第31話
音乃は車が嫌いになりそうだった。
正確には車に責任がある問題ではないのだが、こうも短期間で二回も車に無理矢理乗せられて何処かに連れ去られる、などという目に遭えば無理も無いところだろう。
幸いなことに音乃とレーニはミニバンの最後方、三列目に並んで座らされており、あまり直接的によろしくない仕打ちを受ける心配は今のところ無さそうである。かといって安心して寛げるわけでもないが。
「…あの、グンジさん、呼んでるですか?」
そしてそこまで図太くもなれないレーニは、心細さを隠すことも出来ずに、二列目にシートの間から前方に声をかけている。
グンジさん、というのがどういう人なのかは聞いてはいないが、流れ的にはタツヤの父親である社長のことなのだろう。
その人物がレーニを探している…というのは理解していたが、問題はどんな目的があってそうしているのか、ということだ。
レーニにしてみれば、婚約者未満…ではあるがある意味焦がれている男性の父親、ということで気易い部分もあろうが、部外者である音乃から見ればそんな簡単に割り切れる関係とも言い難い気はする。
特に、考えていたほど簡単な話でもなさそうな雰囲気になってきてからは、尚のことである。
(とりあえず今のところは…レーニと私自身の身を守ること、それからターナが力を発揮出来なくなるような状況にはしないこと、かな)
ターナが無力化される場合、といってもそうそう想像のつくものではないが、例えば自分やレーニが人質になるような場面…と思えば今がまさにその状況だ。
(…ターナの足引っ張ってるなあ…といって自力で逃げ出せる感じでもないし)
外を見る視線を隣のレーニに移す。不安に駆られてか、彼女は何度もタツヤがどこにいるのか教えて欲しい、そうでなければその父親に会わせて欲しい、と繰り返し口にしている。
レーニにまだ必死な感じは無いが、ああ、とか、まあ、とか適当な相槌で誤魔化す前席の男達の反応に苛立って感情を爆発させるのも遠いことではないかもしれない。
…そうなった時はその時だ。せめて今のうちは自分に出来ることだけやってこう、と後ろに続いているはずのターナが乗せられた車を確認しようと、振り向いて窓の外を確認した時だった。
「…ちょっと。後ろの車が居ないんだけど。まさか別々のとこに連れて行こうとしているんじゃないでしょうね?!」
「なに?そんな筈は…おい、どういうことだ?」
音乃の指摘に二列目の男の一人が反応する。二人並んだうちの左側の男だ。
「…ああ、いたいた。けど車線違うな。このままだと直進しちまうぞ?」
この車は右折専用車線で信号待ちをしている。信号が変わればほどなく右方向に向かうだろう。
だから音乃の声で一瞬慌てた男は、同行の車を見つけたもののその挙動に不審を抱き、隣の男の「電話してみろ、梶尾さんに」という指示にも手早くスマホを取り出して電話を賭け始めた。
「………あ、ちょっと梶尾さん、どうし……は?ああまあ、そういうことなら…なんですって?…分かりました。先に行ってます」
「何だって?」
「下痢でトイレに行くから先に行けだとさ。相変わらず緊張感無い人だな」
「何だそりゃ」
車内は失笑で満たされる。
だが音乃は笑えなかった。
ターナと分断されるのが拙いのは確かだが、日本で拳銃を持ち出すような事態が進行中の中、予定外のことが起こるというだけで何かよくない突発的な問題が持ち上がっているに違いない、と思い至ったからだ。
レーニは黙り込んでいる。
その膝の上で握られた手に、いつかのようにまた自分の手を乗せながら、この場では音乃とレーニしか嗅ぎ取っていないだろう不穏な空気を大人しく受け入れる。
それから音乃は、ターナに代わって今向かっている場所が何処になるのか判別するべく、窓の外の光景に神経を集中し始めていた。
雨が降ってきた。
車はあれからすぐに首都高速に入り、音乃の乏しい土地勘ではどこに行こうとしているのかは分からない。
太陽も出ていないから方角すら怪しいところで、それでも看板を眺める限り、川崎に向かっているらしい、とは見当がついた。
「…あのー、お手洗い行きたいんですけどー」
そんな気配は別に無かったが、とりあえず紳士的対応というものをあてにして、なんとなく言ってみた。
「子供じゃあるまいし、もう少し我慢してくれ。日曜で高速もそう混んでない。あと…二十分もすれば着くから」
「そーですか」
前のめりになった体をまたシートにもたれかけさせて、仕方ない、と黙る。
隣のレーニが「大丈夫?」という風に覗き込んできたが、音乃は安心させるようにニコリと笑みを返す。
車内はそれきり会話も途切れた。
こちらを安心させるため、というよりあまりレーニに無体な真似はしないように指示でも出ているのだろう。巻き込まれた格好の音乃だったが、大人しくさえしていれば今の所身の危険はなさそうである。
(でもその分考える時間だけはたっぷりあるんだけどね)
いっそ後ろの車に向けてSOSでも発信してみようかとも思ったが、この際余計なことをして相手を怒らせるのも巧くはないだろう。
そんなことを考えているうちに、車は高速を降りる。
川崎、といえば音乃などには工場がいっぱい建ってる町、程度の認識だが、実際には人口も極めて多い、商住と同居する広い街である。
そんな中、車は工場地帯と住宅地の緩衝地帯のような、どこかうら寂しい所を走っていた。
大通りではないから道路の看板標識なども少なく、地名を覚えるのも難しいなあ、と思ううちにやがて、そこそこ高さのあるオフィスビルと思しき建物の地下に入り込んだ。そこが駐車場になっているらしく、他の車もあまり見ない場をゆっくりと進み、やがて一番奥に車は止まった。
「着いたぞ。お連れのお嬢さんはトイレ大丈夫か?」
「あと五分で限界でしたよー。早く行かせてください」
しゃあねえなぁ、と苦笑しながら、前席の男が車を降り、シートを倒して先に音乃、続けてレーニを降ろす。
「そこの扉を入って階段を昇ればすぐそこだ。悪いが一応、監視はさせてもらうぞ」
ちょうど音乃の前に座っていた男が脇の辺りをぽんぽんと叩きながら言う。ここに拳銃があるんだぞ、という誇示のつもりだろうか。
「わざわざ念押ししなくても一人で逃げたりしませんってば。レーニもいるのに」
呆れたように音乃が言うと、男は微妙な顔をしながら音乃についてきた。
これはあれか、拳銃持ってるというのに怯えないのが面白くないのだろうか。
そんな風に思わなくも無いが、そもそも拳銃などというものに現実味がなくて、ビビれと言われてもどーすりゃいいってのよ、というのが素直な感想である。
言われた場所にトイレを見つける。あまり綺麗とは言えないから、建物の年期は相応に入っているのだろう。
そして別に催していたわけでもないので、普通に個室に入って鍵を閉め、水を二回流して用を足した態だけ整えると、ちょうど後から来たレーニたちと合流する。スマホが手元にあったら何かしら小細工でも出来そうなタイミングだが、生憎と車に乗せられた際に取り上げられたままだ。
仕方なく、成すこともなくトイレを出た。
「そっちだ。ついていきな」
そして自分を監視していた男に促されるまま、レーニと音乃を含めた六人が二回に分けてエレベータで最上階と思われた、八階に上がる。
先にレーニを含む三人が上がっていったから、音乃は大分待たされてから目的の場所についたことになる。
さしてフロア面積も無いと思われたから、カゴ室を出てすぐ目の前に扉があっても不思議に思わなかった。
ただし扉そのものは頑強な造りのようで、材質はよくわからなかったが木目の向こうにさぞや重い金属が存在しているだろう。
…そう思わせる動きで開いた扉の向こう側は、思わず音乃が口をあんぐり開けるような、いかにも「社長室」と思わせられる内装の、部屋だった。
踝まで届きそうなカーペットに、大きなデスク。しかしそれは一脚しかなく、しかも横の壁に近いところに、置いてあったから、もしかして社長室というのはこの奥の扉の向こうで、この机にはいつも秘書とかいう人がいるものなのだろうか。それにしても大きすぎて、バカバカしさに圧倒されそうだ。
机の反対側の壁には、机と材質を同じくするようなキャビネット状の棚があった。マホガニーとかいうのだろうか。そして三メートルに近い天井に届きそうなサイズである。実用性無視もいいところだった。
その棚にはさして中身もなかったから、余計に虚仮威しにしか思えないのだが、音乃は思わず「うわぁ…」とドン引きしたように呟いてしまい、それを聞いた音乃の監視役の男に苦笑いをさせるのだった。どうも、会社の中の人間にも「それはどうなのか」と思われてはいるらしかった。
「…とりあえず入りな。そのドアの向こうだ」
気まずさを紛らすように、妙に馴れ馴れしく先のドアを指し示す。
そういえばレーニはこの間にはおらず、既に入ってしまったようだった。
音乃に同行していた男二人は先に進まず、音乃一人がまたエレベーターの先の扉より更に重そうなドアを押し開けて中に入る。
「…ようこそ、樫宮音乃さん。一応、歓迎はさせてもらいますよ」
正面にいた、絵に描いたような小悪党面が、そう嘯いた。
「犬山
前の部屋のものより二回りほど面積の広い机の向こうから名乗られる。
レーニはそのすぐ前で、音乃の視線を邪魔しないよう脇に退けていたが、音乃には目もくれず犬山群司という男を睨み付けていた。
それ以外には、先にレーニを連行した男が二人、控えている。
「…渡してやりたまえ」
「はい」
別に欲しくもなかったが、その男のうちの一人に名刺を渡される。
犬山家具 代表取締役社長 犬山群司、とだけあった。ひっくり返しても住所や電話番号は書かれていない。またなんとも人を食った名刺だ、と音乃は呆れる。
「…えーと、それで私も自己紹介した方がいいんでしょうか?」
「その必要は無いですよ。あなた、それなりに有名ですからね。ウィンタースポーツに詳しい界隈では」
肩をすくめる音乃。若手の中では有望だとは言われていたが、スピードスケートの選手など、オリンピックでメダルを取るレベルでないとなかなか巷間名が知られるようなこともない。
この社長の趣味と、音乃のいた世界がたまたま被っていた偶然に過ぎないのだろう。
「で、レーニをどうしようっていうんです?聞いた限りだと、レーニの婚約…はまだか。えと、息子さんのタツヤさんの行方も知らないらしいですけど」
「タツヤさん、どこ?!」
「…ああ、まあ落ち着いて。行き先は分かりませんが、誰が知ってるかなら分かりますよ」
多分自分が入ってくる前も同じようなやりとりをしていたのだろう、レーニが気色ばんだ様子で食ってかかる。
それをあしらうのに苦労していたのかもしれないが、音乃が一緒になるとあっさり白状した辺り、何か思惑があるのかもしれない。
それから、音乃にはもう一つ懸念があった。
「…それと、あと一人。私の友だちも一緒に連れて来られてると思うんですけど。彼女、どこにやりました?」
「もう一人、というとあのいろいろ物騒な少女のことですね。確か梶尾が遅れて来ると聞いていますが…」
あ、この人アホだ。
音乃は断定した。
あの状況で、下痢だかなんだか知らないが体調の問題程度で別行動をとるわけがないだろう。
同じ車中にいた四人の男たちもそうだが、どうも悪党というには呑気に過ぎて、音乃も警戒心が薄れそうですらあるのだが、それともそういう演技で油断させているんだろうか。だとしたらなんとも迂遠なことだった。
「…賭けてもいいですけど、多分、こっちには来ないと思いますよ。今頃何処か……」
そこで言い淀んだのは、ターナを連れ去ったのが誰の仕業なのか、分かったからだ。
「ネノ、ターナ、危ないです?」
レーニが音乃の思惑を読み切ってか、慌てて聞く。
が、音乃の予想が確かなら、こちらとは正反対の応対を受けているように思う。
となれば。
「…まー、あっちの方はいいんです。どうせ社長さんの目的はレーニだけなんでしょうし。…多分、大丈夫だよ。心配しないで」
「…ハイ」
「まあ、その通りではありますがね。理解の早いお嬢さんで助かりますよ」
犬山群司は、そう言って穏やかではあるが腹に一物もっていることを隠そうともしない顔で、微笑む。
見たところ、五十歳くらいか。
髪に白いものもいくらか混じってはいるが、物腰や人品に下卑たところは感じられない。
背も高く、顔立ちもいくらかアクの強い感じはあるが、まず色男と言って通用するだろう。
総体的に言えば、やり手の社長、といって通用しそうな風体だった。
(あんまり頭は良さそうじゃないけど)
というか、自分が優秀であると信じて疑わないことで足を掬われそうなタイプ、に音乃には見えた。
「それでわざわざご足労頂いた件なのですがね。あなた方、会長が何を企んでいるかご存じないですか?」
「企んでいる?親子喧嘩の最中ってことなら知ってますけど、それ以外に何かあるんですか?」
「世間にはそう知られてますけれどね。そうではなく、どんな手を打ってくるのかが知りたいんですが」
「私たちが知ってるわけないじゃないですか、そんな偉い人の考えてることなんか」
「そういう報告が部下からあったんですよ。会長の手先が来て暴れていったと。あなた方、私の家に不法侵入してくれた上に、留守番をしていた部下たちを打擲してくれたそうじゃないですか。警察に訴えればどうなるか、分かりませんよ?」
「それは多分、私たちを拉致してくれたことでじゅーぶん以上にお釣り来ると思いますけど。拳銃なんてどこから手に入れたのか知りませんが、警察に知られて困るのはそちらの方だと思いますけどね」
あと、会長の手先だとゆー設定が適用されるのはターナだけだっつーの。
身に覚えの無いことで糾弾されるのは面白くない。
そんな風にしらばっくれた音乃だったが、犬山群司の顔は音乃の一言でサッと色が変わった。
「…拳銃?おい、私は知らないぞ?どういうことだ、有藤!」
「……あの、例の筋から『差し入れ』がありまして…社長はご存じだったものと…」
「馬鹿か貴様は!そんな足のつくものを使ったら私の立場というものが…」
そう部下を罵倒すると、突如震えだす。
その豹変に音乃とレーニは呆気にとられてしまうが、どちらにしても面倒なことに巻き込まれつつあることには違い無い。
少なくとも、この場に居る最高実力者がコントロール出来ない「暴力」がすぐ近くにあることは間違いなさそうだった。
「…レーニ、逃げ出す準備…」
「待ってください!そっちは…」
小声でレーニにそう促す音乃だったが、それは隣の部屋からやってきた闖入者によって妨げられてしまう。
「社長さん、あまり失望させないで欲しいものですな。協力者の面目が、これでは立ちやしない」
コレ、マズイ…。
思わず音乃が身震いする存在が、実は関わっていたらしかった。
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