第5話

 「ねのっちー、なんか今日はご機嫌斜めじゃん」


 月曜午前の講義が終わると、馴れ馴れしく声をかけてくる男子学生がいた。

 登校前の交渉…というか一悶着のことを思い出していた音乃は顔を上げて、その男の顔を見る。

 残念ながら、見覚えがあった。金曜日に見た顔だ。つまり、なんやかんやと音乃を嵌めてくれた連中の一人だ。当然名前は覚えていない。


 「もしかして金曜はうまくいかなかった?それとも今朝まで一緒だったりしたとか?」


 ニヤニヤと下卑た好奇心丸出しの顔。要するにターナにやり込められた男としけこんでいたのかどうか、を問題にしているのだろう。

 相手をする気にもなれず、黙って立ち上がり出口に向かう。空腹ではあったが、くだらない言葉をかけられて食欲は失せた。


 「ちょっ、おーい待てよう。せっかくお膳立てしたんだから結果くらい聞かせてくれってー」


 追いすがる声があったが、振り向きもせずにその場を後にした。

 せめてこの背中を見て、関わり合いになりたくないことぐらい察しろバカヤロー、くらいの気持ちだった。



 登校前の一悶着、というのはターナから預かった革ジャンをクリーニング屋に持って行った時の、店主とのやりとりだ。

 朝早くからやっているのが便利で、下宿から大学に行く途中に立ち寄ってよく利用するのだが、普段は特にどうとも思っていない店主の頑固っぷりが、今回は徒になった。

 なにせ、である。

 音乃は、早く仕上げて欲しいの一点張り。

 対して店主の方となると、皮革製品で安いものじゃないし吐瀉物がかかったものだから時間がかかる、と職人気質丸出し。

 更に想定金額を告げられて絶句もしたのだが、まあそれは自分の責任だから仕方がない。ただし次の仕送りまでは、下宿の同居人に出資を募って弁当にしないと昼食にもありつけないだろうが。


 問題だったのは、時間のことである。

 最低でも二週間はかかる。

 自分のものならどうとでもなるのだが、今回は迷惑をかけた詫び、なのであるからなるべく早めに返したい…というのが表向きの事情。

 実のところ、音乃としてはあの風変わりな少女のことが気になって、また顔を見てみたい、というのが本音でもあったりする。


 「…バイトでも探そうかな」


 そして、面倒な男子学生から逃れて、きっとしばらくは再会出来ないだろう学食の券売機を眺めながら、自身の財布の事情と自覚してない願望を満たす算段をする音乃だった。




 「…だから、そこでどうしてわたしが働き口を紹介する話になるんだ」


 昨晩は割と散々だったことで、昼まで寝坊を決め込んでいたターナ。

 起き抜けに音乃からの電話で妙な話を聞かされ、決して寝起きのいいとは言えない頭は鈍く回転してからようやく、斯くの如き返事を電話の向こうに返した。

 正直なところ、職場としては人手の足りている状況とは言い難い。

 ここしばらくは景気が良いとかで夜の街は人の流入が激しく、未成年ということで(実際には未成年どころの話ではなかったが)遅い時間は免除されているはずのターナも、とうとう昨夜は十二時直前まで駆けずり回る羽目になっていたのだ。

 だから、あんな所でも働いていい、などと酔狂を言い出す物好きがいたら捕まえて離すな、などと冗談が半分以下で頼まれてもいる。


 (だからといってな…)


 あのぽやーっとした娘を連れて行って何の役に立つというのだ。

 ターナは音乃の人品は悪く思っていなかったが、人には向き不向きといものがある。あの街に叩き込んだらどうなるか…想像するだに恐ろしい。


 『別にすぐにターナと同じコトが出来るなんて思ってないよ。でも語学の実践も出来るかな、って。あ、仕事なのに自分の勉強の場にすんなー、ってことだったらゴメン』

 「いや、別にそんなことはないが…」


 下はショーツに上はダブダブのTシャツ、という起きたままの姿にスマホを耳に当てた格好でターナは考える。

 自分のしでかした後始末で懐が寂しくなった、働いてなんとかしたい、というのは分かるが、どうしてわたしの所に話を持ってくるんだ?


 「…大体、稼ぎが欲しいのなら大学の方で探した方がいいんじゃないか?」

 『…入学したばかりでそんなコネ無いもん。それに、顔見知りになんか頼るの、イヤだし。今の所私の顔見知りって、あの時の連中が大半なんだよ?』

 「分かった、ネノ。お前が今探すべきは職じゃない、いい友達だ」


 少しキツいかな、とは思わないでもなかったが、いつぞや同じようなことを言われた意趣返しだ。

 だが上手いことを言ってやったつもりのターナは、あっさり反撃を食らって、沈黙する。


 『うん。だから今の私の一番の友達に、相談しているところなんだけど』

 「……………」


 スマホを持っていない左腕の肩からTシャツがずり落ちて、鎖骨辺りまで露わになる。


 『え、あれ?ターナ?私何かすごく変なこと言った?』

 「……変なことというか…いや、あのな、ネノ」

 『うん、なに?』


 Tシャツの襟を元に戻しながら、今のこの気分をなんと伝えたらいいのか、言い淀む。

 こういうのをこちらの言葉で何と言うのだったか。確か、「天然」だったか? ただ聞いた覚えでは、あまり良い意味合いではなかったハズだ。


 「その、一番の友達というのは、一体誰のことなのだ?」

 『…うん?ターナのことのつもりだけど。拙かった?』

 「拙いというかだな…その、お前、ちょっとおかしくないか?」

 『要領を得ないなあ。私に友達扱いされるのが困るならちょっと控えるけど、でも私がどう思うかくらい、私の好きにさせて欲しーなー、って思うんだけど』

 「あいや、それならそれで構わな…ではなくて、お前もう少し自重しろ。ついこの間会ったばかりの、背景の怪しげな年下の女を簡単に友達とか言うものじゃない」

 「…………」


 …言い過ぎたか?と思うくらいに、スマホの向こうは静かになった。


 (だが、どうも…これくらい言わないと危なっかしくて、困る)


 よくよく考えればターナが危うく思う理由など、それほど無いはずなのだが。

 それに気付かないのは迂闊ゆえに、ではなく、それが本来備わった資質なのだろう。言葉を換えれば、お人好し、というものである。


 『…じゃーさ、私がターナを友達だと思っていい理由、作ってくれない?』

 「お前、ますます訳が分からんぞ。どうしてお前がわたしを友達だと思う理由を、わたしが作らなければならないんだ」

 『なら私が勝手にターナのことを友達だと思う分には、全然問題無いよね?』

 「あ、ああ…そういうことに、なる………のか?」


 なんだか上手いこと誤魔化されたというか、言いくるめられてしまったような気分になる。


 『そういうわけだから、紹介よろしくー。日曜の昼なら大体暇してるから大丈夫』

 「いや、どういうわけだかさっぱり分からん。大体お前みたいな能天気なヤツがあんな物騒な夜の街…今何と言った?」

 『え?日曜の昼間なら時間あるし、って』


 …何か話が、肝心な所でかみ合ってない気がする。

 日曜の真っ昼間?それはまあ、海外観光客向けの人手は要るが、そもそもトラブル要員のターナに用がある時間帯ではない。

 もしかしてと思い、一度スマホを顔から離して、表示されている相手の名前を見る。


 「お前、何の仕事を斡旋してもらおうとしているんだ?」

 『何って。この間ターナがやってたじゃない。街で困ってる外国の人を助けるの。私、英語なら気合い入れれば会話くらいはいけるよ?』


 この間…と聞いてようやく合点がいく。音乃と昼食を一緒にした時のことを言っているのだろう。そういえば確かに、仕事だとは言った覚えがあった。

 ただし…。


 「…あれは仕事といっても奉仕活動のようなものだぞ?部屋の家賃代わりに頼まれてやっているだけで、報酬をもらっているわけじゃない」

 『えー…そうなんだ……』


 あからさまにがっかりした声。

 そしてターナとしても安堵する。夜の方の「仕事」に首を突っ込まれる心配は無くなったわけなのだから。


 「残念だったな。まあ洗濯の方なら別に急がない。用立てのつく時で構わないから、そんなに焦るな」


 勘違いだと分かれば、かける声も優しいものになる。

 どちらが年上なのか分からんな、と内心でおかしく思いながらターナは、音乃の反応を待っていると、しばしの沈黙の後にやや拗ねたような調子の返事が戻ってきた。


 『…別にそーいうことじゃないもん。たださ、ターナの顔が見たいなぁ、って思って。クリーニングは時間がかかるっていうから、こんな話でもないと会いに行けないんだもん』

 「………」


 その振る舞いには何度か、驚かされたり呆れかえったりといろいろな理由で絶句したものだが、今度のはまた頗る付きで黙らされてしまった。

 何なんだこいつはー。甘えるにも程があるだろうが。大体わたしの方が年下だと分かってて、時には姉さんぶるような顔までしていたくせに。

 ふと、故郷にいるはずの姉の顔を思い出す。厳しいというよりは務めのこと以外にはほとんど頓着するところのない人だったが、妹である自分には甘いところがあったように、今では思える。


 「……しょーがないヤツだな、全く。こんな顔でも見たいというなら普通に遊びに来ればいいだろうが」


 姉のことを思ったせいだろうか、自分でもビックリするくらいに柔らかい物言いになっていた。


 『……いいの?』


 けれど電話の向こうでは、どこか探るような気配。というより警戒、だろうか。

 それはまあ、今の今まで拒むような態度にも見えた相手からこんな風に言われれば、訝しく思うのも無理は無いか、と思った。

 と同時に、そんなことを思わせてしまった自分の言い方にも少しばかり、省みるところを認める。

 仕方ないだろうが、あのほんわか娘をああいう場所に連れて行くわけにもいかないのだし、と誰に対してしているか分からない弁解を胸中に収めて、ターナは続ける。


 「良いも悪いない。そもそも友達だのなんだのと最初に言ったのはネノの方だろう?こっちは週頭の夜は休みだ。都合がよければ来い」


 思わず早口になってしまったが、それでも歓迎の意は伝わったのだろう、気忙しくも早速今日行くから、との約束を交わすと、喜色を隠さない様子で音乃の方から電話を切った。


 「…大学生というのはそんなに暇なものなのか?」


 故国における最高学府の学生と同様に、大学生いうものは音もたてずに机に向かっているものだと思っていたが、場所が変われば立場の有り様も異なるものらしい。

 通話履歴を確認すると、思ったよりも長く話し込んでいたようだった。

 自分も今日は、時間がある。音乃が来る前に部屋の片付けでもしていようかと、荷物も大して置いてない自室を見渡す。

 そして、まず最初にやるのは着替えることだな、と立ち上がるターナだった。

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