第19話
縛り上げられた男は、ターナに小突かれながら先を進む間にも一言も無かった。
一度だけターナが、
「おい、貴様らが何者かは知らないが、根城にしている場所にでも案内してもらおうか」
と、ひどくドスの利いた声を後ろからかけたときに軽く身震いしたくらいのもので、それからはただ黙って、ゆっくりとではあるが二人を先導するように歩くだけだ。
侵入したビルは、築五十年近く経っているのではないかと思わせる歪なコンクリートの壁面と、これは交換したばかりなのかまだ明るい蛍光灯の照明がアンバランスで、しかし来客を気持ち良く迎えることなど一切考慮されてもいないだろう内装は存外、本来は異界の民であるターナには落ち着く空気でもあった。
「ね、タ…どこまで行くの?」
「さあな。ま、人質代わりがいるのだから妙なことにはないだろうさ…コイツの身柄などどうでもいいと思っている輩が相手なら、どうなるかは分からないが」
「滅多なこと言わないでくれよ?!」
「おっ?」
そんな場所を覚束無い足取りで先に歩いていた男が、本気で怯えたようにそう叫ぶ。
その唐突さを奇妙に思ったか、立ち止まって振り返る男の顔をターナはじっと見る。
年の頃は二十を超えるか超えないか、の辺り。
身だしなみ、と言える程のものは整った様子もなく、何日も風呂に入っていなさそうな垢じみた頭からは、似合わない香水など振りかけているせいか体臭と混ざって妙な臭いを放っている。
「な、なあ?その、な?あんたらを襲ったのは俺らのボスの指示でよ、悪気は無かったんだ。案内だけはすっからさ、そこまで行ったら見逃してくれねぇか?」
「ふん…そんなに親玉が怖いのか」
「怖い…ってえか、得体が知れないってえか…と、とにかくよ、あんたらが何をしに来たのかは知らねえけど、俺には関係ないことだからさ…」
「悪いが」
手を縛られたまま怯える姿に偽りは無さそうだが、それを信じて申し出をあっさり承諾するほどターナは人は良くない。
「…そのボスとやらに興味が沸いた。本来の目的とは違うが、一緒に顔を拝むくらいはさせてもらおうか。お前のようなチンピラをそこまで怯えさせる者がどんなヤツなのか、楽しみだ」
「そんなぁ……」
と、男は世にも情けない顔でしゃがみ込む。
「…もういいんじゃない?別にこの人いなくたって問題ないでしょ?」
それを気の毒に思った…のではなく、居合わせる人数は少ない方がターナの行動の自由は縛られないと思い、音乃はそう提案する。
それに救いを得たように男も喜色を顔に浮かべる…かと思いきや、相変わらず絶望的な顔でターナを見ていた。
別にこんな男にアテにされたりされなかったりしても、音乃としてはどうでもいいのだが、無視されるというのも面白くはない。
だが。
「……ま、それもそうか。抵抗する意志も失せた者を弄るのも趣味がいいとは言えないしな。おい、放してやるからここを離れるなり好きにしろ」
言い終えるより前にターナは、男の腕の縛めをを解くと、手にした刀を仕舞うより早く駆け出した男を、ため息交じりに見送った。
「自分で言っておいてなんだけど、本当によかったの?」
「大丈夫だろう。それよりそこの中だ。誰かがいるのは分かるが、どうも様子が変だ」
「ヘン…っていうと?」
「入ってみれば分かるだろ…って、大胆だな。鍵もかかってやしない」
鍵がかかってたらどーするつもりだったんだろ、と言わずもがななことを思いながら音乃が見守る中、すぐ目の前にあった扉は軋む音を立てながら内側に開く。
「邪魔するぞ」
警戒くらいは流石にしてるよね?と疑わしくなるくらいあっさりと、ターナは部屋の中に踏み入る。
そこにいたのは。
「…子供?どうしてこんなところに」
十歳前後とみられる子供の後ろ姿だった。
「あ…」
一方音乃は、その子供から少し離れたところで床にへたり込んでいた少年の姿に気がつく。
顔を合わせたことは何度かあったが、親しく話した覚えは無い。だが、聞き込みの際に何度も写真を見たから顔は分かる。蒔乃の探していた、稲生羽月だった。
「羽月くん…?」
「え?…あ、あの……」
入り口に背中を向けていた羽月は、部屋に入ってきた二人のうち音乃の顔には見覚えがあったのだろう、振り返った時の呆然とした顔と打って変わって表情を取り戻し、その驚きと安堵の入り交じった様子のまま立ち上がると、慌てて音乃のもとに頼りない足取りで歩み寄ってきた。
「あの、僕は…」
「分かってる。マキのこと覚えてるでしょ?その姉の…えーと、とにかく迎えにきた」
「あ、ああ……ああああっ!」
「えっ?」
そして音乃の目の前まで来ると、突如叫びだして膝をついた。
状況が状況なので、何か危険な異変か、と思いきや羽月は両手で顔を覆うと、人目もはばからず大声で泣き出したのだった。
「ああっ、あああ……ごめ、ごめんなさい…ごめんなさい……」
「え、ちょっと待ってよ。泣き出すほど怖かったのなら…」
「ネノ」
慌てて羽月の肩を抱くようにしていた音乃を、ターナは鋭い声で呼び止める。
「え、どうしたの?」
「…ウヅキを連れてこの部屋を出ていろ。どうも、面白くない」
面白いの面白くないのと、どういう意味だ。
そんな意図の視線を向けはしてみたものの、ターナの目はまだ向こう側を向いている子供の背中に注がれていて、不満そうな音乃を顧みる様子も無い。
仕方なく部屋の様子に注意を払い、改めて中の様子を観察する。
といって特筆すべき何かがあるとも言えない。廊下と同じく、古いコンクリートが剥き出しの、辛うじて塗装されているだけが飾り気ともいえる無愛想な装いだ。
天井も同様にジプトーンどころか、そういった設計だったとも思えない、何に使うのかも分からないパイプや配線が露出したままのものだ。こちらに至っては塗装らしきものもない上に、壁際には何かしら加工の後も見えることからもともと天井に何か張ってあったものを引っ剥がしたのではないか、と疑わしくなるくらいに荒々しいままである。
人間の気配を残すものといえば床に転がった飲料の空き容器ばかりで、安酒の不快な臭いのする瓶が何本かあるところを見ると、表に出張ってきた連中が屯していた後なのかもしれない。
部屋の広さといえば、さして面積もないと思われる印象のビルの中にしては殊の外広く、卓球が不自由なく出来るくらいか。もっとも音乃はやったことがないが。
そしてそんな殺風景な場に、ターナの睨み付けるような視線を受けて平然としている子供、という絵はなんとも異様であり、音乃は却って緊迫感の削がれる思いである。
「ターナ…この子、なに?」
「わからん。わからんが…おい、そこの子供。お前は何者だ。こんな所で何をしている」
誰何の問いを放つターナ。
そしてその子供は、それで初めて気がついたようにゆっくりと振り返り、それから体を向き直して、いつの間にかまた、得物を手に取っていたターナと相対した。
「…流石に子供相手に刃物はどーかと思うけど」
「見たままの子供なら安心なのだがな。貴様何者だ」
「ちょっとターナ、だから子供相手に何を…」
【…懐かしい気配だと思ったのだけれど。期待外れで、がっかりだ】
「……なんだと?」
口を動かしその人影の位置から聞こえてきたはずの声は、子供のものとは明らかに違う、重みのある音。口調もゆったりと、だが感情らしいものを一切感じさせない無機質な響きでもあった。
そして不思議なことに、音乃にはその声が直接頭に響くようにすら思えたのだった。
「…なに、この子?」
同じ疑問を繰り返す。だがそれは先程の問いとは違い、自分に言い聞かせるように、である。そうしないと、どこか自分の意識が声に引きずり回されるような錯覚があった。
それ程に、その「子供」の声は、押しつけるような威を備えていた。
「…ネノ、あまりこの声に気を遣るな。持っていかれるぞ」
何を、と問う必要もない。自分の意志が、自分のものでないところから発せられるような気がして、それに必死に抗する今の音乃には自明のことだ。
ふと思い出して、傍らの羽月に目をやると、自分の肩を抱くようにして震えていた。
「羽月くん?何かこう…マキのことでも思い出してて。あんまり目の前の光景は見てない方がいいよ」
「は、はい…」
素直に音乃の助言に頷く羽月。
かつての印象と変わらず、そういう性質は今も同様なのだろう。どうしてこんな少年が、家でまがいの真似をして怪しい場所に出入りしてたのか。
そう問いたいところだが、それは今やるべきことではないし、音乃がすることでもない。
「…ターナ、私ここから……」
「ああ……え?」
【させないよ】
「あぐっ?!」
従前と変わらず、頭に響く声。だが今度は、押し潰そうという意図でなされたのか、音乃には激しい頭痛として捉えられる衝撃が襲う。
「ネノ?!しっかりしろ!」
もちろんそれは脅しに過ぎなかったのだろう。ほんの数秒でそれは止み、けれど脳髄の奥に衝撃の残滓があるような不快感は確実に、この場を逃れようとした音乃の気を挫いた。
「貴様…っ!」
【違うとはいってもね。焦がれた存在の欠片ではあるんだ。ぼくの永年の望みを、ここで手放すわけにはいかない】
「そんな戯言、聞き入れるわけが…」
言いながら腰を落とすターナ。同時に、一度見たように粒子状の光がその前身を覆い、だがそれも一瞬のことで、光が掻き消えると同時にその下からは鎧を纏ったターナの身姿が現れる。
「…あるかーっ!!」
【させないと言ったよね?】
「………っ?!」
今度は悲鳴も出なかった。
頭が破裂したのではないかと本気で思うほどの軋みが、脳はおろか脊髄を辿り腰の辺まで及ぶ。
ビクン、と全身を硬直させた音乃は、気絶することさえ許さない痛みに口元から涎をこぼし、呻き一つ漏らせずそのまま横に倒れ込む。
「わぁっ?!」
けれど辛うじて、羽月の側に傾いた体は支えられ、頭から崩れ落ちることだけは避けられた。
「ネノ?!……貴様…」
羽月に抱えられるようにして喘ぎ声を口にする音乃を見て、だがターナは子供の方に炎熱を帯びた視線を向ける。
【だからさせないと言ったじゃないか。ひとの助言は無下に扱うものじゃないよ】
「助言だと?…いや、改めて問うが……貴様何者だ」
【問われて名乗るも
いちいちターナの癇に障る物言い。
だが今は音乃の容態が気に掛かる。時間を稼いでどうなるのかは分からないが、ターナは怒りに満ちたその体躯を両の足でしかと支え、一瞬で斬撃に移行出来る体勢を崩さぬまま、そして子供の正体に思い当たる。
「…そうか。滅んではいないと思っていたが…貴様が、『異世界統合の意思』なのだな」
それを聞いて初めて、子供の顔が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます