三章・空の下にあるたいせつなこと

第23話

 朝起きて、雨の音が響いているだけで憂鬱になる。


 「…はあ」


 ターナは雨が、嫌いだった。

 というより、晴れた空が見えないことを音だけで知らせてくる雨が、好きになれない。


 「今日も、か。話に聞いていたがこれが梅雨というものか…今さらだが」


 仕方なく体を起こし、肩からずり落ちたシャツの襟を引っ張り上げると、寝癖でボサボサしている髪を手櫛で掻き、億劫さを取り繕おうともしない動作でベッドから降りた。

 今日は、昼の仕事も夜の仕事もある。音乃と会う暇は無さそうだった。




 『…っていってもね。こっちも試験期間中で遊びにいくわけにもいかなくって』

 「むう…」


 雨の日のことで昼間の仕事はさして手を煩わされることもなく、ただ街中をぶらついていただけに留まり、それならさっさと夜の方に行こうかと思ったが、どうせ会えないのならと、その合間に音乃に電話をしてみたものの…生憎と音乃の方も多忙なようだった。

 ここ最近はむしろ会わない日の方が少ない、というか、会わないのは週に一日か二日という有様。

 音乃の方は「楽しそうに通い妻してるな?」と某先輩にからかわれたと憤慨していたりしたのだが、それでもやめようとはしなかった辺り、ターナから見ると可愛く思える。

 まあそんな音乃にしてしばらく会う機会が無さそうだと言い出さしめる「しけんきかんちゅう」というものが、いざ自分が会えない立場になると恨めしくなるターナだった。


 『でも電話で話するくらいだと結構いい気分転換にはなるね。ターナは今どこ?』

 「あ、ああ。夜の方の仕事に行くところだ」

 『ふうん。あ、ご飯ちゃんと食べてる?私がいないからってテキトーにお店のものばっかり食べないでよね?』

 「…そう思うんなら、さっさと『しけんきかんちゅう』を倒して遊びに来い」

 『んー…普段の勉強が大事だって痛感してるとこ。大学のテストって高校と違って失敗しても救済措置が緩くなくってさ。先生によっては再試ナシで一発で単位落とすこともあるし』

 「何を言ってるのかはよく分からんが、大変なのは理解した。だから早く終わらせろ」

 『私の都合だけで終わらせられるんなら苦労しないってば』


 スマホの向こうで、呆れたように言う音乃だった。


 『あー、そろそろ休憩時間終わるかあ。じゃね、ターナ。試験は今週で終わるから、そしたらどっか遊びに行こ?』

 「あ、ネノ。そういえばだな…って…」


 そしてターナの返事を待つこともなく一方的に電話は切られた。


 「……忙しいのは分かるが、もう少し相手してくれてもいいじゃないか」


 我ながら子供っぽい愚痴だとは思う。

 それでも、会えないことを寂しいと思うのは、ターナにとって否定出来ない事実には違いなかった。


 「…来週、か。ネノには関係無いことだけど、な」


 そしてそんな寂寥の感慨も、切れた電話の向こうに伝わることはない。



   ・・・・・



 「ではウエムラさん、見回り行きます」

 「おお、頼んだ。ってかター坊、傘持って…」

 「いえ、要りません」


 安物のビニール傘を渡そうと奥からかかった声を振り払って、大分勢いの落ち着いた雨の繁華街に飛び込む。

 雨だと人の出足の鈍るのは変わらないようで、傘を差す人の多くいる割には、歩きにくさは普段と大差ない。

 そんな中をいつもの革ジャン姿で、傘代わりに手を掲げて雨を避け歩くターナは、前を向き歩く人の目にはよく目立つ。


 (…やっぱり借りてくればよかったか。それにしても、)


 と、少し汗ばむせいか、小走りに、肌にはりつくシャツを鬱陶しく思う。

 そういえばいつぞや、音乃が着るものを買いに行こう、と言っていたことを思い出し、そんな余裕が出来たことに驚かなくもない。

 一年前は…とにかく、生きることで必死だった。

 今の音乃にはとても言えない手段で手に入れたものを間に合わせで着込み、なんとか人前に出られる格好を整えるのが精一杯。

 実は今来ている革ジャンもその折に手に入れたもので、今は外してはいるが当時はなにかと用心深かった…いや、臆病だった自分を守ろうと、あれやこれや仕込んでいたものだ。


 (そういえば、あいつの汚してくれた革ジャン…まだ返してもらってなかったな)


 革ジャンの掲げた右の袖口に残る傷を見て、思い出す。

 別に話題に上ることもないしターナの方も催促するつもりなく、なんとなくそのまま過ぎてはいるが、どうなったのだろう。

 革の手触りが気に入ってなんとなく着用することの多い革ジャンだが、音乃に預けてあるのは初めて自分が、まともに労働の対価として得た報酬で購ったものだ。古着屋の店頭に見切り価格で置いてあったものがなんとなく気に入って、真夏を除けばほとんどの間愛用していた。


 (…今度会った時でいいか)


 だからといって急かして返却を迫るほどでもない。会った時に話をすればいいかと思い直すと、視線と意識を地上に戻す。

 その先にあったのはいつもと変わらない、煌びやかな人口の光源と浮かれた人々の喧噪。

 だが、ターナの鋭敏な…というより能く利く鼻の類の感覚が捉えたものは、ひと月半ほど前に起こした気まぐれに似たものを、喚起した。


 (まさかあのバカ、こんな日に…って流石にそれは無いか)


 いくらなんでもその程度には、ターナも音乃を信用している。だからそれは無い、と思う。

 では一体何があるのか、と考えてターナのすることは。


 (…ま、行ってみれば分かるだろう)


 という、行動あるのみ。

 そうして、自らの嗅覚に導かれれ、警戒心だけは絶やさない習慣を保ったまま、人の流れに逆らい動き始めた。

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