第16話

 思わず顔を見合わせた三人だった。

 聞こえた声は不意の来客を訝しんでいるようであり、少なくとも誰かが訪れることを歓迎するような状況でないことだけは、確かなのだろう。

 といってここで「ごめんなさい、間違えました」と回れ右するわけにもいかない。

 音乃は蒔乃に軽く目配せをする。

 それを受けて蒔乃、首をすくめて縋るような目で姉を見たが、厳しい顔の音乃に睨まれると、二人が何をやっているのかよく分からずポカンとしているターナの視線にも気づかぬ様子で、一歩前に出て扉の前に立った。


 「あのー、樫宮といいますけど。羽月…くん、いますか?」


 気後れのみえる物腰からの問いには、どこかためらいがある。あるいは自身が言っていたように、一度拒まれていたことが引っかかっているのだろうか。


 「………そんな子はいません。お引き取りを」

 「あの、あたし引っ越しする前にずっと友だちで。お母さんとも何度かお話してるんですけれど、覚えてませんか?」

 「…ごめんなさい、分かりません。どうかこのまま帰ってください……」

 「羽月と連絡とれないんです!あいつ、何かヘンなことに巻き込まれてたりしませんか?本当に元気でやってますか?!それだけ分かったらあたしたち帰りますから、教えてください!」

 「…………帰って、ください」

 「おばさん……」


 普段の蒔乃にない必死さにほだされてか、感情を露わにせぬよう努めていた平坦な口調が、いくらか乱れる。

 苦衷を抱えるのは蒔乃も同じなのか、唇を噛んで扉を睨むように見つめている。

 妹のそんな表情は音乃の顔にも曇りをもたらし、ターナは二人の顔を交互に見比べて、悟られぬよう胸中のみでため息をもらした。


 やるしか、ないか。

 気乗りはしないが、あまりこの姉妹にこんな顔をさせておきたくない。

 ターナは意を決した自分の所作にまだ気付いていない音乃の肩を指でつつき、こちらを見た音乃に向かって人差し指を口の前に立てる仕草を見せる。それからその指で蒔乃を指すと、音乃もその意を汲んでか、小さく頷いた。


 「あたしのこと覚えてますよね?去年、羽月がカールの綱離しちゃってカールが逃げたとき、一緒にさがして連れてった樫宮蒔乃です!暑い中ありがとう、って何度もお礼言ってくれたじゃないですか!その後散々からかわれて困った、って羽月が言ってたあの時です…って、音乃ちゃんなに?今あたし…」

 「マキ、ちょっとこっち」


 次第に必死になってきた蒔乃の腕をとり、音乃はその場をターナに譲る。


 「え?あの、ターナ、どーする…」

 「考えがあるみたい。少し任せてみよ?」


 信頼に満ちた、微笑さえ浮かべた姉のその顔に、蒔乃はこんな時に…と思わないでもなかったが、それでも一応は自分から身を引いてターナを前に出した。


 「ありがとう」


 礼を言う。

 それからターナは、表情を…音乃がギョッとする位の酷薄なものに改めて、その横顔に相応しく冷たい口調で、話し始める。


 「…お初にお目にかかる…いや、まだ目通りは済んでいないが、これからそれは果たされよう。わたしは…こちらでのウヅキの『知人』だ。意味は分かるな?あなたの息子の友人とやらが訪ねて来たので、僭越とは思ったが案内した。もしこの娘があなたに目通りも叶わぬとなれば、わたしの方で連れ帰ることになるが。構わないか?」

 「ター…」

 「しっ!」


 何を言っているのかと口を挟もうとする蒔乃を、ともかくターナに任せることにした音乃が制止する。

 姉の自信たっぷりな様子が少し癪に障らないでもない蒔乃だが、彼我の頑なっぷりに打開の手立ても見当ついていなかったのは事実だ。

 それにしても、ターナの煽るような物言いもおかしく思える。

 これではまるで、蒔乃を人質にとっているようではないのか。確かに何度か顔を合わせてはいるが、蒔乃の身を案じて頑なさを解くほどの関わりがあったとも思えない。

 けれど、仕方なく扉を見つめる。それしか今は出来ないと思ったからだ。

 チラと、ターナの顔を見つめる。

 音乃が感じたような、仄暗い冷たさは失せてはいたが、何を考えているのかよく分からないことに違いはない。


 (お願い…開けてください、おばさん)


 だから今自分にはこれしか出来ないのだと、胸に手を当てて祈る。

 そして、願いが通じたのかと思えるくらいあっさりと、鉄扉の鍵は開けられた。 


 「え」


 そっと、外側に開いた扉を避けるように一歩下がるターナ。

 開いた扉の中からは、蒔乃にも見覚えのある、羽月の母が姿を現していた。


 「…物騒な物言いをしました。無礼をお詫びします」


 一番前に立っていたターナが、そう言って頭を下げる。羽月の母は「いえ」とだけ呟くように言い、この中ではただ一人面識がある蒔乃に向かって何故かホッとしたような顔を見せた。


 「マキノ」

 「あ、うん………あの、お久しぶり…です。樫宮蒔乃です」

 「…ごめんなさい。とにかく、上がって下さい」

 「…はい。お邪魔します」


 どんな形であっても、一先ず願った通りの成り行きだ。招き入れられたのを一歩として蒔乃は、この場の誰にも悟られぬよう、一人意を決していた。




 部屋の中は引っ越しから間もないが故の乱雑さも無く、家具調度品の少なさによるのか生活感のひどく乏しい様相だった。

 そんな中勧められて腰を下ろすと、四人が一堂に会するには少し手狭に感じる。


 「済みません、今お茶を…」

 「いえ、お構いなく。ご都合も考えず押しかけたのはこちらですので」


 如才の無いターナの対応も、この際息苦しさを覚える空間にはかえってありがたい。

 蒔乃はそれを幸いと、席を立ちかけた羽月の母を呼び止め、話を始めようとした。


 「あのっ、それより羽月…あたしから連絡もつかないんですけれど、今どうしているんです…?」

 「マキ、焦るのはわかるけどまだ挨拶だってしてないんだから。ごめんなさい、せっかちな妹で。私、蒔乃の姉の、樫宮音乃と申します。羽月くんは何度か会ってます。妹が彼のことを心配して、私のところに相談に来たので、道案内で同行しました」


 道案内どころか一緒に迷っていたのだが、そこは姉の名誉にかけて伏せておかれた。


 「…ターネァリィス・アミーリェティシアと申します。ネノの友人です。その妹とのことで、同じく同行しました」


 続いてターナも硬い表情で名乗った。


 「は、はぁ…」


 彼女が瞬間呆然としていたのはターナの存在感に圧倒されてのことだろうが、すぐに気を取り直した様子で、折り目正しく正座する。


 「…稲生羽月の母の、稲生雅いのう みやびと申します。今ほどは取り乱したところをお見せして、申し訳ありませんでした」


 それからそう言うと、丁寧に指をついて深く頭を下げた。

 確かに訪れた時の動転とすら言えそうな応対は心配にもなったが、こうして落ち着いたところを見ると、息子の友人であるに過ぎない蒔乃や、それよりは年上であっても到底一人前とは言えない音乃にも礼を欠かさない辺り、本来は落ち着いた女性なのだろう。


 「…なにか?」


 それでもターナに対しては、いくらか疑問の生じる余地はありそうだったが。


 「いえ、何とお呼びすればよろしいかと思いまして…」

 「ああ、そういうことでしたら、ターナ、で構いません。皆にそう呼ばれるのが、わたしは好きです」


 そう言ってターナは、それが本心からのように、ニコと相好を崩した。

 わぁ…と、蒔乃が見とれたように感心していた。何というか、ターナが笑うと華やぐ。人見知りの激しい音乃としては、何とも羨ましいスキルなのだった。


 「…って、そうじゃなくって。マキ、お話始めないと」

 「あ、あーそっか。いいですか?」

 「はい、私としても誰かに相談する必要は感じていましたので」




 …話の筋としてはそう突飛なものでもなかった。

 夫と離縁した、という事実は語られつつも流石に子供の蒔乃たちには詳しくは語られなかったが、引っ越しの経緯としては不自然なものではなかったし、激変した環境に馴染めず、一人息子が素行を乱す、ということもあり得ない話ではない。

 のだが。


 「…あの羽月が、不良グループに出入りしてるって…あり得なくないですか?」


 音乃はそれ以前に、今時不良グループという言い方もどうなんだろう、とも思ったが、自身が不良グループなぞよりたちの悪い連中に害されかけた身だ。呼称などこの際どうでもいいと考え直し、蒔乃と雅の会話に意識を戻す。


 「もちろん親として、そんな身の持ち崩し方をするような子とは思っていません。ですが行き先も告げずに夜通し出歩いていたり、学校にも行っている様子がありませんし…強く言おうにも、私自身が夫とうまくいかずにあの子に望まない変化を強いた身ですので引け目を感じてしまって…」

 「あの、それでもお母さんとしては言わないといけないって…思うんですけど…」

 「マキ、それ以上は僭越だからやめておきなさい」


 音乃が重い声で止める。彼女が自身で我が身を責めている以上、それに追う真似は出来ない。

 建前としてはそんなところだったが、実際のところ音乃はそんな稲生雅の姿がどこか自分の親に重なって見えて、苦い物が胸中に留まるのを自覚せずにいられない。


 「…うん、分かった。済みませんでした、勝手なことを言ってしまって」


 けれど蒔乃は姉のそんな葛藤も知らず、シュンとなって素直に謝っていた。


 「いいえ、蒔乃さんが羽月を心配してくださっているのは、あの子の母親として嬉しいことですから」


 そこでようやく、雅は大人らしく子供を安心させるように笑ってみせた。


 「…さすがに喉が渇いてきましたね。今お茶を煎れますから」

 「あっ、はい…ありがとうございます」


 今度は拒みもせず、蒔乃は立って狭い台所に向かう雅を見送った。

 そして音乃は。


 「…ターナ。どうかした?」


 会話の間中、一言も発さず考え事をしているかのようだったターナに、そっと話しかける。


 「いや。ネノ、済まないがこの後わたしのやることは黙って見ていて欲しい」

 「うん?そりゃあターナのやることなら信用してるけど。改めて言うようなことなの?」

 「念のため、だ。マキノも。後で説明する」

 「う、うん。でもヘンなことしないでよ?」


 音乃ほどターナの事情を知っていない蒔乃はどこか不安そうだった。

 それに対しては、今の状況自体が既に十分ヘンなことになっているさ、と全く安心させる気のなさそうなことをターナは言い、茶道具を持った雅が腰を下ろし、茶を煎れ始めるのを待たずに先手を打つ。


 「ミヤビさん。済まないが、わたしの話を少し聞いて欲しい」

 「ターナさん?あの、お急ぎなのかもしれませんが、折角ですから…」

 「ウヅキの付き合いのある連中のことだ。我々が招き入れられる前にわたしの言ったことを覚えているか?」

 「はい?え、ええそういえば…あの、確か…」


 身を乗り出すターナは凄んでいるようにも見えた。きっとターナは自分の力を使う。その必要があって。でもそれを由とはしないだろうから、こうやって自分を蹴飛ばすような顔をしながらになっている。

 そのことを知っている音乃でさえもいくらか心配になるのだ。蒔乃に至ってはそれどころではあるまい。


 「………」


 文字通り、ハラハラしている、という態の妹を斜め前に見ながら、音乃はターナのやることを見守る。


 「あの、こっちの知人、と。確か…」

 「そう。それを踏まえた上で聞かせて欲しい。ウヅキが付き合いのあるという連中は、どこのどいつだ?ウヅキはどこに行っている?」

 「あの、おかしなことを仰いますね…?羽月の知人というのが本当であるなら、あなたが知っているのでは?」


 …蒔乃も異変を感じ取ったようだった。

 どこが、というわけではないが、ターナと雅の間にある前提に何か齟齬でもあるかのような。

 そして音乃にはなんとなく種がわかった。

 きっと先ほど、この部屋に入れてもらう時に既にターナは雅の自分たちへの印象、という認識を換えていたのだろう。

 あれだけ拒まれていた割りにあっさりと扉が開いたのもそのせいだ。直接顔を合わせておらずとも出来てしまうのは驚きだったが、それならターナが固い顔をし続けていた理由も分かる。ターナは彼女なりに慚愧を覚えていたのだろう。


 「え…?あの、ターナさんはその、羽月とどういった関係です…の?」


 そして雅が混乱している理由も。目の前にいるターナが、心を安んじる相手という認識と、息子の「悪い遊び相手」であるという認識が、両立しないのだ。

 これは長く続けていたらマズいことになる。音乃はそう思って助け船を出す。要は、認識を単純にすればいいことなのだろう。


 「あの、ちょっとすみません。私たち、羽月くんが無事かどうか分かればいいんです。今どこにいるのか教えてもらえませんか?顔を見れば妹も安心すると思うので」


 それだけで済むとも思えないが、この際嘘も方便だ。

 こんなに悪賢い思考回路してたかなあ、私。

 顔に出ないようにそんなことを思いながら、音乃は返事を待った。


 「羽月の…行き先、ですか…?それは、その…………」


 時間にすればそれ程では無いとはいえ、三人にとってはひどく長く思える。

 何の葛藤がそこにあるのかは知れぬが、口澱むことが続き、そしてその末にやけにキッパリとした口調で戻ってきた答えは。


 「…すみません、私にも分かりません……。折角来て頂いたところ申し訳ないのですが…」

 「そうですか…」

 「………」


 肩を落とす音乃と蒔乃。

 その一方、ターナは音乃に遮られたことも忘れてか、一人半身を浮かせ、顔も触れんばかりに近づけると、もう一度聞いた。


 「確かなことを伺いたいのです。あなたは、ウヅキの行き先をご存じですか?」


 逃がさない、とばかりに睨め付ける仕草は品性があるとは言い難かったが、それでも雅は一度はそれを正面から受け止め、しかしすぐに視線を逸らして、同じ返事を繰り返した。


 「…すみません、分かりません、としか言えません……」

 「…………そうですか。分かりました。追い詰めるような物言い、無礼をしました」

 「いえ…」


 それで、終わった。




 「結局分かんなかったなあ…でもおばさんのあの様子ならそこまで深刻じゃあないとは思うんだけど」

 「そうだな」

 「そうだね」

 団地を出てバスを待つ間、蒔乃は納得は出来ないがやれることはやった、という感じに伸びをしながら言った。

 確かに懸念の一つは解消したようにも思える。

 蒔乃が家に電話をかけた時、羽月などという子はいない、といった理由は知れなかったが、それでもその母は蒔乃のことを知らないというような不審はなく、ただその姿を確認は出来なかった、だけのことだ。

 それだけ。

 「…結局さあ、おばさんもあたしたちに心配させたくなくてああ言ったんだろーね。まったく、あの子もお母さんを心配させるくらいなら、さっさと家に帰ればいーのに」

 「…そうだな」

 「…………そうだね」

 自分に言い聞かせるような口振りだから、蒔乃も本心では納得していないのだろう。

 ただ、明日には帰らなければいけない。連絡がとれないことで心配は続くのだろうが、自分の中に折り合いをつけて自分は自分の生活に戻っていかなければならない。

 そこに、妹の精神にある健康性を見て取れて、音乃はなんとなく安心はしていた。

 「…ネノ、今晩時間とれるか?」

 「え?」

 だが、蒔乃に聞こえぬよう小声で、すぐ隣にいた音乃にかけられた声に緊張する。

 「なんとかマキノを振り切って出てこい。後でメールしておく」

 「………ん」

 何か確信を得た様子のターナに、蒔乃にさとられぬよう横目で返事をした。

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