。
「別に、って顔じゃなかったけど」
言いながら、音乃もターナの隣に座る。手持ち無沙汰に、という様子ではなく、寄り添う、というような距離だ。
「音乃、近い」
そんな音乃の距離感に戸惑い、ターナは顔をしかめて抗議するが、音乃は「いーじゃない」と意にも介さず肩をぶつけてくる。
ターナは仕方なく、そんな稚気を受け入れて苦笑するに留めた。
「レーニからメールあったよ。夜中に届いてた」
「ああ、時差があるのだったか。何て?」
「夏に日本に来るから遊びに行こう、って。っていうかターナのとこにも届いてるんじゃないかな」
「後で確認しておくさ」
「ものぐさだなぁ」
この家にいる時は、スマホを音乃の部屋に置きっぱなしになっているターナは、レーニからのメールにも心動かされずこの場にいることを選んだ。
それきり黙って、日曜の朝の静かな時間を楽しむ。
屋敷の台所からは朝食の支度が進んでいることを知らせる喧噪と香りが漂ってくるが、それを除けば二人きりを邪魔するものもない。
「………」
そんなことに気付くと、ターナは妙に気恥ずかしくなる。
音乃と接触している肩もひどく熱を持つように思える。
(…何だこれは。何なんだ……)
動揺を表に見せないように焦っていると、音乃が更に頭を預けてきた。
「…お、おい音乃…ちょっと…」
「んー。何か静かだし、いいでしょ?」
微かに甘えたような、鼻にかかる声色。
(いいわけあるかっ…ど、どうすればいいんだ……ん?)
動悸すら聞かれてしまうのではないかと思われた時、ふとターナは異臭を覚える。
それは密着している音乃の体からのものらしい。というか。
「…音乃、なんかくさい。離れろ」
「え?ひどいこと言うなぁ…って、ああ、ぬか漬けの匂いだってば。柴崎先輩の手伝いしてたから」
それはつまり、朝食にぬか漬けが出てくるということで、ターナはあからさまに顔をしかめる。
「やっぱりぬか漬け、嫌い?」
「においがイヤなんだ。味はそれほど嫌いでもない」
「そんなこと言ってもあの匂いが味の素なんだけどなー。好き嫌いしてるとおっきくなれないよ?」
「わたしは普通だ。音乃が大きすぎるだけだ」
「スポーツやめると背が高いってのもコンプレックスにしかならないんだから、そーゆーこと言わないで欲しい…っていうか」
と、音乃はターナから少し離れ、その上半身を上から下へと眺める。
「何だ?」
「んー…気のせいかもしれないけど、ターナ、背伸びた?」
「背?いや、測ってるわけじゃないから分からないが」
「ちょっと立ってみて」
言うだけでなく、音乃は先に立ち上がったので、ターナも仕方なく、その正面に立つ。
そうすると、音乃はターナの頭の先の高さに手のひらをかざし、自分の顔の前で前後に動かす。
「ほら、やっぱり。確か初めて会った頃って、私の口の下くらいだったもの。今は鼻の上くらいになってるし」
「そんな急に伸びるものかな…」
「個人差があるだろうしね。それにさ…」
と、ここでターナの胸の辺りに音乃は視線を注ぐ。そのあからさまさにターナはなんとなく身の危険を覚え、肩を抱いて一歩下がった。
「…昨日お風呂入った時も思ったけど。胸、おっきくなってるよね?前より」
「ささささぁ?しっ、知らないなぁ?測ったことないもんなぁっ?!」
…それは自覚がないでも無い。流石に毎日平坦な胸元を見ていれば、ふくらみが大きくなってきてることくらいは分かる。
だからと言って何が変わるというわけでもないので放置していたが、音乃はめざとかった。
「何焦ってんのよ。いーことだと思うよ?ターナが可愛くなるってことはさ」
「そういうものか?」
「私にとってはね」
音乃が思うなら別にいいか。
いいか、どころではなく喜びすら覚えていたのだが、それを素直に認めると何かとんでもないことになりそうで、少し赤くなった頬を指で搔くだけに留めた。
その代わりに。
「わっ!…きゅ、急にどうしたの?」
「うるさい。しばらくこうさせろ」
音乃に抱きつき、その肩に鼻をうずめるのだった。
なるほど確かに、背は伸びたかもしれない。それに、この高さはいろいろちょうど良い。
こうしていると、音乃の匂いを思う存分に感じ取れる。
「私、ぬか臭いんじゃなかったっけ」
「…別にいい」
そう言い切ったので、音乃はターナの好きにさせた。そればかりか、音乃の方からターナの背中に腕をまわす。
本音を言えば、音乃もこうしているとどこか落ち着くのだった。
「………」
「…………」
次第に落ち着かなくなってきた。
「…音乃、なんだかモジモジする」
「だったらターナから離れればいいんじゃないかな」
「それはなんだか負けた気がするからいやだ。だから音乃から離れろ」
「私だって自分から離れるのは面白くない」
「じゃあずっとこうしているしかないじゃないか…」
「……そうだね」
ターナの胸の中に、二週間前のあの瞬間からずっと、燻っているものがある。
その意味を知るためには、もう少し時間がかかりそうではあったが、
「ねえ、どーしよ。私さ、このままでもいいかな、って思えてきたんだけど」
「わたしだってそうだ。音乃のにおいが、とても良い」
「ほんと、どうしよう…」
「どうしたものかな…」
今の所は、正体の分からないものの衝動に任せるまま、一番近いところに居られればいいようにも思う。
「…ところで音乃さん、ターナさん。朝からお盛んなのも結構なんですけど、朝ご飯が片付かないので、早いところ済ませていただけないかしら」
「三津田先輩っ?!」
「マコトさんっ?!」
お約束というのも、時に場の始末には役に立つものだと思う、音乃とターナだった。
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