第10話

 「…ネノ、いい加減機嫌を直してくれないか?」


 屋根に大穴空いたワゴン車が一台と、顔中血まみれの男二人にプラス一人、放逐して後はターナの部屋に置きっぱなしだった荷物を取りに戻るだけだった。

 …のだが、道中音乃が一切口をきいてくれないことに、ターナは困惑していた。

 いや、原因が分かっていると言えば分かっているのだが、どうもそれを自分から口にするのを躊躇われる空気を、音乃の背中が思いっきり醸し出していたのだろう。


 「………」


 だから黙ったまま、意外に近かったターナの部屋に続く道を歩く音乃の後を、何度目かのため息をついて、ターナはついていくのだった。



 それにしても。

 今日一日で結構な目に遭い、この世界の常識にも適わない出来事を多く目にした割にはえらくあっさりとしたものだ。

 …いや、とターナは思う。

 怖い思いはしただろうし、泣き顔も見てしまった。

 その抱いた恐怖の一部を自分が担ったことも否定出来ず、音乃にしてみれば自分だってあの連中と大差無いと思われても仕方が無いのかもしれない。


 (それは…嫌だ)


 そう思うと、焦りに似たものが湧き起こるのを抑えられない。


 「な、なあ…音乃。その、わたしがやり過ぎてしまったのは分かるのだが…あれは……わ、悪かった。わたしがお前を怖がらせてしまったのだとは思うけれど、仕方なかったことだと…………あの、ネノ?」


 いつの間にか、音乃は立ち止まっていた。

 それに気がつかなかったのはターナの迂闊うかつというよりも、ただうつむいて音乃の背中を見ていられなくなったからだ。

 だから距離を縮めて、自分よりも背の高い音乃の後ろ姿が余計に大きく見えて…いや、自分が小さくなったような錯覚を覚えたのは、怯えにも似た後ろめたさがそうさせていたのだろう。

 時間にして、もう日付が変わる頃合いである。

 いかに都内といっても歓楽街から遠く離れた住宅地の中とあっては、出歩く人の姿もそうそう見かけたりはしない。

 そんな静けさの中、コトの起きた公園を出てからずっと、ターナに顔を見せなかった音乃は、振り向いて愁眉をたたえた表情をようやく、見せる。


 「…ネノ……」


 それを見つめる自分はどんな顔をしているのか。

 この国にやってきてから一度も抱えたことのない気持ちをひた隠しにして、その言葉を待つ。


 「ターナ。言ってなかったんだけど…ありがとう」

 「え…?」


 そして告げられたものはターナの、明かせない怯懦きょうだを溶解する。


 「すぐ言わなきゃいけないことだったんだよ。でも私も混乱して言えてなかった。ありがとう。あなたがいてくれたから、私は今日、ちゃんと家に帰れる。えーっと…びー、びりやー………その、確か…びりやるど、たーなりーす、あみーりえてしあ…さん。本当に、ありがとうございました」


 ぽかん。


 完璧ではないけれど、この国の言葉では正しく発音するのも容易ではないだろうターナの本名を、つっかえながらも最後まで自分の口から呼び、深々と頭を垂れる音乃の姿を、ターナは呆気にとられて見つめていた。

 一言も無いターナの様子を妙に思ったか、しばらくそのままの姿勢でいた音乃は小首を傾げながら頭を上げると、


 「ターナ?どうかした?」


 と、心配そうに手をターナの肩にかける。


 「あ…や、その、だな…そんな、礼を言われるとは思っていなかった…」

 「え、どうして?私はターナに助けてもらったんだから、どんな関係だってお礼はちゃんと言わないといけないと思うんだけど」

 「……怖がらせてしまったのかと思っていた」


 自分の左肩に添えられた音乃の手に、ターナは自分の右手を重ねてそう嘆息する。


 「うん、怖かったね。でもターナが悪いようにしない、って言ってくれたから、もう怖がる必要は無いんでしょ?」

 「いやそうじゃなく…お前がわたしのことを怖がっていると思ったんだ」


 音乃の、存外柔らかい手の甲を撫でながらターナは、安堵の息とともに呟いた。

 それがどんな理由によるものかは分からなかったけれど、とにかく音乃に厭われることの無いことを知って、心を安むのだった。


 「ターナのことを私が怖がる?ないない。だってターナって面白いもん」


 その言われ様には少し納得いかないものがあったが。


 「面白い…もう少しマシな言い方はないのか。頼もしい、とか格好いい、とか」

 「それを踏まえた上で、なんかターナって面白い、って思うよ?とっても興味深い。私にとってはね」

 「そういうものか…?」


 なんだか上手くはぐらかされたような気はする。

 が、悪い気分ではないのも事実だ。


 「うん。私はそう思うよ。それで、ね…」

 「あ…」


 ニコリと人好きのする笑顔を浮かべ、音乃はターナの肩から滑るように手を下ろし、自分の腰の後ろで両手を組む。

 重ねていた自分の右手から失われた感触を惜しんで、残念に思うターナ。

 そんな顔を、けれど音乃は上目遣いで、睨んだ。

 その豹変にギョッとしたターナは、何か物騒な気配を覚えて思わず身構えてしまう。


 「…それはそれとして、私は怒っています」

 「怒る?何故だ?」

 「何故って、それはー…」


 後ろ手に組んだ手を解き、右手を拳にして口元に当てた音乃は、暗がりではっきりとは分からないがそれでも顔を赤らめたように見える。

 それから、ずっとターナの目と合わせていた視線を逸らし、コホンと咳払い。

 何を言い出すのか、と警戒する中、ターナの耳に響いたのは。


 「………何であの時私にキスなんかしたわけぇっ?!」


 …という、今さらではあったが至極もっともな疑問だった。



   ・・・・・



 「さて、これでゆっくりお話が出来るとゆーものです」


 路上でする話でもあるまい、とターナが自室に音乃を招き入れてからのことだった。

 時間も遅く、音乃の「泊めて」の一言はやけに迫力があったから、いいのかな、と思いながらもターナは承諾し、下着こそ無いが寝間着はターナのものを借用することで、仕度は調った。

 ちなみに風呂も無い部屋のことであり、いつもなら近所にある深夜までやっている銭湯にターナは通っているが、流石に今日それをやる気には二人ともならず、音乃はぶちぶち言いながらターナの用意した蒸しタオルで身体を拭くだけに止めた。


 そして、寝床。

 当たり前のことだが一人分しかない。

 一緒に寝るか?と比較的マジメな顔でターナが訊いたところ、音乃は何故か激しく首を振って拒否したため、ターナは毛布一枚で畳の上にごろ寝することに。

 押しかけておいて部屋の主にそんな真似をさせるのもどうかと思った音乃が、自分が畳の上でいい、と申し出るもターナの「…お前のゲロのニオイがまだ落ちてないからお前がそこで寝ろ」という身も蓋もない一言で、ベッドの上を占領することになったからだった。

 もっとも、ターナが外の自販機に向かった時に確かめたら洗いたてで日向の匂いすらしたのだから、まあそこは気を遣ったということなのだろう。


 「…面倒だから後日にしないか?」


 そしてあとは寝るだけ、という段階になって改まった様子の音乃の一言に、ターナは抵抗する。

 いや、ターナも説明の要は認めているのだが、久しぶりに本来の姿に戻っていろいろ能力も使い、疲れている。

 逆に音乃は、神経がたかぶっているのか、こちらも疲れはあるだろうにそんな素振りは無く、それは明日以降の反動がコワイぞ、とターナが脅しても言うことを聞く様子が無い。


 「それ以外にもいろいろ聞かないといけないこと多いし。説明してもらうよ」

 「…まあ、いいけどな。で、何を聞きたい」

 「何って…その、なんであんなことしたのかなー…とか……」

 「接吻のことか」

 「接吻いうな。もーちょっとこう、ろまんちっくというか…」

 「ああ、お前がそれを一番気にしているのは分かった。それを軸に話をしてやるから、まず最初から聞け」


 ベッドの上で膝を抱えている音乃を前に、ターナは無糖の紅茶のペットボトルを一口あおる。


 「…まず、竜の娘の話をしたな。以前。覚えているか?」


 もちろん、と頷く音乃。というか忘れられるわけもないだろう。


 「人智を越える力、というのが竜の娘たちには備わっている。例えばわたしが纏っていた鎧や、剣のことだ」

 「…なんか変身したみたいだったよね。どうやって出したの?」

 「どうやって、と言われてもな…ただ、出来るからやっている、としか言い様が無い。鳥に『どうやって飛ぶ?』と聞いて具体的な説明が得られると思うか?」

 「そもそも鳥は話が出来ないけどね」

 「茶化すなバカ。とにかく生まれた時から出来るんだ。説明しろと言われたところで無理な話だ」

 「…うーん」


 こうやっていちいち揚げ足とられていたら朝までかかりそうだ、と暗澹たる気持ちになるターナ。


 「いいからしばらく黙って聞いててくれ。質問があるなら後でまとめて聞く」


 少し強めに、念を押すように告げると、不承不承…というか、口元をもにょもにょさせながら頷いた。

 『質問じゃなくて話をしてたいだけなんだけどな…』と口の中で言ったのが聞こえたはずもなく、これで落ち着いて話せる、と半目になりかけの顔を軽く叩いて、ターナは話し始めた。


 「…最初にしておいて何だが、実際のところこの力は『竜の娘』にとってはそれほど重要じゃあない。確かに異世界統合の意思と対峙するのに必要な力ではあったが、単に人並み外れた戦う力、というならこれだけではなく…ああ、そうだ。新宿からここまでお前を抱えて跳んできたのも、そういう力の一つだ」


 ふぅん、と納得はしたが感心はしてない声色の音乃。

 満を持して披露した手品が不発だった時のような、妙にがっかりした気分にならないでもないターナだったが、変な合いの手を入れられるよりは、と話を続ける。


 「むしろ、だな。ええと…お前にも分かるように言うと…他人のものの見え方を、変えてしまう力…じゃないな。こういうのは姉の方が詳しかったんだが……ああ、そうそう、『認識を換える力』と言っていた。こっちの方が重要だ。特にわたしの四女家は単純な戦闘能力で劣る分、こちらの力の方に秀でていたからな」

 「にんしきをかえるちから…どゆこと?」

 「例えて言えば、だな…」


 と、ターナは手に持ったペットボトルをまた一口ふくんで唇を湿らせると、キャップを閉めてひっくり返す。

 それから、底の方を音乃に向けて聞いた。


 「これは、何の形に見える?」

 「ペットボトル」

 「…それはそうだが……」

 「まる」


 ターナが渋い顔になるのを見て、即座に言い換える。


 「おい。分かってるなら先にそう言え」

 「ちょっとしたお茶目じゃない」


 お前は一晩中わたしを眠らせない気か、と音乃にボトルを投げると、音乃も両手でそれを受け取る。


 「…もらっていい?」

 「好きにしろ。まったく」


 早速キャップを開け、口にしようとしていた。

 さっき聞いた時は要らない、と言ったくせに。

 口を尖らせて文句を言うターナをよそに、音乃は口の開いたペットボトルをじっと見ていた。


 「飲まないのか?」

 「えぁっ?!………あー、うん、今はいいかな」

 「何だそれは。話を続けるぞ」

 「ん」


 挙動不審の音乃を放っておき、ターナは話を始める。


 「今お前に見せた形は丸だった。お前もそう言った。だからそれは間違い無い。けれどな、わたしが今見せたものを見て、お前が『四角だ』と言ったらどうなる?」

 「どうって…そんなわけないでしょ。丸いものを見て私は丸だと思ったから、丸、って言ったんだし」

 「そうだな。けれどな、お前が丸を見て四角だと思ったとしたら、どうだ?」

 「思ったまま言うんなら、四角って言うでしょ」

 「…実際にやってみようか。ネノ、もう一回それをよこせ」

 「あ…うん。はい」


 自分で開けたキャップをもう一度戻し、ターナに手渡す。

 それを受け取ったターナは、先程と同じように底を見せて、やはり同じように聞く。


 「これは、何の形に見える?」 

 「四角。………あれ?」

 自分が口にした単語の意味を思い返して、音乃は首を捻った。

 「それでいい。わたしは今、お前にこれは四角に見える、と認識をさせた。これが認識を換える、という意味だ」

 「え、あれ?…ちょっと、どーいう理屈?種明かしは?」

 「種明かしも何も無い。竜の娘の持つ、異能の一つだ。簡単にやってみせたが、もっと複雑なことも出来る。あの連中に、わたしやネノがどういう人間なのか見方を変えさせることだってな」

 「…あの、私今何をされたか分からなかったんだけど…」

 「何かされたかも、と思われたら意味が無いだろう。そういうものだ」

 「……洗脳とか、そういうもの?」


 軽く眉をひそめながらそう聞く音乃を、ターナは少し気まずそうに見返して答える。


 「いや、対象に認識出来ない形には認識させることは出来ない。例えば犬を見たネノに、ヴーレリャンテを見たと思わせることは不可能だ」

 「ぶ、ぶーれ…なに?」

 「わたしの故地に生息する、犬に似た生物だ。もっとも大きさも全然違うしもっと獰猛だがな」

 「そんなの私が見たことないもん。無理でしょ」

 「そういうことだ。納得したか?」


 うーん。

 音乃は自分の膝の間に顔を埋めて唸ってしまう。体験としては理解したが、理屈としては納得出来ない。そんなところか。


 「まあ難しく考えなくてもいいさ。単純に使えば、相手が話している言葉を学んでいなくても話したいことやこちらの意図を正しく伝え合える。そんな真似も可能、といわけだ」

 「…あ、それでターナって、外国の人を相手に……」

 「そういうことだ」


 そう言ってターナは、音乃を救い出した後に初めて、心の底から笑った。


 しばしの沈黙。

 これでゆっくり寝られそうだ、とターナがほっとしていると、だが意を決したように音乃が顔を上げて聞いてきた。


 「でもそーいうことが出来る、っていうのは分かったけど、あの時私に…その……」

 「キスしたのは何故、か?」

 「っ!…い、言いづらいって分かってるんだからそんな直接的に言わないでよっ!」


 枕を振り上げ顔を赤くしながら抗議する音乃。


 「いや別にそんなに怒るようなことか?ネノは確か十八だろう?接吻の一つや二つ、とっくに経験してると思ったのだが」

 「ええっ?!…って、そりゃー…まあ……。…当然、でしょ…?」

 「なら別に構うまい。こっちの世界の常識に照らして褒められた真似じゃないのは分かるが、そもそもわたしの故地では親しさを示すのに唇を重ねるような習慣が無いのだ。…まあ一部、毒されてた連中の間ではそんな話が出てた気もするが」

 「え。じゃ、じゃあターナも……初めてだった…?」

 「そうだが?まあ、思ったより悪くない体験ではあったがな。他人の唇があんなに柔らかいものだとは思わなかった」

 「はぅ…」


 事も無げにそう言うターナを前に、つい音乃は自分の唇を撫でてしまう。そんなに良かったのかな、と口にしてしまいそうになったのは、なんとか我慢した。


 「……ところでネノ。お前今、ターナ『も』、とか言わなかったか?」

 「ええっ?!…言ってない。言ってナイよ?うん」

 「そうか。わたしの気のせいか」


 こいつはー…絶対分かって言ってやがるな。

 半目でターナを睨む。涼しい顔で受け流すのが癪に障ったが、これ以上突っ込んでも文字通り藪を睨んでやぶ蛇にしかなるまい。

 そう思って、聞きたかった話に戻る。


 「…で、なんで私に…そのー、したか、ってことなんだけど」


 まだ羞恥心の晴れない音乃は、若干もごもごと話す。

 それを受けてターナは、少し真面目な顔に改まり、話し始めた。


 「…認識を換える力、と言ったがな。実のところそんな万能な能力というわけではない。具体的には、自分に集まる認識を、しか換えられないんだ。さっきのことに当てはめれば、奴らのわたしに対する認識は如何様にも換えられるのだが、ネノに対する認識を換えるのは…不可能ではないが、簡単でもない。出来たとしても何かのきっかけで元の認識を取り戻しかねないんだ」

 「それじゃ世界征服するー、とかも難しそうだね」

 「そんなことやってわたしに何の得がある。…だからな、可能な限り、ネノがわたしと同一の、それが無理でも極めて近しい存在であると見せながら力を使わなければならなかったんだ。手っ取り早いのが、お前と口づけをしてみせることだった、というわけだ。実際あいつら呆然としていただろう?」


 そんなのまで覚えてない、と嘯いて音乃はそっぽを向いた。不愉快な顔を思い出したくない、ととったターナは、「済まない」と真摯に頭を下げて続ける。


 「だからお前には悪いことをしたと思う。だが、そういう理由があったということだけは、なんとか理解して欲しい」

 「………………わかった」


 なんとも重苦しい沈黙を経て、音乃はようやくそう言った。

 正直なところ、理由があってのこと、という説明は受け入れられる。

 が、それでも自分の内にあるもやっとしたものの正体を掴みかねて、笑顔で応じることは出来なかった。

 流石にもう限界を迎えたのか、ターナは音乃に遠慮もせず大あくびをかいている。

 違う世界の女の子でも欠伸とかするんだな、と変なことに感心しているうちに、それがうつったのか音乃もかみ殺しきれないくらいの欠伸がこみ上げてきた。


 「…もう寝るぞ。限界だ」

 「ん、そうだね…」


 毛布を抱くようにして丸くなるターナを見下ろしながら、音乃もベッドに横になる。

 干したばかりと思われる匂いは、それほどでもないと思っていた眠気を心地よく誘う。

 目を閉じたら三十秒保たないんじゃないか、と思っていたら、下の方から今にもオチそうなターナの声がした。


 「…ネノぉ……でんき、けしてぇ……」


 それは眠りに入りかけた無警戒さからか、それともそれが彼女の素の姿なのか。

 どちらと判別するくらいの判断力さえ欠けた頭で、それでもターナの願いだからと大仰に捉えて、音乃は電灯を消した記憶も定まらない眠りに落ちていった。



   ・・・・・



 「んぐ…何時、だ…?というかどうして床の上で………ああ、そうか…」


 朝だというのに薄暗いのが、この部屋の欠点だ。何せ起きて今何時頃なのか、あるいは外の天気がどうなのか、すぐに分からないのが困る。

 部屋に時計など置いていなかったから、寝起きの目を擦って探し出した自分のスマホで時間を確認する。


 「九時…か…結構寝たのだな……ネノ、起きて……ん?」


 起き上がってベッドを見ると、昨夜そこで寝ていたはずの音乃の姿はもう無かった。

 代わりに、寝間着代わりに貸した自分のシャツとショートパンツが綺麗に畳まれた薄手の掛け布団の上に置いてあり、更にその上には手書きでしたためた置き手紙があった。


 ~~~


 おはよう ターナ

 先に起きたら 気持ちよさそうに寝ていたから

 ジョギングでもしながら帰るね

 朝ご飯つくっておこうと思ったけど

 冷蔵庫になにもないから あきらめた

 もう少し 体のことも考えた方がいいよ


 また連絡する


 音乃


 ~~~


 多分自分で持ち歩いているメモ帳か何かの切れっ端にシャープペンシルで書かれた文字は、ターナでも上手いと思えるくらいの綺麗な字で、その内容も、親しい間柄に向けたものだとしても心遣いの細かさが伺えるものだった。


 「……なんだ、あいつはわたしの母親か。まったく」


 それを二度読んで、ターナはそう文句を言う。

 そうは言っても実際のところ、自身の母親とこんなやりとりをした覚えは全く無かったから、これはターナの憧憬にある母親像と比べての話だった。

 その証拠に、文句めいた口振りでありながら、誰も見ていないのをいいことに遠慮なくニヤニヤとして、そのくせ自分の頬が締まりなくほころんでいるのに気がつくとそれをピシャッと叩いてみたりもする。


 それでいて、悪い気は全くしていない。


 「さて、まだ早いが…」


 読み終えた紙片を、持って立ち上がる。

 こういったものを取っておくようなスペースはこの部屋に無く、部屋を見回してひとまずは見失ったりしないだろう、小振りなこたつ台の上に置いた。これも世話好きな大家からもらった古いものだったが、冬は役に立つからと半ば押しつけらたものながら、食事の時には重宝している。


 「…腹もすいたことだしな」


 誰にともなく呟くように言い、部屋の隅にある冷蔵庫に足を運ぶ。

 確かに音乃の指摘した通り、冷蔵庫にはすぐに調理出来るようなものは乏しい。そんなことは分かっているけれども、一応開けて確認する。


 「仕方ない。腹ごしらえついでに…」


 身体のサイズより大きい、いつものシャツを脱ぐ。ショーツ一枚の姿は、言動に似合わずしなやかながらも少女らしい丸みを帯びた綺麗なものだ。

 ふと思い、自分の胸元を確認する。

 何故か記憶に焼き付いている、音乃の下着姿と比較してしまった。


 「…何を考えてんだ、わたしは」


 脱いだシャツを丸めてベッドの上に投げると、昨夜音乃が着ていたものの隣に落ちた。

 そんな状況には目もくれず、下着姿のまま歯を磨き顔を洗い、身支度を調える。

 ここ数日、革ジャン姿では少し汗ばむようにもなっている。それでも少し考えてから、肩にズシッとくるそれをやっぱり羽織い、部屋を出た。




 「…良いな」


 天気が、である。

 昨日の昼間は歩いていると汗ばむほどだったが、今日は夜明け頃からずっと、涼やかな空気のままなのだろう。

 ターナは人通りのまばらな住宅街を歩く。

 家々の間から覗く空は濃い青色を帯び、電線の横断する光景さえ目に眩しい。


 ターナは、この街の空が好きだった。

 人の話す言葉も見える景色も全く違ったが、この空の色だけは故地と変わりがない。

 見知った色がまだ自分を見下ろしている、という事実は、自身認めがたいところではあるが、心を穏やかにするものがあるのだろう。


 「ター坊、今日は早い出勤だなあ」


 馴染みの、といっても頻繁に買い物をするわけでもないが、しょっちゅう通りがかるので互いに顔を見知ってしまった弁当屋の主人が声をかけてきた。

 開店準備中のようで、店の前の掃き掃除をしている彼に、


 「ター坊はよしてくれ、と言ってるじゃないか。わたしはこれでも娘なのだぞ」

 「そんなツッパったナリで何を言ってんだ、お前さんは」


 と言われてしまうが、つっぱった、という表現の意味が分からず、つい主人の認識に直接触れて確認してしまった。


 「…これは仕事着だ。好きで着ているわけじゃない………こともないのか」


 意味が分かって顔をしかめてそう言うターナを、主人は呵々と笑って見送る。

 これはしばらくこのネタでからかわれそうだ、と肩を落として去るターナ。

 そうしていたら、ポケットの中のスマホが振動して着信を知らせる。

 手持ち無沙汰でもあったので、さっさと取り出して見ると、音乃からのメールだった。

 無事に自分の部屋に着いてこれから学校に向かうことと、昨日の礼が改めて述べられていた。


 「ふふ、律儀なことだな」


 別に急ぐ内容でもないと、読むだけ読んでスマホを仕舞うと、置き手紙に「また」と書かれてあったことを思いだした。


 「そういえばアイツ、この辺でする食事は随分珍しがっていたな」


 田舎から出てきたばかり、的なことを確か言っていた。なら、自分でももてなしになるようなことは出来るだろう、と思う。


 「…新しい店でも探しておいてやるか」


 平日の昼は割と時間がある。ターナはそう独りごちて、いつもの街の中に銀髪の尻尾をなびかせて、分け入っていった。

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