第6話
ものすごーく今さらなんだけど、と前置きがあった。
ターナは神妙な顔つきで、対面に座る音乃の顔を見る。
そうして、控え目な照明に照らされた音乃の口からは、
「ここ、下北沢だよね?」
と、疑問とも確認とも言えない問いが、出る。
「………本当に今さらだな」
近年は駅周辺の再開発が進行中で、数年後には大きく変貌することが予想されるが、今の所は都区内では割と古めかしいながらも、賑やかな佇まいの街である。
ちなみにターナの部屋も、中心部からは外れているが近くにあった。
「で、それがどうした?もしかしてもっと小洒落た店の方が良かったか?」
「私にとっては十分洒落たお店に見えるけどねー…」
長野の山の方から東京に出てきた音乃にしてみれば、渋谷だろうが赤坂だろうが下北沢だろうが練馬だろうが、実のところ大差はない。
人がいっぱい。
これで十分だ。
「そうじゃなくってさ、一つ気になったんだけれど」
「うん」
軽く身を乗り出して問いかける。
顔の下にあるのは、ついさっきまで香辛料のたっぷり使われたカレーが入っていた小皿が複数枚。ターナの顔ほどの大きさのあるナンを三枚平らげた音乃が、ターナにジト目に見守られていたのはつい五分ほど前のこと。
講義が終わってその足で文字通り駆けつけてきた時には、ターナの部屋の掃除はまだ終わっていなかった。というか始まったばかりだった。
掃除機などというものがなく、大家宅から借りっぱなしになっているイ草のホウキを振り回していたところに出くわした音乃は早速手伝いを買って出て、拭き掃除から溜まっていた各種ゴミの排除、昨日の夜帰ってきてそのままだった食器洗いに及び、トイレの掃除までやろうとしたところで流石に止められはしたが、決してだらしないとは言えないターナの部屋は見違えるようにされてしまったのだった。
一仕事終えた音乃が満足げに頷くのを見てターナが、掃除の礼だと夕食のおごりを申し出て、それならばカレーが食べたいとやってきたのは、やはりターナも顔なじみの様子の、パキスタン人の店主が営むカレー店だった。
「…私がターナに助けられたの、新宿だよね。どーやって私をここまで運んできたの?」
「……お前も変なコトを気にするな」
「変ってことないでしょ。来る時乗ってきたけど、電車に乗ったって十分くらいだよ?私を背負ってたら一時間じゃ済まないと思うよ?」
その上自分のゲロまみれのジャンパー着てたんだし、とは言わなかったが、人一人背負って歩ける距離でないのは間違い無い。
店主のサービスで出してもらった食後のラッシーのグラスを傾けながら、ターナは冷静に、「どうしたものかなあ…」と思案に暮れていた。
別に口をつぐんでしまっても、音乃は気にはしないだろう。なんとなくではあるが、そういう細かいことを気にする性格ではないように思える。
問題があるとすれば、だ。
(どうも、わたし自身がこいつには不誠実ではいたくないらしい)
…ことだった。
よく考えずとも、おかしな話だと自分でも思う。
酔っ払いが酔っ払いに絡まれてたところを助けたからといって、何程のことがあるのか。ターナにしてみればいつもやっていることに過ぎないし、そんなことでいちいち礼を言われたりしたことはなく、求めたこともない。
なのに。
「じー」
「…穴が空くからそう見つめるな」
なんだって、こんな得体の知れない年下の娘をこうも気に掛けるのか。
これが男だったら、下心ということもあるだろう。実際、そんな場面には何度か出くわして、その度に後腐れ無いように「適切に」対処してきた。
「と言われても、ね。ターナって綺麗だからつい見蕩れてしまうんだよね」
「そういう台詞はもっと恥ずかしそうに言え。でないと不公平だ」
「不公平?」
「………その、私だけ照れているのが、だな…」
やっぱり変なヤツだ。
万事そつなく、他人との距離を置いてきたターナの障壁をあっさり乗り越えてくる。
まあだからと言って不快かといえばそうでもないのが、自分にとっても戸惑いの種だ。
ターナの抗議を受けてそれでもキョトンとしている音乃の顔が、少し小憎たらしい。感情が顔に出ない方だという自覚はあっても、内心の動揺まで抑えられるわけではない。そう思うと、この呑気な顔を少し焦らせてやりたくなった。
「…そうだな。お前の聞きたい話ではないかもしれないが、一つ物語りをしてやろう。ただし条件がある」
「条件?」
「なに、簡単なことだ。お前の話も聞かせろ。今まで何をして何を見て、そしてどんなきっかけがあってこの街に来たのか、ということだ。スポーツをやっていたのだろう?そんな話でもいい。わたしだけ一方的に話をさせられるのは、面白くない」
正直話の内容などはどうでもよかった。興味が無いこともないが、重要なのは音乃に自分を語らせる、ということだ。
「…私の話、ねー…」
案の定戸惑ったように頬を人差し指で掻いている。
嫌なら嫌で好きなようにすればいい。それなら自分もこれ以上自分語りをするつもりはないだけのことだ。
そんな風にやや投げやりにグラスを傾けていたら、音乃はターナから目を逸らし、店内の様子を一瞥する。
掃除に時間がかかったこともあって、時間的に店内はアルコールを交えた会食も目立ち、狭い店内ではあってもいつものように繁盛しているようだった。
他の客はどうもカップルのような男女二人連れが多く、自分達のように女二人、という組み合わせは他に居ない。まあこんな状況で他の客に注目するような客も当然おらず、ターナと音乃に向けられるような視線も無い。
そういう意味では落ち着く空気だな、と思っていたら、居住まいを正した音乃が割に真剣な、どこかターナの顔色をうかがうような面持ちで口を開く。
「…ターナはさ、スピードスケートってやったことある?」
あるわけないだろう、と答えかけて止めた。音乃が言いたいのはきっとそういうことではないのだろう。
「すけーと、というのが何をやるのかはテレビで見たくらいだ。氷の上を滑って跳ねたり回ったりするヤツだろう?」
「それはフィギュアスケートね。私がやっていたのは、広いリンク…スケート場で、スピードを競う方。とにかく早く氷の上を滑った方が勝ち、っていう単純なやつ」
なるほど。そういう分かりやすいのなら興味も沸く。
背もたれに預けていた背中を浮かせて、ターナはグラスをテーブルの上に置く。
「競技としては、決められた距離をどれだけ早く滑るかを競うものでね。えっとこれは距離によるけど、私が専門にしてたのは短距離で、二人同時に滑るの。だからスタートは同時。スタートラインに二人並んで、よーいどんで滑り始める。私ね、そのスタートの瞬間がすごく、好きだったんだ」
音乃の視線はターナを見てない。どこか遠くを、懐かしむように、あるいは悼むように見つめている。
「…スターターの合図でスタートラインに並ぶ。構える。それから、ピクリとも動かずにスタートを待つ。そんな時にね、私は一切の音が、聞こえなくなるんだ。ことによっては合図のピストルの音も。それでスタートが出来なくなるわけじゃないよ。合図は聞こえなくても、隣にいる選手の動きとか、ピストルの音の氷への響きがスケート靴と足を介して体に届く。本当に調子のいい時はそれでスタートを切って、後は音が聞こえないまま、一心にゴールを目指す。だから実は調子の良い時ほどスタートは出遅れてたんだけどね。でも、そんなの問題にならないくらい、音の聞こえない時の私は速かった。高校生の頃は、オリンピックに向けた強化選手にも何度か選ばれて、海外にも連れていってもらったことがある」
オリンピック、とは言葉で知っているし事務所の所員たちが騒いでいたのも覚えている。実感としては分からないにしても、大変な世界的な祭典なのだとは想像がついたから、音乃の語りにも素直に驚きを見せる。
「凄いな。だが、そこまで凄いのに、どうして…今は止めてしまった風なのだ?」
「…止めた、かあ。んー、なんでそう思ったの?今はスケートのシーズンじゃないのに」
「なんでも何も、今のお前はそういう緊迫感を、極められた世界で競っているという厳しさをまとっていない。ただ流されているだけのように、わたしには見える」
「あはは…それはまた手厳しいなあ。実際その通りだから返す言葉もないんだけどね」
口では笑っているが、音乃は著しく表情の欠けた顔でターナの指摘に小さく頷く。
そして空になったラッシーのグラスを恨めしそうに見ると、水滴も乾いた水のグラスを代わりに手に取って、唇を湿らす。
「…高校二年のシーズンにね、大けがしたんだ。一緒に滑っていた選手が転倒して私にぶつかってきて、シューズのブレードでふくらはぎを切ってね。結構深い傷だった」
「それで止めたのか?」
「ケガそのものはちゃんと治った。時間はかかったけど、高校三年のシーズンが始まる頃にはまたリンクに立てるようにはなってた。でも…スタートの時の音を失っちゃったんだ」
「音を失った?意味が違わなく無いか?」
「ううん、間違ってない。私にとっては、スタートの時に音が聞こえなくなってた時、ゼロを聞いていたんだよ。音の無い、ゼロの世界の音を、ね」
無の音、と解してみてもそれでもターナには、よく理解は出来なかった。
「構えて動きを止めても、止めたつもりでいても、風の音、次に滑走する選手がウォーミングアップで氷の上を移動している音、リンクの外の会話の声、あるいは近くの森や林の中にいる鳥の声。そんなものが次々に聞こえてきて、スタートに集中出来なかった。号砲は聞こえてもそれに合わせてスタートなんか出来ないから、ケガをする前よりスタートは遅くなった。スタートしてからは、自分の滑る音が気になって滑りに集中出来なくなった。それで、スケート選手としての私は死んだ。自分自身も、滑っていて苦痛ばかりになった。だから、止めた。止めなければならなくなった」
「ケガは治ったのだろう?どうしてそんなことになった」
「分かんない。最初はケガをした時のことを怖がっているのかとも思ったけど、コーチたちは私の滑りには別段前と違いは無い、って言ってたからそういうものじゃないんだと思うよ」
顔を逸らしたまま話していた音乃は、そう言ってようやくターナと目を合わせる。その目にあった光の色の意味を、ターナは正しく解釈できなかった。
「もしかしたら、ずっと練習していればそういう環境にも慣れて、また元通りの記録を出せるようにはなったかもしれない。けどね、私がスピードスケートをやっていた理由って、オリンピックに出たいとか誰よりも速くなりたいとか、そんなことじゃなくって、ゼロの音に満たされた世界を駆け抜けて、その先にあったものに手が届いたことを実感していたい、ってことなんだ。だから、どうやっても辿り着けない世界に、そこがなってしまったのなら続ける意味は無いんだよ」
勝手なことを言うな、って止める時は散々揉めたけどね、と音乃はようやく笑う。
だがそれは自嘲に満ちたもので、ターナはそんな音乃を見ていられなくなって自分から目を逸らしてしまう。
「…大学への推薦も決まってたけど、断った。スケートやってたからの道だったしね。辛うじて受験は出来たからなんとか進学はしたけど、やっぱりターナの言う通り流されて、適当に選んだ道だから本気にはなれてないんだろうね。親からも半ば勘当されて、仕送りは最低限。海外遠征とかに備えて貯金してくれてたから、学費はなんとかなったけれど」
疲れてだろうか、覇気無くため息を吐く。
「私の話はこれでお終い。別に面白くなんかなかったでしょ?」
「…そんなことはないぞ。興味深い話ではあった」
「あはは…私に興味持ってくれたというなら嬉しいけど、楽しい話ではないよね。ごめん、もうちょっと楽しい話、しよう?」
賑わう店内からは浮き上がった空気になっているのは間違い無い。ターナも思わず飲んだ息に苦いものがあったのは、認めざるを得ない。
けれど。
「そう卑下するものじゃない。お前が思っているよりは、わたしはお前に興味はある。だから知らなかったことを知ることが出来たというのは、悪い話ではないさ」
ターナももう否定は出来ない。この、ちょっと浮き世離れした年上の娘がどう在るのか、自分の暮らしにとって何かしらの関わりはあるのだと。
「…そっか。なら、ターナの話も聞かせてもらわないといけないね」
「そうだな。まあ、信じられるかどうかは分からないが。…ああ、そうだ。こういうことにしよう」
「うん?」
悪い思いつきではなかろう、とターナは語り口を改める。
「これは、そういう『お話』だ。おとぎ話でもいい。そんなものだと思って聴いてくれれば、それでいい」
ターナからもそう前置きして、話は始まった。
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