第8話
「くっ!!」
考えている暇は無かった。
ターナは手に持った音乃の荷物を部屋の中に放り投げると、走り去った車を追うために駆け出す…勢いで、古びた柵を乗り越える。
そして着地する時にはその身は粒子状の光に包まれ、しかしそれも一瞬のこと。凝縮した光の粒が晴れると、そこには一見して金属のようにも陶器のようにも思われる素材の鎧に纏われた姿が、現出していた。
「へ?」
居合わせたアパートの住人が目を丸くするのも構わず、ターナは隣家の屋根に向かって飛び上がる。一足でそれを成した体躯の力は、到底人の身でなし得るものではない。
目撃者が目を疑うようにこちらを見上げていた。
「済まない、忘れてくれ」
聞こえるとは思えないが、口の中でそう呟くと、ターナはこちらに向けられていた彼の認識を捉え、目に見えない
何かが割れるような音がしたが、気にしている場合ではない。
そして中空に跳び上がると、首を巡らして走り去った車の姿を探す。
「…くそっ、随分と逃げ足の速い……ネノ、無事でいろよ!」
さして高く跳び上がったわけでもないから滞空時間も短く、すぐに地面が迫る。
近くに人は…いた。
「丁度良い!おい、そこの!」
重力に逆らうような真似も出来ず、跳び上がった時の勢いそのままに着地すると、ターナは突如空から降りてきた鎧姿の自分に驚く若い女に声をかけた。
「今ここを白い…ええと、箱形の大きな車が通らなかったか?!事故でも起こしそうな凄い勢いだった!……ああ、分かった。感謝する!」
彼女は突然の出来事に唖然とした様子で、一方的にまくし立てるターナの剣幕に目を丸くしていたが、一人で合点するターナと目が合うと、急に興味を無くしたような顔になり、一度首を捻ってからではあったが何事も無かったように帰宅の歩を再開しただけだった。
「…あっちか……いた!」
女性の姿を後にして再び跳び上がったターナは目的の車をみつける。
都内の街中で逃げる車、といっても歩行者や信号、他の車を無視して暴走するわけにもいかないが、それでも人の足で追いかけるのは無理な程度のスピードでそれは走っていた。
ずっと空から追えば見失うこともなかろうが、ターナとて飛びっぱなしというわけにもいかない。
人の姿の無い場所を選びながら、何度か着地と飛翔を繰り返すうちに見失いかけもするし、空にいるうちに目撃されることもある。
当世、何か異変があれば即座にカメラを構える人々が多いことは承知しているし、万が一そんなものに映像として自分の姿を残されてしまえば、無かったことにも出来ない。
結局、直接人の目に触れることは避け得ないからその度に目撃者の「認識を換え」ながらの追尾は思うままに任せず、追いすがりながらも車内にいるだろう音乃の無事を確認することも叶わず、次第に苛立ちが募る。
(何でわたしがこんな面倒なことを…ネノ、助け出したらとっちめてやるからな…っ!)
止めてしまおうかと思わないでもなかった。
よく考えればそこまでする義理もない。気まぐれで助けたら愛用の着衣をダメにされ、それで終わりかと思ったら変に懐かれた。
妙なヤツだとは思うし好意を抱いているのか、と自問しても「そんなわけあるか」としか思えない。
掠われたことは彼女にとって
それがどうしてこうも必死になってしまうのか。
(…ああ、分かってる。あのバカが気になる以上に…わたしがこういう真似を放っておけないからだろうっ!)
結局そういうことなのだろう。
自分で自分に呆れる。
故国にいた間、自分は身を取り巻く物事に
我が事の結末を異界に放逐してそれで良しとした先祖の所業。その末裔を都合良く祀り上げて体よく利用しようとした故国の人々。そのことを重く見ず、追いやった仇敵から何某かの意図があってか、送られてきたモノをそのままに置く同族たち。
これでいいわけがあるか、と憤慨していたのは自分一人で、おそらく全ての事情を
そんなことが続くうちに、ターナは「竜の娘」という自分の身に、
もうどうでもいいと全てに背を向け、姉も幾らかは気遣わしげな様子を見せたが、結局それもターナの慨嘆と無気力を改める力にはならなかった。
異界の門の向こう側に興味を持ったのは、必然だったと言える。
十五といえば、故地でも半人前扱いされる年齢だ。
竜の娘の四家系のうちでも、最も力の弱い四女の家系であるターナの扱いは、同族の間ではともかく彼女らを祀り上げる人々にとっては軽いものであり、それ故ターナが異界の門を越える意志を匂わせたとしても、大きく扱う人も居なかった。
だから、なんだというのだ。
顧みられることのない身を疎ましくは思わなかった。これ幸いと、誰にも告げずに、門をくぐった。
力乏しきが故に持たされていた、四女家の知識は役に立ったと言えよう。
門の先にあった世界はやはりターナを知らなかったが、ターナは竜の娘としての力を最大限利用して、この世界に意地で居座った。
顔見知りは増えたし、異国の人間にも頓着しない環境を見つけられたから、こうしてやってこられた。
それでも、何か乾いた感覚が自分の中のどこかにあったことは否定出来ない。
音乃がそれを癒す存在だった、とは思えない。ただ、自分がそうしたいと思っただけだった。
(笑えよ、ネノ。わたしはこうして…お人好しな真似をしている!)
自嘲、ではないだろう。
己が所業をおかしいと思いながらも、ターナは胸中に誇りを取り戻しつつあることを、自覚せずにはおれなかった。
それを胸張って自慢出来るだろう人は今、自分から離れつつある。
音乃を救う、そのことの意味をそう定めてターナは、彼女が乗せられているだろう車との距離を縮めるだめに、一際大きくアスファルトを蹴った。
拉致、という物騒な単語が思い浮かぶ中、音乃は自分を
「そう騒ぐなって。別に悪いようにはしねぇからよ」
無理矢理に車に押し込まれてそんな言葉を信用する気になるわけがない。
だが、それで音乃は思い出した。金曜の夜、音乃酔い潰してどうにかしようとした男だった。
「こないだは変な邪魔が入ったからよ。今日もどうなるか分からなかったけど、まああのガキの前で音乃ちゃん連れ出せたんなら、あン時の礼も出来たってもんだぁな」
ヘラヘラとせせら笑うように、目を剝く音乃に顔を寄せる。
「…なんでこんな真似するの」
怯えて声が震えなかったのは気丈のため、というより我が身にふりかかった事態にも、どこか現実感に乏しい感慨しか抱かなかったからだった。
「なんで、って。おいおい、男にここまでさせといてそりゃねーだろ。音乃ちゃんが欲しいからさ」
「おい、タクぅ。俺らにもおこぼれくれるって話だろ?独り占めはよくねーぞ?」
見ると運転席の他に助手席にも一人いる。
後ろ頭しか見えない運転手の様子は分からないが、後部座席を振り返る助手席の男はこれもまたニヤニヤと下卑た笑いを音乃に向けていた。
こいつら、私を…。
そう思って始めて音乃はゾッとした。
「…そう言うなって。タクが生まれて初めて純愛貫こうとしてんだからさあ、オレらはダチの純情見守ってやろーじゃん」
口を開いた運転手の男の口振りにはたしなめる気配が無いでもなかったが、こんな真似をした時点で音乃の味方であろうはずがない。
「なんだよカズ、えらい物わかりいいじゃん。けどオレはタダ働きはイヤだかんな。おめーだってそうだろ?だからよ、きっちり愉しませてもらうぜ、タク?」
「あーもう、分かったよ。一回だけだぜ?」
「おーけーおーけー。んじゃあさ、ネノちゃん?タクをしっかり
それがどういう意味なのか、流石に音乃でも分かる。
どうにかして助けを呼べないか、ポケットに入ったスマホを探ろうとして、隣に座る男が一瞬たりとも音乃の身体から好色な視線を外さないことに気付き、一先ずそれは諦めた。
なんとかして逃げ出す機会を見つけないと、いけない。
冷静に戻った音乃が、何処に向かっているのかだけでも把握しようとチラチラ車の外を見ている間、隣の席の男はしきりに音乃に声をかけて、あるいは本気で音乃の歓心を買おうとしているのかもしれなかった。だが助手席の男が煽るかのようにゲラゲラと笑うため、少しばかりウンザリもしているようだ。
「…そう無視しなくてもいいじゃんかよ。なあ、分かってくれよ?オレさ、女の子にここまで本気になったの始めてなんだぜ?」
「そういう割にこれで三回目だっけ?こうやってオレらに車出させるのはよ。ま、おいしい目見せてくれっから手伝うのは大歓迎だけどなぁ~」
「カズ、頼むから少し黙っててくれよ」
「黙ってたってヤるこた一緒だろ?」
こんな具合だ。
だから、あまり無茶な抵抗をしなければ、少なくとも車が動いている間くらいは酷い目に遭うこともないんじゃないかと大人しくしていた。
(ターナが警察でも呼んでくれていればいいんだけど…)
去り際に聞こえたターナの叫び声を思い出す。
まさか追いかけてきてくれてる、などとは思わなかったが、それでも無為に音乃を放置しているとも思えなかった。
(でも二度も助けてくれる、っていうのも調子良すぎるし…なんとか、しないと)
意を決して口を開いた。
「…どこに向かっているの」
「うん?気になる?いやさ、邪魔の入らないところで二人きりになりたいってな。こないだは邪魔入っちまったからよ、なあ、オレの気持ちそろそろ分かってくれた?」
行動原理が下心のみに基づいていることがね、とは言わなかった。今のところ怒らせてしまうのが得策だとは思えない。
「もしかして、いつもこんなことしているワケ?」
侮蔑の色だけは流石に隠せなかったが。
「まさかあ。本気になった女の子相手に、だけだぜ?」
そう言えば音乃が喜ぶとでも思っているのだろうか。悪気が無さそうなだけ余計にタチが悪い。
もうこれが限界だ。運転している男に飛びかかりでもすれば事故の一つでも起こせるんじゃないか。
堪忍袋の緒に亀裂が入るのを自覚して、音乃は聞き取られてしまわないように小さく深呼吸をする。
車が暴走しても誰にも迷惑をかけないだろうタイミングを計っているうちに、やがて人通りも車通りも絶えた静かな道に入る。
都内にもこんなところがあるんだ、と呑気にも音乃は感心してしまったが、見たところ建物も見当たらない公園のような場所なのだろう。
こんな夜に車が入っていい場所なのかどうか。人攫いのような真似を平気でする連中にはどうでもいいのか。
おあつらえ向きかもしれないが、逃げ出せたとして助けを求める人がいるとも思えない。
逃げ足の速さなら自信はあったが、土地勘の無い音乃がこんなところで一人駆けても無事に逃げおおせるのか。
逡巡しているうちに、音乃を拐かした時とは対照的に車は静かに止まり、
「おまたせぇ~。んじゃな、タク。手伝いが要ればいつでも呼べよお…むしろ手伝わせろよな」
「…アホ言ってないでさっさと降りろ。タク、警察にアシ掴まれるような真似だけはすんじゃねえぞ」
「オレがそんなヘマするかよ。おら、とっとと行けって」
と、前の座席の二人は出て行ってしまう。
音乃はその音に紛れて逃げだそうと背中に手を回して、ドアのノブを探したがそれらしいものは見当たらない。
「音乃ちゃん、そっち側にドアはねーよ。こういう時の為にわざわざグレードの低い車買ったんだからさぁ」
…迂闊だった。音乃の座らされている右側には出入り口が無かったのだった。
ヤバい。思わず下唇を噛むが、どちらにしても扉を開けて逃げだそうとすることくらい、予想しているだろう。
いっそこの男を殴り飛ばして左側の扉から飛びだそうかとも思ったが、
「おっと、ここから逃げたら表の二人が襲いかかるぜ?あいつらオレと違って音乃ちゃんには特に思い入れ無いからなぁ、きっとオレより酷いことするだろうぜ。なあ、諦めてオレの愛を受け入れろって。そうすりゃあいつらにも手を出させないからさあ」
圧倒的に有利な立場にいることに悦びを覚える、品の無い笑い顔を向けられる。
それを睨むしか出来ない自分の力の無さが、悔しかった。
もうこうなったら、この男にケガをさせてでも逃げて、外の二人に捕まったら舌でも噛んで死んでやろうか。
歯を食いしばっても涙は抑えられない。
こんな男に涙を見られるのが、どうしようもなく悔しかった。
それで余計に、目からこぼれ落ちそうになるものが増える。
「泣くなって。大人しくしてればちゃんと気持ち良くしてやるからさ………ん?」
音乃の身体に手をかけようとしていた男の動きが止まる。
その背中の、更に先。車の外から聞こえてきた異音は音乃の耳にも届いていた。
「…なんだ?あいつらちゃんと見張ってんだろうな…?」
外から中を見られないようにガラスに貼られたスモークのシートが災いして、外の様子は音乃には見えない。
「くそ、なんだってんだ」
それはガラスに顔をつけるようにして様子を伺う男にしても同様なのだろう、苛立たしげにしているその後頭部を殴るものが何か無いか、音乃が車内を見回していると。
ダァン!!
「おわっ?!」
「きゃっ!」
…屋根の上に何かが当たったような、大きな音が車内に響いた。
男は慌ててその場所を見上げ、音乃も動きを止めて同じように顔を上げる。
だが、大きな音の後には何事も起こらず、男はホッとして享楽の続きをしようと音乃に顔を向けた瞬間。
「……ぇ?」
音乃は目を疑った。
顔を寄せようとしていた男のすぐ鼻先に、天井から鈍く光る金属が突き出ていた。
「なんじゃこりゃぁっ?!」
男の目にはそれが刃物だと確信出来たのだろう、狭い車内にもかかわらず器用に飛び退いて、距離を置こうとしていた。
そしてそれが、男にとっては幸いした。続く刃の動きに、顔を切り刻まれずに済んだからだ。
その刃物は突き立てられたまま前進し、あろうことか金属といくつかの樹脂で構成された車の屋根を、切り裂く。
それは三十センチも動くと一度止まり、ぐいと引き抜かれた後にまた突き立てられ、そして再び金属を切り刻む。
まるで缶詰をナイフで開けるみたいだ、とガールスカウトをした子供の頃を思い出しながら音乃が見るうちに、人一人が通り抜けられる程のサイズの穴が屋根に開かれる。
「……何なの?」
恐る恐るそこから空をのぞき込んだ音乃の目に映ったのは。
「……おい、無事か?というかお前はいちいち面倒ごとに巻き込まれないと気が済まないのか?」
「ターナ!!」
つい先刻、掠われる音乃を見て為す術もなかっただろう少女の姿だった。
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