第18話
踏み込んだ先は、手製のものながらも灯りの役割を果たすものはあり、その光に照らされる足下は意外に整理されているようだった。
所詮はビルとビルの間の隙間。快適に歩けるはずもないが、それでも不快な水たまりやゴミ溜めなどもなく、それほど足が汚れる心配もせずに先に進む。
あるいは頻繁に人通りのある場所なのかも、と考えていると、黙っていた三人のうち、音乃が口を開いた。
「…実はさ、何もなくて羽月も普通に遊びに来てるだけだったりして」
不安は隠せないようだが、それでもそんなことを明るく言える程度には余裕のある蒔乃。
「どこで誰が見てるのか分かんないんだから、無駄口はたたかない方がいいと思うよ」
そんな妹をたしなめるような音乃は、自分でもどうかと思うほど冷静だった。
「そうだな。こちらをどうこうしようというわけではなさそうだが、監視はされているらしい。大人しくしておけ」
それと、名前は出すな。
小声でそう付け加えるターナ。
聞かれている以上、自分達の目的や正体を知られて警戒されては元も子もない。
ターナも暗がりに踏み込む時には携えていた得物はとうに仕舞っていて、両手はジャンパーのポケットに入れている。
「………」
仕方なく口を閉ざす蒔乃だったが、黙っていれば不安は募るばかりなのか、一番後ろの歩みはひどく慎重になり、やがて前を歩く音乃とは距離が離れそうになる。
「ほら」
それに気付いた音乃は、立ち止まってその手を取る。
蒔乃はびっくりしたように立ち止まるが、ありがと、と小声で告げるとむしろ音乃を引っ張る勢いで歩みを再開した。
「…ふふ」
そんな様子を見守るターナの頬には、隠すつもりもない笑みが浮かんでいた。
もちろん、渋谷の街中である。
いくらビルとビルの間の隙間といえど、何十メートルも人目に触れず歩けるような場所ではない。
暗く狭い場所を、足下に時折目を配り周りに誰かいないか気をつけながらだから、体感上歩いた距離よりも実際に動いた距離の方が短いのは当然だ。
蒔乃は後ろを振り返り、入ってきたところからまだ街灯りがもれているのを見てホッとし、歩の鈍った自分に気づいてこちらを振り向いた姉の顔を見て。
「ね…おねーちゃんっ?!」
悲鳴をあげた。
その後ろには両手を挙げた大柄な男がおり、蒔乃の剣幕に驚いた音乃が自分の背中を見るよりも早く、振り下ろされた腕は音乃の体を後ろから拘束し、大きな手がその口を塞ごうとする。
「ああっ!」
咄嗟に腕が伸びたのだろう、音乃の手によって突き飛ばされて蒔乃は尻餅をつく。
ターナは、とその向こうにいるだろう人影を目で追うが、薄暗い半闇の中にそれらしい姿はない。
「いいから逃げなさい!」
「でもっ?!」
蒔乃の反駁を意にも解さず、音乃は自分の口に重ねられようとしていた手に噛み付き、男が悲鳴をあげている間に、乱暴にも今度は妹の肩を蹴飛ばそうとしてくる。
その勢いに負けて蒔乃は立ち上がると同時に駆け出そうとして、「誰か呼んでくるから!!」とだけ振り返って叫び、あとは「待て!」という複数の声をも振り切って、ここからは光の柱のようにも見える、出口へと向けて駆け出していった。
そして狭い場所が幸いし、音乃の体が邪魔をして追っ手は蒔乃を追えない。あるいは出た先に待ち構えている者がいるのかもしれないが、いくらなんでも人の絶えない街のど真ん中で、高校生の女の子を捕まえてどうにかするような真似など出来るものではないだろう…たぶん。
音乃は自分の身に降りかかった災難を思い出していささか不安になるのだったが、とにかく今はこの難事を何とかしなければなるまい。
「…どさくさに紛れてドコ触ってんのよ!」
「ぎゃっ!?」
長身の音乃だからこそ出来る、後頭部でのヘッドバット。
自分を羽交い締めしてた男の鼻っ面に一撃をかまし、その腕から逃れると、
「隠れてないでなんとかしてよっ!!」
と、姿の見えない相棒に向けて文句を言った。
「隠れてるわけではないんだがな」
その声は、やれやれといった具合の困惑を帯び、そして上から落ちてくる。
次に何が起こるのか。
音乃はそれに気づくと慌てて距離をとる。
ドンピシャ。
ほぼ同時に、音乃に鼻をやられて顔を押さえていた男の脳天に、長い足のかかとが激突する。
「後ろ!」
悶絶の声もたてず崩れ落ちる男を尻目に、当たり前のように着地したターナは、言われるまでもないとばかりに着地した足を軸に半回転し、目の前に迫っていたもう一人の男の下あごを、今度は跳ね上げたつま先で蹴り上げる。
そしてこちらも呻き声もたてずに後頭部から崩れ落ち…
「おっと」
る直前、襟を引っ付かんで地面への激突を防ぎ、しかしそのまま手を離して結局は「ゴン」という音と共に男の後頭部はコンクリートに落下した。
「わー、やさしー」
「ふん、死にさえしなければどうなろうが知ったことか…逃がせたか?」
両手をはたいて一仕事終えたといった格好のターナ。
「大丈夫。メールしておくね。無事だから戻ってこないで安全な場所にいろ、って」
「だな。それにしても…」
「うん?」
さっさと蒔乃に連絡をつけるべくスマホを取り出した音乃を可笑しそうに見ながら、続ける。
「なかなか度胸がついてきたじゃないか」
音乃が先に一撃食らわしてターナにトドメを刺されて転がっている方の男を指さしながら言った。
「…火事場のナントカってやつよ。あといるのは分かってるから、時間だけ稼げば十分だしね」
「上等だ。奥に行くぞ」
「ん。メールはしたけど、急がないとね」
急な襲撃ではあったが、多分ターナにはあらかじめ分かっていたのだろう。
その上で音乃が期待通りに動いて、蒔乃をこの場から遠ざけることにも成功した。まずは重畳というところだった。
ターナが先に伸していたと思われるものも含めて三人、今は気を失っている男たちを後に先に進むと、程なくこれでもかというくらいに趣味の悪い塗装が施された扉が見つかる。
スプレー缶か何かで無造作に描いたものだろうが、辛うじて何かが描かれたのか分かる程度の線の落書き。
何やら郊外のスラムじみた廃屋などでよく見かける類のものだが、本人は上手いとでも思っているのだろうか。
どちらにしても場の荒んだ雰囲気にだけは合っている。その点だけは認めつつも、音乃はやっぱり自身の美意識には許容し得ない眺めに顔をしかめている。
「…この中に誰かいるの?」
「らしいな。ご丁寧にさっきのも監視していたらしい。結構慌てているようだぞ」
扉、ではなく扉の蝶番側の壁に耳を近づけて中の様子を伺っていたターナが、愉快そうに答えた。
「鍵は…かかってるな。またひどく怖がられたものだ。こちらは見目麗しい女二人だぞ?」
またえらく図々しいことを言うが、ターナ自身に限れば大げさでもなんでもない。そしてそう言われて悪い気のしない、この状況でなんとも呑気な音乃だった。
「どうするの?」
「どうもこうも、こじ開ける以外に何がある?ちょっと離れてろ」
言うより早く、ターナは口の中で何かを呟くと、右手の辺りに現出した粒子状の光が消えたところに姿を見せた得物を逆手に握り、無造作に振るうと、
「ふっ!」
ドアノブのところに突き立てた。
耳障りな金属音が闇に響く。
「…ちっ」
手応えが無かったのだろうか、一度引き抜くとまた同じように、いかにも重そうな鉄の扉を刃で貫いた。
そして今度は、何かがはっきりと折れたような音。
ドアノブの当然外れてしまった扉をどうやって開けるのか。
音乃が見守る中ターナは、いつか見たようなえげつないヤクザキックで鉄扉を蹴飛ばす。
轟音と共にそれは吹き飛び、外と大して変わりない、薄暗い廊下が二人の前に現れた。
「…どうするの?」
「どうするもなにも。案内が出てくるのを待つさ。ほら、来たぞ」
ターナが指さした先から、暗くてよくは分からないが多分血相を変えた男がまた三人、向かってくる。
手にはそれぞれ小さいナイフだかを握っていて、言語の態を為していない叫びなんぞを口にしている。
「喚くな。怯えてるのが丸わかりだぞ」
逆にターナは楽しそうですらあった。
音乃を安心させるための方便だとしても、余裕たっぷりに過ぎてこの先に何が起こるのか、むしろ可笑しくなる。
そしてターナの嘲笑を真に受けたのかなんなのか、三人の男はギョッと立ち止まった。
その脇にあったパイプをターナは一瞥すると、右手を目にも止まらない速さで振るう。
その手に収まっていた白刃はその手を離れて飛び、過たずパイプに突き立った、というより切断した。
「そら、何が出てくるかな」
「え?」
今度は左手に握られた紐を引き、柄に結わえられていたそれに引かれて刀は手元に戻ってくる。
と同時に、斬られたパイプから凄い勢いで水が噴出し始める。
パイプは天井の散水装置に繋がっており、火事の時に作動するスプリンクラー用の消火用水らしかった。
三人の男は口々に驚いたように喚き、狼狽える。
隙を逃さずターナは襲いかかった。
「気をつけて!」
まあ言うまでもないだろうとは思うが、一応そうかけられた音乃の声を背中に、文字通り一瞬でターナは男達を昏倒させた。
一番手前の男はあご先を掌底で、次の男は腹部に膝蹴りで。
気絶まではせずとも痛みで暫くは身動きもとれまい。そんな勢いのまま、続く三人目の男には。
「…おい。この先を案内してもらおうか」
「ぐぁっ?!」
喉元を掴み、壁に押しつけた。
「おっ、お…お前ら何なんだ…げほ!」
「それはこちらが聞きたい。ただ単に迷い込んだか弱い女子にいきなり襲いかかるお前らこそ何なんだ」
「………」
いやまあ、戸外での出来事ならそう強弁も出来るけど、流石に不法侵入した上に器物破損もした身でそれはどーなのかな、とどっちの味方か分からないようなことを音乃が思っているうちに、話がついたのか、ターナは男を後ろ手に縛り上げて先に立たせ、短い廊下の向こうに歩かせていた。
ちなみに男の腕を縛っていた紐は、ターナの刀に繋がっている。
(…そーいう使い方も出来るんだね)
どうでもいいことに感心しながら、その後に付いていく音乃だった。
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