第35話

 それは、声なき咆吼だった。

 お前の敵は、こっちだ。

 ターナが叫んで、私に銃を向けていた男の『認識』っていうものが全て、彼女に向かった。


 私の身体は男の腕から放たれる。

 腰を落とす。

 構える。

 音、消えた。

 スタートの合図は省略。


 目に入ったのは、ターナの剣。

 今日は本当に、調子がいい。最後まで、きっと行ける。

 一歩目。完璧だ。

 全身をバネにして、全てをそこに込めた。

 人生で一番の、スタートをきれた。

 ターナの方を見た。

 ああ、いけない、急がないと。

 まったく、あのコらしくない。こんな時に足をとられるなんて。

 でも、私は私に出来ることをやる。

 音、消えてる。


 急げ。

 急げ、私。

 もう一歩。ターナが待ってる。ターナを、援ける。

 私に出来る、最高のスピードで、そこに辿り着いた。

 あとは、私の思いっきりを乗せて、援けよう。



 だから、叫んだ。


 後悔は、ない。

 



   ・・・・・



 虚ろな目で自分を見上げる男をそのままに、ターナは立ち上がった。

 きっとその男よりもずっと、虚ろな顔をしていただろう。


 それでも。

 それでも、やらなければならないと、振り返って倒れ伏したままの音乃の元へ向かう。


 「音乃…」


 呟きのように呼びかける。

 早くその身体を、この冷たい雨の降る空の下から救ってやらないと。

 そう思い、音乃の身体を起こそうとして、ターナは気付いた。

 銃弾が当たったのなら、そこに流れているだろう音乃の血痕がどこにも無い。

 雨に流されたのだとしても、身体からは流れ続けているだろうに。

 腕に触れた音乃の素肌にある温もりに気付かされる。

 銃弾が当たっていたとしても、たった一発で命を落としたりするのか?

 どうしてわたしは音乃が死んでしまったと思ったのか?


 「おい…おい音乃!生きてるか?生きているのか?!」


 抱き起こした身体を揺すり、必死に呼びかける。


 「…う、うん……」


 それは正しく報われ、ターナの顔の下で薄目を開けた音乃が、恥ずかしそうにはにかむ。


 「………あはは、ごめん。転んじゃった」


 失敗したことを謝るというよりは、寝坊して起こされた時のように。

 そしてターナはただそれだけで、我が身の内から奔出する感情の制御が利かなくなる。


 「…っ!……お前は、お前は……本っ当に、バカ、だな……」


 それはターナが何度も口にした「バカ」の中でもとびきりに、温かかった。


 「ターナ…泣いてる?」

 「…うるさい、バカ……。泣いて、るわけが…ないじゃないか……」


 そっと、音乃の手がターナの頬に触れる。

 濡れた顔を滴り落ちるのは大部分が雨なのだろう。

 けれど、音乃の指に時折触れる熱い雫は間違い無く、ターナのまなこから溢れたものに違いなかった。


 「泣いてるよ…優しいね、ターナ。あと、助けてくれて、ありがとう…」

 「……うるさい…うるさいぞ、このバカ音乃…でもわたしこそごめん…遅くなった……」

 「うん。でも必ず来てくれるって思ってたから」

 「…あ、ああ……ああ、音乃…良かった…無事で本当に、良かった…あああっ、あああああ…っ!」


 気がついてしまえば、もう嗚咽も止められなかった。

 声を忍んで泣くターナの濡れた髪を優しく撫でつける音乃の手は、時折指に髪をからめ、それでも滑らかに流れていく髪は、乏しい夜の光にも眩しかった。


 「…ターナ。そのままで聞いて。私ね、ターナにいっぱい聞いてもらいたいこと、出来たんだ」


 幼子をあやすように、抱きかかえられたまま言う。


 「……わたしもっ!……わたしも、お前に伝えたいことは…山ほどあるんだ……音乃、お前は…一人なんかじゃ、ないっ……」

 「うん…」


 ターナはとうとう、音乃をその両腕で抱きしめる。

 鎧はまだそのままだったから、体のあっちこっちに固いものが当たって痛かったけれど、抱きしめる、というよりはしがみつくみたいなターナの抱擁は、冷えた体をその心と同じくらいに、暖めていくものだった。

 とはいえ。


 「…ターナ。ずっとこーしていたいのはやまやまだけど。まだいろいろ片付いてないから、ね」


 こくん。

 ここは聞き分けよく頷くターナ。


 「……あのさ、大丈夫だよ。雨だから泣いても気づかれないよ?」

 「余計なことを言うな、バカ…」


 頷くだけで動こうとしなかったターナを音乃が優しく諭すと、ようやく音乃を放し、けれど先に立ち上がって手を差しのべてはきたのだから、やっぱり繋がっていたいという本音が見て取れてしまう。

 音乃はそれをいじらしく思う。だから、うん、と柔らかく微笑んでその手をとり、続けて立ち上がった。


 「…じゃあ、いろいろやらないといけないこと、あるよね」

 「ああ」


 それは分かっている、とターナは「手を離さずに」体を反した。


 「…ターナ。私といちゃつきたいなら後にしよう?」


 流石に呆れる音乃だった。


 「お前が何を言ってるのかよくわからないが確かにそれどころではないな、うん」


 まあそれでも惜しむように繋がっていた手を一度見下ろしてから、離したのだから、どういうことかは音乃にも分かる。

 …後で思う存分甘やかしてやるかあ。

 姉気質の本領を発揮するようなことを思っていた。




 「…さっきの男、殺したの?」

 「殺してない。お前が殺すなと言ったんだろうが」


 屋上階から八階に出る階段室の陰に潜みながら、音乃は訊いた。

 別にアレがどうなったところで音乃の心は全く痛まないが、ターナに人殺しをさせずに済んだのは幸いだった。


 「…よかった」

 「あの男にとっては死んだ方がマシな状態かもしれないがな…と、大丈夫だ。まだ下の連中は上がってきてないらしい」


 そっと廊下の様子をうかがって、そう告げる。どういうことかと訝る音乃だったが、今はそれどころではない。


 「世界に対する認識、ってやつをまるごと換えてやっただけさ。行くぞ」

 「あ、うん」


 ターナの説明は要領を得なかったが、それは後でいい。

 二人はエレベーターの前を通る時だけ、下から上がってくる者がいないか注意したが、今のところそんな様子は無い。

 気は急くが、注意深く重い扉を開いた。

 秘書室の、はずだがそこには…。


 「…レーニ、何してるの」


 なんだか一仕事終えたように満足そうな、レーニがいた。


 「ネノ!無事、大丈夫?ターナ、来たです?!」

 「済まない、待たせた…で、この有様は何なんだ?」


 見ると、奥の部屋に向かう扉の前には、やたらと分厚い本が積み上げられている。

 壁際のキャビネットの扉が残らず開かれていたから、その中から全部引っ張り出して置いたのだろう。

 さして中身の詰まったようには見えなかったが、こうして見ると結構な量の書籍だか資料だかが入っていたことになる。無駄にキャビネットが大きい、ということなのだろうか。


 「…あ、グンジさん、出ない、してました」

 「あー…社長さん閉じ込めてたわけね。でもこんなところ見つかったら危なくない?っていうか、よく社長さんに気づかれなかったね」


 その犬山郡司が何をしてるのか、というと。


 『おい!出せ…出せと言っているだろうが!……頼むから出してくれよ…っ、おいっ?!』


 …その扉の向こうで、こちらに向かって脅すのだか宥めるのだか嘆くのだかを繰り返しているのだった。


 「グンジさん、静か、わたし、黙って出た、です」


 すごく得意そうな顔で、レーニはそんなことを言っているのを音乃は、要するに一人でガチャガチャやってるうちに隙を見て外に出た、ってことかと解釈した。

 ターナも同じ感想になったのだろう、肩をすくめて一頻り部屋の惨状を眺めると、扉に向かって歩み寄り、扉が破れるんじゃないかと思う勢いで拳を叩き付けた。


 『ひぃっ?!』

 「…お初にお目に掛かる。いや、直接ではないが…まあ構うまい。お前の父親からの伝言だ。『身に過ぎる真似をして迷惑をかけた人が山ほどいる。一緒に謝ってやるから、一からやり直せ、馬鹿息子』…だそうだ。いい父親じゃないか」

 『………』


 思うところがあるのかないのか、それでも扉の向こうは静かになる。


 「ターナ、下の人たち来るみたいだよ」


 外でエレベーターを見張っていた音乃から声がかかった。


 「ふん、この有様を見てどんな顔をするか楽しみだ。音乃、中に入ってろ」

 「うん……ふふっ」


 同じような感慨でも抱いたか、音乃も含み笑いを漏らしてレーニと一緒にターナの背中に隠れた。

 エレベーターは途中で止まりもせず、八階に到着した。

 締まった扉の向こうはひどく混乱するかと思いきや意外に静かで、あるいはこちらの様子を伺っているのか。

 そっとドアノブが動き、一度止まったかと思ったら急に動いてなだれ込んできた男達は。


 「社長、誰も来ませんよ!ただのイタズラかハッタリだったんじゃ……」

 「よう」


 待ち構えていたターナの顔を見て、唖然と呆然と悄然と愕然と、表情を四つ並べるのだった。




 「…全部、いえこちらで出来ることだけですが、終わりました。後は任せます…はい、分かりました。二人を連れて帰ります。ああ、それとこちらからもお願いが。息子さんと結託していたヤクザ者ですが…ケガをさせました。ええ、それなりに酷いとは思いますが、それよりも、その…精神的に」


 戻ってきた男達は、ターナに睨まれると一歩も動けず、刀の緒を使って縛り上げられていた。

 そんなことに使うのも勿体ないように思う音乃だったが、ターナが言うには消耗品のようなもので、いくらでも引っ張りだせるし、途中で切ったりも自在で、何かと便利なのだということだった。


 「……分かりました、明日のニュースが楽しみではありますね。はい、では近いうちに、また。失礼します」

 「終わった?」


 通話を切ったスマホを、除装して普段着に戻ったターナは革ジャンの内ポケットに仕舞う。


 「ああ。すぐに会長の手配の人たちが来るそうだ。それまでに出て行っておいてくれ、だとさ」

 「良かった。帰ってもいいんだね」

 「ああ」


 社長室の方には犬山郡司と部下の四人の男を閉じ込めてある。

 その後で、こっち側からは三人がかりで移動させた、秘書用の机を扉の前に置いてあるからそうそう出られるものでもあるまい。

 「おい!トイレ、やべぇんだよ!」などという焦った声も聞こえてきていたが、ターナの「なんだ、オムツを用意しておけと言っておいたじゃないか。してなかったのか?」というからかう返事に黙り込んで以後は静かなものだった。


 「ゲンゾウさん、話したかった、です」

 「落ち着いたらいろいろ報告したいから来い、と言っていたからな。そのうち行くこともあるだろうさ。…それよりレーニ、タツヤに会いにいけばいいだろう?」

 「え…タツヤさん、無事?」

 「あれターナ、タツヤさんに会ったの?」

 「ああ。会長の家にいた」

 「へぇぇぇ…。ね、どんな人だった?」

 「なんだ、気になるのか?」

 「そりゃまあ、ね」


 と、タツヤの消息を知って感激しているレーニを横目で見ながら、好奇心丸出しの顔の音乃。


 「…レーニがあれだけ惚れ込んでいるんだから、どんなに素敵な人かって気になるじゃない」


 音乃に他意は無かったのだが、ターナは違う解釈でもしたのか多少ムッとした顔になる。

 ただそれも一瞬で、すぐにイタズラっぽい表情に改めると、笑いながら言う。


 「…レーニとお似合いだと思うぞ。ある意味おしどり夫婦ってやつかもな」

 「うわぁ…」


 どんな相手を想像したのか知らないが、音乃は目と口を丸くして驚いていた。

 多分直接会えばもう一度その顔をするだろうな、と思う。

 会う機会があればな、とも重ねて思ったのだが、それは間違い無く訪れるだろう。レーニだったら、自分たちにこれでもか、と惚気ることだろうし。

 ターナは、犬山玄三の家で会った少年の姿を思い出しながら、「ほら、行くぞ。会長の部下に鉢合わせしたら面倒なことになる」と二人を促して先に部屋を出た。


 何せ、イヌヤマタツヤはまだ中学生の少年なのだ。そりゃあ音乃だって驚くだろうさ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る