インターミッション・1
異界を跨ぐ人類の敵
「ターナ、いる?……って、ゴメンっ?!」
勝手知ったる…とまではいかなくとも、何度か訪れて扉を開くのに気後れも無くなった頃。
音乃は、学校帰りにターナの部屋に顔を出してみた。
遊びに…ということもなく、ターナはターナで夜にバイトでもしている風であったから、邪魔にならない範囲で話でもして、もしターナに用事が無ければ晩ご飯を一緒にしようか…という目論見で訪れることが多い。
ただ実際は音乃も手元不如意の状態が続いていて、頻繁に外食をするような余裕もなく、だからそういった場合は音乃が食材を持ち込んで料理をすることになるのだが、今日に関しては思い立っただけのアポ無し突撃であり…そしてそれが、音乃の羞恥心に災いした。
「ああ、なんだ来たのか。言ってくれれば…って、何故引き返すっ?!」
『だっ、だってターナお着替えちゅー……ゴメン、見ちゃった…』
「見たって…別に気にする必要はないと思うのだが」
と、ターナはパンツ一枚の、起伏に乏しい自分の体を見下ろす。声色には特に自嘲めいたものもない。
『っていうかターナ、着替える時は鍵くらいかけなよ…外から見られたらどーすんの』
一方、外に出た音乃は困惑した声。
それを耳に心地よく覚えながら、ターナは手早く身につけるものを手にして言った。
「別に見られて困るようなものでもないがな。終わったぞ」
『はやっ!…じゃあ、お邪魔しまーす…って終わってないじゃん!まだ下着のままじゃん?!」
慌てて中に入り、扉を閉める。不意を突かれた先刻よりはマシなので回れ右をすることも無かったが、パンツにスポーツブラ、というナリでは音乃の動悸も止まらないのだった。
(…って、女の子の下着姿でどーして私ドキドキするの…っ?!変態か私わっ!)
…などといった動揺をひた隠しにし、怪訝に思われないように顔を逸らす音乃。
「ん?だから別にネノに見られて困るようなものなどない。…というかな、結構気に入っているので自慢したくはある」
「え、何が?」
「この、ぶらじゃあ、というものだ。いや、似たようなものは故国にもあったが、ここまで女性の乳房を優しく包んでくれるものではなかったからな…って、なんで泣く?」
(言えない…そのスポーツブラは、ブラの仲間とはちょっと違うとか、気の毒で…言えない……っ!)
まあ別にスポーツブラは貧しい者に向けたものとは限らないのだが、どっちにしても男性にアピールする要素には事欠くターナの体つきでは、音乃の嘆きも
「…最近慣れてきたつもりだったが、やっぱりネノは変なヤツだな。ほら、全部着たぞ。これでいいか?」
「え?ああ、うん。っていうか、部屋着?」
下がスパッツ、上が大分くたびれたパーカーという出で立ちは、これから出かけるようには全く見えない。
「今日は休みだ。というか、昼過ぎに急に休みになってな。さっきまで二度寝していたところだ」
「あ、お昼寝気持ちいいもんねー。でも寝過ぎると夜寝られなくなるよ?」
「ここのところ夜忙しくてな。むしろちょうどいい。ああ、座っていろ、今何か用意する」
「お構ってー」
「…なんだって?」
音乃が来る度にいろいろ持ち込むものだから、ここのところターナの部屋は飲料品の類がやたらと多種多様になっていた。
その中から選んだのは…。
「ターナそれ好きだね…ホットカルピス」
「体にいいと聞いたしな。ネノは何味がいい?」
「マンゴー…んー、今日はグレープかな」
「わたしは基本でいこう」
異界から来たと謳う少女の住まう部屋にカルピスが三種類以上あることを、特に不思議にも思わず二人は、和気藹々と異なるカップを持ち、紙に包まれた瓶に手を伸ばすのだった。
「ところでターナって、夜はどんなバイトしてるの?」
…ぴた。
答えづらいことを問われ、カルピスを飲み干したカップをテーブルの上に置く手が止まった。
いや、別に答えづらいこともなく、音乃はとっくにターナの素性を見知っていたから、今さら隠すようなことでもないのだが。
「…以前ネノに叱られたままだな。夜の街で、揉め事が大きくならないように、街の組合…のような人達の手伝いをしている」
「ふぅん。大変?」
「いや、慣れた…というか…」
テーブルを挟んで、頬杖をついて自分を見つめている音乃を、ターナは不思議そうに見返す。
「…叱ったりしないのか?」
「叱る?なんで?」
「いや、なんでって…子供がやることかー、とかどーのこーのと言ってたじゃないか」
「そこまで言ったつもりは無いけど…でも、」
と、頬杖を解き、音乃は体を真っ直ぐに立てた姿勢から、ターナの目をはっきりと見据えて言う。
「ターナの危険について私があれこれ言ったって、説得力ないしね」
「…そういう言い方はないんじゃないのか」
「……ん、そうかも。ごめんね」
「いや、いい。気にするな」
ふっと柔らかく微笑んでターナはおかわりを作るべく、最近買った電気ポットに体を向ける。
考えてみると、音乃に出会ってから自分の生活には彩りが増えた、とターナは思う。
具体的に言えば、今まで食べて動いて寝るだけだった毎日に、それ以外の「余分」が伴うようになった気がする。
例えば、この電気ポットだ。
湯など、使う度に沸かせばいいものだ、と考えていた。
しかしこのポットというものは、どうだ。
欲しい時に、すぐ手元に湯がある。
だからどうした、という程のものではないし、必要になる度に湯を沸かす、ということが無駄だとも言い切れない。
が、何につけ余裕、が生じている。
湯を沸かす、ことに限れば、欲しい時というよりも必要な時にのみ沸かしていた湯が、「あったらいいな」程度のことでも湯を使える。例えば、このホットカルピスのおかわりのように。
「産まれた時から使ってると実感わかないけど、ターナにしてみればそういうものなのかもね」
「…もー少し感心してくれてもいいではないか。折角大発見したというのに」
熱弁を振るってみても音乃の反応は今ひとつだった。というか、そも前提が異なるのだから、ターナの感じた新感覚を共有しろ、と言っても無理な話なわけである。
むしろ音乃に聞きたいことがあるのだとしたら、ターナ自身の話なのだろう。
「あー、じゃあさ。ターナの話を聞かせて欲しいな。あっちの…えーっと、竜の娘の国、だっけ?ターナが電気ポット一つでこんだけ熱くなれるんなら、どれだけ違うのかって思うよ?」
「わたしから見ればそんな話の何が面白いのだ?という気がする…が、まあ聞きたいというのなら話してや………………………………」
それでも楽しそうに話を始めようとしたターナの言葉は、途中で止まる。
待ってました、と身を乗り出した音乃が、様子のおかしいことを訝しみ、その顔をじっと見ると。
ターナが笑顔のまま固まっていた。
音乃はその変化に呆気にとられ、けれど付き合い良く、一応首を傾げたり自分もにっこりとしたり両手をパタパタと振ってみたりそれでも反応が無いと見ると、ターナの顔の前で手をヒラヒラさせて、
「ターナ?起きてるー?どうかした?」
と、最早固着しきって笑顔にすら見えない顔を、どうにか崩そうとしたのだが。
「……………た」
「え?何か言った?」
その甲斐あってか関係無いのか、彫刻然としたターナの口からようやく何某かの音が洩れる。
「……れた…………から、あらわれた…………貴様どこからっ!あらわれたっ!!」
「ええ?!ちょっ、ターナいきなりどうしたの?!」
しかしそれに続く声は、最早咆吼とも呼べそうな叫びだった。
笑顔は一瞬にして怒号とともに憤怒の表情に取って代わり、勢いも激しく屹立したターナは目を吊り上げ金剛力士もかくや、といった眼差しを音乃の背後に向ける。
「え?なに?なにかいるのっ?!」
それに気付いた音乃は慌てて立ち上がり、ターナの視線を避けてその足下に身を投じる。危険があればターナの邪魔をするわけにいかない、という判断なのだったが。
「………貴様だ!」
ターナが剣の切っ先の如く指さすその先にあったものは……。
「……………G?」
音乃は一瞬目を疑った。
これまで見たことがない、いつか音乃を襲った男達にすら見せなかった程の激情をぶつけていたのは……学名ブラテラゲルマニカ。およそ日本一般に嫌悪される昆虫の一種。いわゆる、チャバネゴキブリ、だった。
それが音乃の後ろ、部屋の扉のど真ん中に張り付いており、小癪にも長い髭をヒクヒクと蠢かせている様は、ターナならずともイラッとする光景なのは間違い無い。
「え、なに?もしかしてターナってゴキブリ嫌い?あ、私も確かに得意じゃないけど」
とはいえ、こうもいきり立つ状況でもないだろう。たかがゴキブリ一匹。生理的嫌悪と衛生的な害を除けば、音乃が怯えるほど怒ることでもあるまいに。
「コイツはごきぶり、というのか?!…いいだろう、我が名と竜の娘としての
だが、言うが早いか、ターナはいつか見たように首から下を光で覆い、それが晴れると音乃にも見覚えのある鎧姿に変じていた。
「
そして当然、その手には物騒な得物も握られていた。
「わあっ、ターナ待って待って!たかがチャバネ一匹に大げさだってばっ!」
「問答無用!」
音乃が止める間もなく全力で斬りかかっていくターナ。大人げないにも程があった。
・・・・・
「…ホントにね。誰にも苦手なものってあるわよね。ターナちゃんみたいに可愛い女の子が、ゴキブリを見てきゃーきゃー騒ぐのも、まあ微笑ましいとは言えると思うのよね」
「…ハイ」
「……なんで私まで」
十五分後。何ごとかと思った隣室の住人の通報で駆けつけた大家の初老の女性は、飼い猫を抱いて丁寧に撫でながら、一見怒ってはいないような穏やかな態度で、ターナと音乃を正座させて苦情を申し立てるのだった。
「でもね、お部屋をこうまでするほど暴れ回ったら、他の人たちにも迷惑かかるでしょ?お友だちも困っているんだから、程々にしなさいな」
「…ハイ、スミマセンでした」
「……でした」
深々と土下座するターナ。つられて一緒に頭を下げる音乃。
除装もまだしておらず、鎧姿のまま大家の足下で平たくなっている姿はなんともシュールの一言だった。
「はあ…修理は明日呼びますから、部屋にはいてちょうだいな。今日はなんとか扉だけでも立てておいてお休みなさい」
「…ハイ、本当にご迷惑おかけしマス……」
一度上げた面をもう一度深々下げているターナを見下ろすと、大家はかろうじて本来の機能を果たしていた扉を、
ガシャン!!
…と破壊音一歩手前の音をたてて閉め、足音も荒く去って行った。
その剣幕に怯えて抱き合っていたターナと音乃だったが、絶妙のバランスを保っていた扉が内側に倒れてきたのを見て慌てて支えに駆け寄る。
隙間から見えた、通報した本人である外国人ホステスが、大家の去った廊下を見てから、抗議の視線をこちらに向けていた。
「……済まない」
気まずくそう答え、ターナはどうにか扉を枠にはめると、もういい?と扉を支えていた音乃に疲れた顔で「ああ」と答え、しょぼくれた足取りで部屋の中に戻る途中、例の光を一瞬帯びて鎧を収めた。
その後に続く音乃は、部屋の中を見渡してため息をつく。
「…それにしてもー、この有様どーするの?」
トドメは大家だったとはいえ、最初に襲いかかった扉は傷だらけ、逃げ回るチャバネを追いまくった結果、さして豊富ともいえない部屋の調度品はめちゃくちゃ、隠れた標的を探しまくったせいで部屋の開け閉め可能な場所は言うに及ばず、本来空いたらいけない箇所まで切り裂かれたように、というかターナが切り裂いてしまって、爆撃でもあったのかという状態なのだった。
「どーもこーもない。というか今晩はこの部屋で寝たくない。ヤツが潜んでいるかと思うと…」
ターナは皆まで言わず、ただその身をぶるっと震わせて自分の腕で掻き抱くのだった。
こーまでやっておきながら標的を仕留め損なったことにターナは悔しさから唇をかみしめているが、音乃はこれ以上巻き込むなとばかりに、なんとか原型を留めていた自分の荷物をさっさと拾い上げる。
「ネ、ネノ…わたしを見捨てて帰るのかっ?!」
それに気がつくとすがりつかんばかりに、というか実際に立ち上がった音乃の腰に抱きついて半泣きになるターナ。
「いや見捨てるも何も、そろそろ帰らないといけな時間だし」
「この薄情者っ?!」
自業自得でしょーが、と冷たい目で見下ろす音乃。
そんな視線に曝されてもぶんぶん首を振って取りすがるターナ。
振り切る気にもなれず、されるがままになっていた音乃だったが、やがて大きくため息をつくと荷物を下ろして腕まくりをして言う。
「…仕方ないなあ。泊まってってあげるから、ちょっと部屋片付けよ?」
「ネノ…愛してるっ!」
そんなことで愛を告白されても、とぼやきながらもなんとなく嬉しそうな音乃だった。結局、ターナに頼られることは嫌でもなかったらしい。
「ほら、離して。ゴミ袋用意してさ、壊れちゃったもの入れて。あ、ちゃんと分別するのよ」
「あ、ああ…」
のろのろとではあったが、散らかったものを拾い始めるターナの背中を見て、音乃は暖かい笑みをその顔に浮かべるのだった。
しばらくは黙って片付けを続ける。
畳の見える面積が見えない面積を超えた辺りで、音乃はターナに声をかけた。
「ターナってさ、ゴキブリが嫌いなのは分かったけど何か怖い目にでもあったの?」
「いや、あんな物質を見たのは初めてだ」
物質て。一応仮にも生物に向かってする言い草だろーか、と思ったが、フラットな口調がなんとなく可哀想になって話を続ける。
「その割には親の敵を見るみたいな表情だったけど」
「…知るか。ひと目見ただけで身体の奥底から悪寒が走って、これは人の世から殲滅させねばならない悪しき存在だ、と思っただけだ」
「そこまで言う程かなあ…まあアレが好きな人って確かに私も会ったことないけど。それともターナの故郷にもゴキブリっているのかな」
「怖いことを言うなっ?!あんなものが我が故国にあったなら…わたしは、わたしは……」
片付けの手を止めてガタガタ震え出すターナ。
「…ほら、大丈夫だって。今晩は私がついていてあげるからさ」
「ネノ…本当に恩に着る…お前はわたしの最高の親友だっ!」
それはターナにとっては最大級の感謝の表現だったのかもしれないが、音乃としては複雑な心境でしかいられない。それはそうだろう。ゴキブリのいるかもしれない部屋に一人でいたくない、という理由で親友呼ばわりされたり愛を囁かれたりしても。
でもまあ、いっか。
そんなターナの賛辞を正面から受けて、それでも音乃は小さく微笑んで片付けを再開した。
…結局片付けは深夜にまで及び、それでも終わることはなかったが、ターナが舟をこぎだしたので今日のところは止めにすることになった。
着替える最中も物音にいちいちビクビクしてたターナだったが、一人で寝たくないとか言い出して音乃と一緒にベッドに横になるころには流石に落ち着きを取り戻し、「今日は済まなかった」と心の底から申し訳なさそうに言えるくらいにはなっていた。
「いーよ別に。ターナのかわいいとこいっぱい見られたしね」
「…そういうことを言うなバカ。誰にだって怖いものくらいある」
「そうだね。私を助けてくれた格好いいターナと同じ女の子だと思えないくらい」
「……うるさい、バカ。もう寝るぞ」
ふて腐れて音乃に背を向ける。毛布を巻き込んでいったので、音乃の身体もはみ出てしまった。
奪われた分を取り戻そうと音乃も毛布を引っ張ると、ターナごと引きずってしまい、二人は背中をぴったりくっつけた状態になる。
「…あったかいな」
「……うん」
電気を消すのがイヤだとターナが言ったので、部屋は明るいままだ。
音乃は暗くないと寝付きが悪いのだが、ターナが怖がるのならと今日のところは好きにさせている。
それでも眠気が身を浸すのは感じる。目蓋を閉じればすぐに寝入ってしまいそうだ。
そう思っていたら、
「…ネノ、ありがとう……」
と、今日何度目かの感謝の言葉が、寝言じみたぼんやりとした口調とともに背中の向こうから聞こえてくる。
「…ん。おやすみ……」
それはターナに届いたか、届かなかったか。
別にどっちでもいいか、と音乃は思い、今度来る時にはホイホイじみた何かをお土産にしよう、と少し背中の体温が上がったように感じながら、心地よい眠りに身を浸していった。
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