竜の娘、駻馬に乗る・後編
近所には自転車を乗り回してもいい公園など当然無かったから、大家さんに聞いて使われていない資材置き場に入らせてもらうことになった。近々工事が始められる場所が近くにあって貸し出す約束なのだが、まだ工事が始まる前なので何もおかれていないそうだ。
そうして都合良く練習場所を確保出来たのは良かったが、ではそれで練習が上手くいったかというと全くそんなこともなく。
まず、音乃が後ろで支えながらペダルをゆっくり漕ぎつつ進み、ある程度勢いがついたら音乃が手を離すという、定番のやり方。
「離すよー?離すからねー!」
「う、うむっ!いいぞ!…わぁっ?!」
…音乃が手を離した瞬間、見事に横転。
ペダルを踏まず、両足を下ろしたまま音乃が後ろから押してみる。
「どう?」
「…楽だな、これは」
完全に趣旨が違っていた。
音乃が一人で自転車に乗れた時にやったやり方。手を離すぞー、と言わないで支えを離したら気付かず一人で乗れていた、というのは、音乃が黙って手を離した瞬間、超人的な反応だか何だかでターナが察知し、待ってましたとばかりに見事に転倒という結果に。そして、
「何で黙って手を離すのだ!危ないじゃないか!」
と文句を言われるオマケ付き。
「補助輪でもあればいいのかなぁ…」
「なんだそれは?」
「えーとね、子供が一人で乗れるようになるまで横に付けて転ばないよーにするオプション」
「…そう聞いてわたしが『それはいいな!』とか言うと思うか?」
「だよねー…っていうかそれ以前にママチャリ用の補助輪なんか無いか」
実はあったりするが、まあこの場では関係ない。
結果。
「もういやだ…わたしには一生この自転車は乗りこなせないのだ………」
体育座りですっっっかり厭世的な気分になったターナと、今日一日で大分傷の増えた自転車が出来ただけだった。
「…おっかしいなあ。ターナ、運動神経は日本基準で見ても良いと思うんだけれど」
「というかネノはどうやって乗っているのだ」
「どうやって、と言われても。なんとなく体が覚えてるだけだからなあ」
名選手必ずしも名コーチにあらず。そういえば小学生相手のスケート教室に講師役で参加させられたこともあったが、そういう時でも音乃が受け持った子は滑られるようになるのに時間がかかっていた気がする。
「私、教えるのに向いてないのかなあ…」
ネガティブなターナに引きずられるようにして音乃まで暗くなる。
暗くなる、といえば少し日も傾いてきた。夕食を作る頃合いでもある。どうせなら美味しいもの作って食べさせて、元気にしてから帰してあげたいなあ、と音乃が黄昏れていると。
「あー、なかなか戻ってこないから様子を見に来たら。何やってんだい二人とも」
菜岐佐が火の点いてないタバコを咥えながらやってきた。
「げー…末永先輩…ヤなとこ見られたなあ…」
「どうしてだ?」
「あー、うん。何か弱ってるとこ見せたくなくって」
「聞こえてるぞ、樫宮。その様子じゃあ思い通りにはいってない、ってところか」
「ええ、恥ずかしながら…」
「ターナ嬢が恥じ入る必要はないさ。こいつが…」
「あたっ」
菜岐佐は座り込んだままの音乃の頭を軽く小突いて言う。
「教えるのが下手なだけだ。ほら、ちょいと貸してみな」
そして自転車を起こして立っていたターナからそれを受け取ると、自ら跨がる。
「自転車なんてのはな、前に進んでりゃあ倒れないように出来てんの。それが分かれば…こんなことも出来る」
と、軽くペダルを踏んで発進した。
…ハンドルから手を離したまま。
「おお…器用な」
感嘆するターナ。
菜岐佐はさして速くもない速度のまま直進していったが、やがて敷地の端が近付くと軽やかに転回して自転車の方向をこちら側に向けた。
…手を離したまま。
目を丸くしてそれを見守っていたターナだったが、目の前に戻ってきて自転車を止めた菜岐佐を迎えると自然に手を叩き感心して言う。
「見事です。そうか、わたしは腕に余計な力が入っていた、というわけか…」
「そういうことだ。やってみな?すぐには出来ないだろうが、さっきよりはよっぽどマシだろうさ」
「ええ」
ターナは自転車を菜岐佐から受け取って跨がると、ヘコんでいたことなどキレイさっぱり忘れたように嬉々として練習を再開するのだった。
「お?おお…これは……ちょっと、もう少しで…っ!」
危なっかしいことに変わりはないものの、それでも勘所を掴んだのか時折足を着きながらもじわりじわりと進んでいく。
「ほら!肩の力、肩の力!」
「はいっ!」
返事をして自分の身体の状態を再確認。
そんなことを数分繰り返していると…。
「乗れたっ!乗れたぞネノっ!!」
「良かったねー………」
「ははっ、はははは!これは…楽しいなっ!こんなに楽しいのは久しぶりだっ!!」
ついさっきまでの泣き言はどこへやら、大喜びして自転車を乗り回すターナがそこにいた。
前進停止は当然として、少しフラつきながら転回もこなし、すっかり一人で乗り回せるようになっている。
「けどもう少し慣れるまで車道には出るなよー。歩くのとはスピード全然違うんだから」
「はいっ!」
元気いっぱいに答えているターナ。
この調子では耳に入っているのか怪しいものだったが、今は好きにさせておこうかと、代わりにもう一人、まだ落ち込んだままの後輩に菜岐佐は声をかける。
「ほらどーした。教え子がちゃんと乗りこなせるようになったぞ」
「…教えたの先輩じゃないですか。私何の役にもたってません」
「いじけなさんな、いい歳して。樫宮が鍛えてなかったらああも簡単に乗れるようになってなかったさ」
体育座りの膝に顔を埋めて愚図る音乃を、菜岐佐はしゃあないな、という風に頭をくしゃくしゃに撫でるが。
「やめてください…」
それでまた頑なになった音乃は、完全に膝の間に顔を挟んでイヤイヤと肩から上を震わせていた。
「ああ、まあな、お前は長女だし普段下から頼られたり世話したりするけど、自分で思うほどにはその役出来てないと気に病むことが多いんだろうな。まあ難しく考えるな。ターナ嬢があれだけ喜んでるの見てると嬉しくなるだろ?え?」
「もーほっといて下さい……」
「処置無しだねぇ…早いとこ薬が戻ってきてくれりゃいいんだが……と、来たか」
「…ネノ、どうした?」
軽く息を弾ませながら戻ってきたターナは、音乃のすぐ横に止めた自転車から降りるより先に音乃の様子のおかしいことに気付いて声をかけたのだが、いじけたままの音乃は微動もしない。
そんな音乃の態度が珍しくてどうしたらいいのか分からずに、ターナは菜岐佐に困った顔を向けるのだったが。
「疳の虫でもおこしてるんだろうさ。後は任せたよ。わたしゃ先に帰る」
「は、はあ…」
菜岐佐の方も、どーしよーもない、とばかりに両手の平を天に向け肩をすくめて、ターナに丸投げするだけだった。
そんな気ままな態度に面食らうターナと、いつものことだと言わんばかりに興味も示さないで俯いたままの音乃。
その二人を背中越しに見比べて軽く肩を落とし、飄々と歩いていく菜岐佐を、ターナは思いついたように呼び止め、言った。
「あ、あとナギサさん、お陰で乗れるようになりました。ありがとう」
「それは樫宮に言ってやってくれ。んじゃ」
一度だけ立ち止まり、振り向かずにそう言うとやっぱり同じような歩調で、練習していた資材置き場を出て行く菜岐佐だった。
「…ふう。なんだかな、ネノの言った通り、なんだかよく分からないところのある人だな」
「………」
ターナの声はいつも通り。拗ねているのは自分だけ。
そんな自覚が音乃の顔を上げさせない。
「………ネノ。ちょっと教えて欲しいのだが」
空気を読み取ってか、おずおずと、といった調子でターナが上から声をかけてくる。
「自転車のことなのだがな」
「別に気を遣わなくたっていいよ」
「……あのな」
「だからいいってば。私結局ターナの役になんか立ってないもの。ターナが自転車乗れるようになったのだって、末永先輩のお陰なんだし」
「……だからな」
「もう先に帰ってよ。私、もーちょっとここでこうして……」
常に無くしつこい、と思って顔を上げる。
そうして、音乃の目に映ったターナの姿といったら。
「………おい。ぶつけていいか?」
自転車を、両手で高々と持ち上げて、あとは音乃に向けて突き落とすだけ、という体勢なのだった。
「………えーと…じゃなくって!!何やってるの危ないっ?!」
「うるさいバカ。今のネノを見てると何だか無性に腹が立つのだ」
だからといって買ったばかりの自転車を人にぶつけて壊していい理由にはならない。ついでに言えば今度は全額自分で払わないといけない約束なのだ。
放っておいたら本気でそうしそうだったので、慌てて立ち上がり、一方ターナを刺激しないようにゆっくりと言う。
「分かったから、とにかくソレ降ろそ?誰かに見られたら危ないことしてるって思われるよ?」
させたのはお前の方じゃないか、とぼやきながらそれでも一応ターナは言うことを聞いて自転車を足下に降ろした。それはもう、とても大切なものを扱うように、そっと。
「………」
考えてみれば、それもそうか。
初めて乗った自転車で、何度も転びながら、何でも出来そうなターナには似合わず苦労してようやく乗れるようになったのだ。
そういった、短い時間ではあったけど、苦労を共にした「相棒」を乱暴に扱うような女の子じゃない。
「…そうだよね」
「なにがだ?」
自分だって、それが分かっているから、ターナと一緒にいることが好きなのだ。
それを確認できたのは幸いだった。
「ん、なんでもない。変なとこ見せてごめんね」
「ネノが変なのは今に始まったことじゃないだろう?」
「そーゆーのとはちょっと違うんだけど…」
あとその、素で口のアレなところはもう少しなんとかしてもらいたい、と重ねて思ったが、まあそれもターナという女の子の、気の置けない相手に見せる気取りのなさだ。
気にしても始まらない、というよりそんなところの無いターナというのも、なんだか物足りない。
そんな風に思うと一人笑いがこみ上げるが、ターナはそんな音乃を見て何かよからぬ想像でもされたのかと少し拗ねた顔をしていた。
それに気付いた音乃は、ターナをにっこりと見やって言う。
「もう結構いい時間だし、帰って晩ご飯にしようか。あ、今日泊まってく?」
「………前もそういう流れで結局泊まったじゃないか。毎回だとわたしが引っ越し
てきたみたいに思われそうだ。遠慮しておく」
「そっか。残念」
しばらく悩んだ様子に免じて、今日は我慢することにする音乃だった。
その後、泥だらけのターナの姿に呆れた大家さんから無理矢理二人揃って風呂に放りこまれたりだとか、ターナにとってこの日ふたつ目の生まれて初めてでもあったが、包丁を握ってみたりだとか、慣れない生魚に慣れさせようとして音乃が作ったなめろうがあまりにも美味しくてターナがつまみ食いだけで半分腹に収めてしまったりだとか、他の住人たちが生暖かく見守っていたくらいには盛り上がったのだったが…まあ、自転車にまつわって呆れたり落ち込んだり嬉しくなったりしたことに比べれば、些細な話である。
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