第15話
「音乃ちゃんさあ」
「なによ」
ターナが夕方頃帰った後、蒔乃が寝泊まりする場所についてひと悶着あった。
音乃としては空き部屋に大家さんから布団を借りて放りこむつもりだったのだが、布団はともかく「妹さんなのだから同じ部屋で寝たらよろしいんじゃないかしら。折角実家からご家族が来たのですし、久しぶりに積もる話もあるでしょう?」と言われてしまっては、返す言葉も無く従う他に無く。
せめてターナも巻き添えにしてしまおうかとも思ったのだが、
「姉妹水入らずを邪魔するほど野暮じゃない」
と、思うところがありそうに言われてしまえば無理強いも出来ず、音乃の用意する夕食も辞退して帰ってしまったターナを少なからず恨めしく思ったものだ。
「…味付け濃くなってない?」
「…そうかな」
その夕食のことである。
この屋敷では、お手伝いさんが朝食を用意してはくれるが、昼食と夕食は各自でとることになっていて、大体はその日いる住人が適当に持ち回りで作るものの、今日に限っては音乃と蒔乃しかおらず、屋敷の周囲に飲食店も無いので、やむを得ず共用の食材を使ってあり合わせのものを音乃が作ったのだった。
「家で作ってた時ってもーちょっと薄味だったと思うんだけどなあ」
「…うーん」
思い当たる節が無いでも無い。
というのも、ここ最近何度かターナの部屋で作ることがあって、ターナが割と濃いめの味付けが好きなこともあって、その舌に合わせるようになっていたのだ。
「美味しくないかな」
「別にそーいうわけじゃないけど。でも一人暮らしってこういうトコから身体壊したりするかもだから、気をつけたほうがいーよ」
「…ん、言っとく」
「言っとく?誰に?」
鶏肉の卵とじを口に運んだ箸を咥えたまま固まっている音乃を、蒔乃は不思議そうに見ていた。
何か音乃に引っかかるところがあったとすればその話題くらいのもので、大分疲れていたのか風呂に入ってしまうと、蒔乃は布団に潜り込みさっさと寝てしまった。
その寝息を聞きながら音乃は、久々に顔を見た妹の持ち込んだ諸々に思いを馳せる。
家族のこと。
…音乃は、自身が望んだ世界から捨てられたと思ってスケートを捨てた。
そのことが多くの人に影響を与えるということは、自分の決定を周囲に伝えてから始めて思い知らされた。
その人々の中に家族がいたことは疑いようもないのだが、音乃が「逃げた」と顔をしかめて言っていた者と同じ位置に家族がいたのか、ふと疑問が沸いてくる。
少なくとも妹は、そうではないと否定した。だからといって今さら、音乃は氷の上にもう一度立ちたいとは思えないのだが、それでも世界が自分を捨てたのではなく、自分から世界に背を向けたのかもしれない、と後悔にも似た惜念の浮かぶことは認めざるを得ないのかも、と思う。
それから蒔乃の友人の話。
連絡が取れないことを訝しみ、行動に移す妹を音乃はどこか羨ましく思えて仕方がなかった。
蒔乃は高校二年。ちょうど、音乃がケガをしたシーズンと同じ歳だ。
その頃の自分を思うと、自分が向き合っていた、そう思っていた世界はいつでも目の前にあって、それ以外に目を向けていたとは到底言えない。
同じ競技に励む競争相手、いや、音乃はそんな同志が自分にいたとは決して思っていなかったから、ただそこに居並んでいただけなのだろうが、ともかく彼ら彼女らからも時に言われた、「スケート以外に何の取り柄もない子」。そういう評価を唯々諾々と受け入れてやっぱり、音乃はその通りに在った。
その当時の自分と、今の妹がどう違うのか。
比べても仕方が無いのに、と考えてそれでもそんな考えを振り払えない。
「…へこむなぁ。寝よ……」
起きたらきっと忘れてしまっているだろうことを思い、そして音乃は無理矢理眠りについた。
・・・・・
翌朝、ゴールデンウィーク中であるにも関わらず用意されていた朝食を大家さんと一緒にとり、二人は早々に出かけていた。
「マキ、明日帰るんだっけ?」
「うん、今日ケリがつけばいいんだけど。明後日は約束あるからなあ」
「ふーん」
電車の中ではその程度の会話しかなく、さっさと寝てしまった蒔乃とは違って結局夜半まで悶々としていた音乃は、始終うつらうつらとして気がつけば隣に座っている蒔乃の肩を枕にしている有様だったりもして、新宿で降りた頃には姉の立場が無いと一人で狼狽えていたものである。
そして新宿でターナと合流。
今日も相変わらずの革ジャン姿だったが、流石に季節的にそろそろキツいのではないだろうか。
「ターナ、今度服買いにいこ?」
「まあ、そのうちな」
顔を合わせるや否や、見かねてそう申し出る音乃だったが、ターナの方はあまり乗り気ではないようだった。
「音乃ちゃん、買い物デート行くんならあたしも混ぜてよ」
「今日の目的間違えてない、マキ?」
「さっさと終わったらでいーよ。明日あたしが帰る前でもいいし」
「あー、済まないが明日はわたしが休めない。また今度来たらにしないか」
「えええ……じゃあさ、今日早く済んだら行こ。ね?」
「あんた何しに来たのよ…」
そうは言いつつも、不平を漏らす蒔乃とそう言われて苦笑しているターナを見比べながら、音乃は本当にそうなればいいな、と思わないでもなかった。
「…そうするためには早く目的地に行かねばな」
「そうだね。マキ、習志野だっけ?」
「うん。遠いの?」
「さあ?行ったことがないし」
行き先を確認し、音乃はスマホのアプリで経路を検索する。
新宿からだと一時間少々。
「…着いたら早めのお昼にするか、さっさと済ませてゆっくりお昼ご飯にするか、ビミョーなとこよね」
「早く終わらせてからお昼にしようよ」
「ま、そっちの方が無難なところだろうな」
…結果としては。
まだ何も果たさないうちに遅い昼食になった。
「…なんで習志野市の他に船橋市の習志野とかあんのよまぎらわしい!」
「あたしに文句言わないでよ!」
地方の人間が陥りやすい罠である。
なまじ「習志野」などという駅名があるものだから、そちらに行ってみたら、そこは船橋市の習志野であって目的の習志野市とは結構離れてた、というオチなのだった。
「あー二人とも。どうでもいいが早く食べないとソバが伸びるぞ」
一人ちくわ天を齧りながらターナが苛立っている音乃と蒔乃をたしなめる。
結局、こーでもないあーでもないと迷った挙げ句、目的地の最寄り駅が津田沼と判明してそちらに向かい、時間も怪しくなってきたので仕方なくホームの立ち食いそばで昼ご飯を済ませる羽目になっている。
「うう、どーして蕎麦どころ長野の娘のあたしが千葉で駅ソバを食べる羽目に…不本意もいーとこだよ」
「もういいから黙って食べて、マキ」
音乃がそう言ったのは行儀が悪いの何だのということもあったが、何よりもカウンターの向こうにいる店員のおばちゃんの目つきが厳しくなってきたからである。
それはまあ、客商売とはいえ提供したものを不味そうに食べられては機嫌のよくなろうはずもない。
「そうか?わたしは結構美味いものだと思うが」
本気でそう言ってそうなターナの言葉に、おばちゃんが打って変わってにこにこしていたのが救いと言えば救いだった。
そしてJRの津田沼と京成の津田沼を間違えていた…などということもなく、バスに乗って辿り着いたのは、ひどく年季の入っていそうな団地だった。
「同じ形の建物ばっかでどれに入ればいいのか分かんない…」
同じ規格に従って大量に建築された時代の建造物は田舎育ちには馴染みの薄いもので、蒔乃のその嘆きは当然だとは言えた。
「…なんかドミノ倒しが出来そう」
一方、何か物騒なことを呟いている音乃を他所にターナは、入り口付近にあったサビの浮いた看板を眺め、
「二人とも見てみろ。これを見ればどの建物が目的なのか、分かるぞ」
と、ひとりまともなことを言っている。
それで本来の目的を思い出したか、二人はどれどれとターナのもとにやってきて、案内板と蒔乃のスマホを交互に見る。稲生羽月から来ていた連絡にある住所と照らし合わせるためにだ。
「…B-3棟。って、どこ?」
「ここだろう…というかすぐ目の前だな」
案内板から視線を外し、どこか陰気な印象の漂う建物を見上げるターナ。
雲一つ無い快晴の空だというのに、どこかうそ寒い空気が漂っているようだった。
「…ねー、音乃ちゃん。人影っていうか、子供がいないんだね、この辺り」
言われてみれば、確かにそうだ。
団地と団地の間にある公園のような広場は、遠目に見ても遊具は痛んでいて、長く人の触れた気配が無い。
不穏な気配、とも少し違うが、あまり長居したい場所でもなさそうだ。人見知りがいるわけでもないのだから当たり前だろうが、こうなるとどこか歓迎されていない様子でもある。
「…とりあえず、行ってみようか」
「そだね」
「だな」
三人はこの場に留まるのもどこか居心地が悪く、取るものも取りあえず一番近くにあるコンクリートの建造物に向かった。
「そういえばマキさ、羽月くん、どうして引っ越ししたの?」
連絡が途絶えた原因の一端はそこにあるだろうが、確認していなかったことを音乃は尋ねる。
先頭にターナ、続いて音乃で最後に蒔乃という並びであったから、返事は最後方からかえってくる。
「えとね、なんでもお父さんとお母さんが離婚してね。お母さんがこっちに来るからってついてきたらしーの」
ぴた、と音乃の足が止まる。
「わ…って、急に立ち止まらないでよ」
距離をとらずすぐ後ろを歩いていたのが災いした。音乃の背中に顔から突っこんだ蒔乃がそう言って抗議する。
のだったが。
「どーしてそれを先に言わないのよ!」
「え?え?それって重要なコト?」
「重要っていうか…ターナ、どうする?」
振り返って蒔乃に文句を言っていた音乃の更に向こうから、ターナも少し考える様子を示しながら、答える。
「…離婚、ということで具体的に何が変わるのかはわたしにも分からんが…その、ウヅキという少年にとって喜ばしいことではないのだろう?」
「…だとは思う。引っ越しのことあたしに言ったとき、すんごい暗い顔してたし」
「あんたはー…どうしてそーいう大事なことを言っておかないの、もー」
「だって音乃ちゃん聞かなかったじゃん」
「そりゃそーだけどさ…普通引っ越しっていったらお父さんの転勤だとかって思うじゃない」
「そーなの?今どき親が離婚して遠くに行くとかってフツーだと思うケド」
「そりゃそうかもしれないけどさ…」
妙なところでドライな妹の反応に面食らう音乃。
「…こんな所で問答していても始まらないだろう。とにかくその少年の母親に会ってみることだ。マキノ、先に行ってくれ」
団地の玄関を指さしてターナが言う。狭い間口に三人並んで入れるものでもあるまい。ターナの指示はしごく当然のことだった。
「うん、りょーかい」
蒔乃もそこは軽く応じて、目的の部屋のある二階に向かって階段を登り始めた。
音乃とターナは顔を見合わせ、一方は肩をすくめ、もう一方は苦笑を漏らしてから後に続く。
コンクリートの底冷えする、どこかかび臭さも感じる空気の中、黙って階段を上るとすぐ目の前に目指して来た稲生羽月、の今の住まいと思われる部屋の、玄関の扉があった。
表札などはなく、ただ生活感が乏しいとしか感想の浮かばない無愛想なそれには、部屋の番号と思われるアルファベットと数字の組み合わせの記号が記されているだけだった。
「…ここ、だと思う」
「ドアブザーあるよ?押してみたら」
「う、うん…」
この場に来て気後れでも生じたか、入る前のあっけらかんとした様子も失せた様子の蒔乃を促すと、二度ほど深呼吸をしてから、今の基準からすると少し低い位置にあったブザーを蒔乃は押した。
『…………はい。どちらでしょうか?』
扉の向こうから聞こえてきたのは、ひどく疲れた感じの、低く響く女性の声だった。
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