第28話
その夜はターナとレーニは音乃の部屋に泊まった。
音乃の言に依ればレーニにとって幸いなことに、先輩連中は誰一人帰っては来ず、
「試験が終わった土曜日にあの人たちが帰ってくるわけないじゃない」
というもっともな予測に違わない、なんとも静かな夜だった。
明けて日曜の朝。
休日の朝は朝食が用意されないため、音乃が作った朝食を部屋でとる。
「それでどーするつもり?」
「レーニをタツヤに会わせるべきだろうからな。彼がどこにいるのかを確かめるのが先決だろう」
「それもそうだね。レーニ、心当たりない?」
「住所、きいてます」
「行ってもいるのかどうか…まあ他に手がかりもないしな。食事が済んだら行ってみるか」
「そうだね」
朝食はトーストにした食パンにスクランブルエッグをのせ、めいめいに好きな味付けをして食べている。
音乃が塩コショウ、ターナは粉チーズとケチャップ、というのは定番なのだろうが、レーニがワサビをのせていたというのが、二人を困惑させていた。
「…美味しいのか?」
「ハイ!」
あまりにも喜んで食べていたのでターナも真似してみたのだが、以前刺身を食べた時と同様、鼻を押さえて悶絶する羽目になった。
「まあホースラディッシュっていってヨーロッパにも似たような味あるからなあ」
そもそもレーニの故郷であるフィンランドがホースラディッシュの原産地であることを知らない音乃が、転がっているターナを横目で見ながら、のんびりと言う。
レーニは心配して介抱していたが、「じごーじとくなんだからほっといていいよ」という音乃の身も蓋もない言葉におろおろするだけ。
「くっ…もう二度とワサビなど口にしないぞ!」
「ターナは加減しないで山盛りのせるからそーなるんだよ」
そしてやっと起き上がりはしたが、涙目でいたターナに、追い打ちをかけて歯噛みさせるのだった。
「んー、でもこれはまあ、アリかも」
一方で自分も、実家から送られてきていたチューブ入りの刻みワサビをスクランブルエッグに混ぜて口に入れ、感想を述べる。
長野県民としてはワサビは馴染みのある食材なので、扱いは慣れたものだ。
「おかしいのか?もしかしてわたしだけがおかしいのか?音乃も平気な顔をしているのに実は苦しいのではないのか?!」
そんな音乃の様子を疑わしげに睨むターナ一人だけが懊悩する、今のところは平和な食卓だった。
音乃の部屋の最寄り駅から、すっかり馴染んだ新宿を経て品川で京急に乗り換え、羽田に向かう途中駅の大鳥居で降りる。
「と、遠いなあ…」
まだ東京の電車の乗り換えに慣れない音乃にとって、特急でも新幹線でもない電車で二時間は、地の果てに行くような心持ちだ。
「しかもこれだけ乗っててまだ東京っていうのもなんか理不尽だ…」
「わけのわからないことを言ってないでさっさと来い。ネノは最近だらしないぞ」
「歩いたり走ったりしてる方が楽なんだってば…まあ通学で乗る電車よりはマシだけど」
始発に近い駅から乗るのだから、普段でもシートに座れてはいることが多いとはいえ、都内が近くなるにつれて物質密度が幾何級数的に増していく電車の車内に目を回していたのは、つい二月ほど前の話である。
「ネノ、疲れたです?」
「…ちょっとね。私ほんとーに田舎娘だなあ、って実感してたとこ」
「ふふ、田舎、わたし同じです」
「そうなの?でもレーニは平気な顔してるけど」
「景色見る、飽きないです」
「くぅ、このピュアな反応…育ちの差を感じるなあ……」
「あー、いいから二人とも。もう少し緊張しろ。こっちだぞ」
だらっと肩を落として改札を出てきた音乃を急かしながらターナは、スマホの地図に目を落とす。
いるまいとは思ったが、レーニの知っていた犬山タツヤの住所を頼りに、実際に訪れている。
「…東京の真ん中にしては大きな建物もないのだな」
駅を出て目的の場所に向かって歩きながら、空を見上げながらターナが言った。
梅雨空は相変わらずだが、今のところは雨も降ってきてはおらず、それぞれに持っている傘が役に立たなければいいな、と思いながらの行路である。
「空港が近いからじゃない?高い建物建てられないんだと思う」
「あ、わたし日本来たとき、ここ通りました」
「ふーん…って、あれ?すぐにタツヤさんのところに行こうとしたんじゃないの?」
「イエ、空港、ひと待ってたです。わたし見て、タツヤさん会えないから帰れ、言われました」
「…ちょっと気になる話だな。レーニ、聞かせてもらえないか?」
「だね…っていうか、どーしてレーニも新宿なんかに行ったの?」
「待て、道の真ん中で話してたら目立つ。どこか店に入ろう」
ターナのもっともな提案に、異も無く二人は頷くのだった。
「…それでレーニは、空港で待っていた者に帰れと言われてどうしたのだ?」
あいにく落ち着けるような場所もなく、といってレーニだけならまだしもターナも一緒にいたのでは人目を引きすぎる。やむを得ず近くの公園で人通りも少ない物陰に潜むようにしゃがみ込んでの相談になったが、かえって怪しさが増しただけのような気もする。
それに、パンツスタイルの音乃とターナならまだしも、レーニとなるとスカートにパンプスだ。あまり長く話していると疲れる体勢だから、ターナも手早く話を進めようと単刀直入に聞き出そうとしていた。
「はい、わたし、帰れないです。だから、空港いました。他の人、来たです。女のひとでした」
「…最初にレーニに接触してきた方は、さっさと立ち去ったのか?」
「はい。女のひと、シンジュクいけ、言ったです。部屋ある、そこ行け、言いました」
「わたしと会ったのはその時、ということか…」
「いえ、ターナ会った、次の日。わたし、待つイヤでした。タツヤさん、探しました」
「無茶するなあ…住所だけ頼りに外国で人捜しなんてよっぽどタツヤさん好きなのね」
「ネノ、それ以上言うな」
「あ、うん。ごめん」
ターナが慌てて止めたのは、レーニの心情を察してというよりはここで惚気られてたまるか、という理由からなのだが、音乃はそうと取らず済まなそうにレーニに目配せしていた。
「とにかく、だな。レーニが日本に来てすぐに接触してきたのが、二人。対立する両者からなのか、同じ側が二重に手配したのか、どっちかは分からんがレーニの存在がそいつらに知られている、ってのは間違い無い」
「そうなんだけどさ、最初の人ってレーニに『帰れ』って言ってそれきりだったんでしょ?もう日本にいないと思ってるんじゃないかな」
「それはどうだろうな。帰ったと思っていたら、対立する側がレーニを探していると知って慌てているのかもしれないぞ」
「…あー、なんか私頭痛くなってきた。もう少し整理しよ?レーニだって理解しないといけないし」
「…おねがいします」
「……だな」
ターナは傍らに転がっていた枝を拾い、地面に図を書き始める。
丸を書いて、中にアルファベットの「L」と思しき文字を描いた。レーニのことだろう。
「まず、レーニが日本に着いた。接触してきたのが…こっちだとする」
そして、レーニの丸を中心に、線を一本引く。対立している陣営に分けたのだろう。
それから片方に「A」と描き、もう一方に「B」と描く。
「この際どっちが会長側だか社長側だかは、後で決める。まずAが、接触してきた。レーニに帰れとだけ言って、立ち去る。続けてBが接触。こっちは日本でレーニの身柄を確保…まではいかないにしても、日本に置いておくつもりではいるらしい」
「うん」
「はい」
難しい話ではあろうが、レーニも懸命に理解しようと真剣な顔でいた。
「Aは…仮に、レーニがもう帰国したものだと考えていたとしよう。すぐ後に来たBは、レーニを新宿に留め置く。そうと知ったAは、新宿で人捜しが出来る伝手を利用しようとした」
「…つまり、ターナの勤め先のこと?じゃあ……」
「社長側が、Aということになるな。けれどレーニは、わたしに匿われて行き先をくらましてしまった。Bだって当然探そうとするだろうさ」
「それじゃやっぱりレーニを探し回っているのがどっちなのか、分かんないじゃない」
「そうでもないぞ。Bが、レーニがまだ自分達の用意した宿に滞在していると思っているかもしれないからな。レーニ、お前がその、行けと言われた部屋に、何か電話や連絡のようなものはあったか?」
「…いえ、ないです。家具、すこしある部屋です」
「見張ってたとか監視してたとか…じゃないの?」
「それだったらそんな間怠っこしい真似をせず、直接軟禁に近い真似をするだろう。あるいはそっとしておきたかったのかもしれないが…ただな、」
と、ここでターナはレーニを安心させようとしてか、彼女にしては珍しい穏やかな笑みを浮かべてレーニを見る。
「…Bのやり様を見ると、レーニを大事にしようとしているように思える。わたしの考えすぎかもしれないが」
「……いいえ、きっと、そうです。部屋、きれいでした。花、ありました」
「ってことは、Bが社長さんの側かもしれない、ってこと?レーニをタツヤさんに娶せようとしたんだから、それくらい気を遣ってもおかしくないだろうし」
「Aのひと、わたしに帰れ、言います。タツヤさん、帰れ、言わない…きっと」
「そっか…やっぱりBが社長さんの方ってことに?」
「そうなると、Aがうちにレーニを探させようとしたことと辻褄が合わなくなるんだがな…。まあいい」
と、枝を放り投げてターナが立ち上がる。
「どっちにしても、タツヤの家に行けば誰かしらいるだろう。そいつに聞けば、多少は真実も見えてくるだろうさ」
ここからは何があってもわたしの出番だ。
音乃にはターナの横顔が、そんなことを言う猛禽のように見えていた。
目的のマンションはこの辺りとのものしては高いものだったが、それでも都内の高層マンションに比べればかなりこぢんまりとしていた。
その最上階。念のため、エレベーターも使わないで階段を登ってきたため、ターナに音乃はともかくレーニが息も絶え絶え、という有様になっている。
「ごめんね、レーニ。疲れたら背負ってあげるから。ターナが」
「ネノ、お前なあ…」
「大丈夫、です…タツヤさん、会えます。わたし、ガマン、します」
うう、健気な子だよ…と嘘泣きをする音乃を放っておいて、ターナは階段室の影から廊下をそっと覗く。
「…見張りなどはいないな、ってコラ」
「どれどれ…うわぁ、おっきくないとはいえ流石最上階。ドアとドアの間隔がめちゃくちゃ広い…」
つまり一室の面積が結構なもの、ということだろう。
姿勢を低く構えていたターナの頭の上から、音乃がそう言って感心したような顔を出していた。
「迂闊だぞ、ネノ。誰かが見ていたらどうするつもりだ」
「ターナが確認したんだから大丈夫でしょ」
こいつ最近変な度胸身につけたな、と音乃のアゴの下で上を見上げながら呆れるターナ。
「…行くぞ。一応口を開くな。それからレーニ」
「…は、はい」
「……呼び鈴はお前が押せ。わたしとネノは扉の脇で身を潜める」
「わかりました」
言われた通りに、レーニが先頭に立つ。
続いてターナ、音乃の順。
言われたからではないだろうが、口を開くどころか三人とも忍び足じみた足運びだった。
そして、レーニが目的の部屋の前に立つ。
すぐ脇に控えるターナの方を見て小さく頷き合うと、意を決してインターホンのボタンを押した。
「……はい、どちら?」
聞こえてきたのは、こんな高そうなマンションに似合わず不明瞭な音声で、それだけで相手の正体を掴む手がかりにはなりそうもなかった。
それでもレーニは、この中に探していたタツヤがいるはずだ、と信じるかのように真剣な表情で、返事をする。
「Leeni Haaskivi、です。タツヤさん、会いに、来ました」
「………?!」
その返事に対する応答は、すぐには無かった。
だが、驚きがあったことだけは確実に知れるような、室内の動転は伝わってくる。
そして数秒の間を置くと、再びインターフォンから声が聞こえた。
「…いま開けます。あなた一人ですか?」
「ハイ」
ターナが感心したように笑みを浮かべる気配。音乃も同じく、間髪入れず答えたレーニの機転に驚いていた。
流石に高級マンションというべきか。電子ロックと思われる鍵が開く音は静かであり、一方それと似合わぬガチャガチャした金属音は、チェーンロックを解錠するものらしかった。
その音が止む。すぐに扉が開くと思われたが、何かを待つような間があり、それからようやく、ドアハンドルが動いた。
レーニが息を呑む。
一度、ゆっくりと開いた扉は、ターナと音乃の視界に腕を見せると同時にその勢いを急に増し。
「!!」
「レーニ!」
扉から一歩離れて待っていたレーニの腕をとると、力任せにその身ごと絡め取るように引き込んだ。
そして二人の視界からレーニの姿が消えると、扉は開いた時に数倍する勢いで締まろうとする。
「させるか!!」
だが、一瞬で現出したターナの愛刀がそれを阻む。
柄の部分を今にも閉ざされようとしていた隙間に挟み、締まらない扉に慌てて、もう一度勢い任せに閉めようと一度開いたのを幸いと、ターナはネコ科の猛獣の如き突進で身をすり込ませてしまう。
そして音乃から見ると、ターナの消えた先で驚愕の声が響いただけにしか思えなかった。
「タ……無事?!」
名前を呼ぼうとして思い直し、とにかく自分もと音乃は扉の内側に飛び込む。
その先にあった光景は。
「おい。これはどういうことなのか、説明してもらえるのだろうな」
崩れた背広姿の男に剣を突き付けているターナと、その足下で呆然としているレーニの姿だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます