第4話

 大分長居してしまった。

 店を出て腕時計を見ると、もう昼下がり、というには遅めの時間になっている。

 四月も後半のこととて夕方の気配などはまだ無いが、貴重な休日をなんとなく過ごしたことが気にならないでもない。


 …そう思って、音乃は少し驚く。自分はあれからずっと、何も考えずに過ぎる時間を過ごしてきただけだのに、なんとなく過ごしたことを勿体ない、と思うとは。


 「さて、一度戻るか。ネノはどうする?」


 いや、無駄な時間だったというわけでもないか。少なくとも、この風変わりな外国の少女と知り合いになれたことが無意味ということもないだろう。


 「そうだね。ね、やっぱりあの革ジャンはクリーニングさせてよ。洗って返さないとなんだか私の気が済まない」

 「…別に構わないのだがな。まあいい、お前の気が済むならそうすればいいさ」


 呆れたように笑うターナと並んで、歩き出す。

 街の混雑は相変わらずで、ことによれば横並びだと邪魔になることもあったが、ターナの方が先に気付いて位置を前後にずらしてやり過ごすことを何度かする。

 そしてその度に、音乃は歩みを変えてターナの隣に戻るのだった。


 会話は、割とどうでもいいことばかりだった。

 音乃が通っている大学のこと、スポーツをやっていたことなどを話せば、ターナの方は彼女の言う「仕事」で見聞きしたことを面白おかしく話してくれる。

 出会いは奇矯なものだったが、言葉を重ねれば音乃には印象の深くなる少女なのだと思う。それも、好ましい方向に、だ。

 だから昨日今日の関係で済ませるのも惜しくて、そんな心情も込めてのクリーニングの申し出で、ターナもそれを無下むげにしなかった。


 「…茶でも飲んでいくか?」


 部屋に戻るとそう言って音乃を招き入れたのだから、そういうことなのだろう、と音乃も嬉しく思う。


 「うん。お邪魔でなければ」

 「何も無い部屋だがな」


 まあそこは言葉の通り、ベッドの他は衣類を片付けておくケースと、小さな冷蔵庫があるくらいのものだった。


 「待ってろ。といって紅茶しか無い」

 「いいよ。…ね、聞いてもいい?」


 ポットは無く、湯を使うごとにヤカンで沸かしているのだろう、コンロに火をつけているターナの背中に、音乃は思ったことを訊いてみる。


 「ターナって、どこから来たの?」


 気のせいだろうか。ターナの身動きが止まったような気がする。

 訊くべきじゃなかっただろうか、と後悔が首をもたげた音乃の心配を肯定するように、ターナは振り向いて困った顔を浮かべる。


 「…そんな不安にならなくてもいい。別に訊かれて困る話じゃない。ただまあ…笑われると思ってな」

 「笑う?」


 出身地をわらうような不躾な真似をするつもりはない。ただ、ターナのその言い方はそういう深刻な心配というよりは、居心地の悪さをどう誤魔化そうか、という類のものに見えた。


 「まあ、なんだ。その手の話は適当に辻褄合わせられればいいのだが、わたしにはそういう知識が無い。だから正直に言うしかないのだが…」

 「歯切れが悪いなあ。別に言いたくないなら構わないよ。話の継ぎ穂になればいいかな、って思っただけだし」

 「あーいや、なんだかお前には不思議と隠し事をしない方が良い気がする。だから、まあ…」


 ヤカンがカンカン鳴り始めたコンロを離れ、部屋の真ん中に鎮座する音乃の前まで来てドッカと胡座をかき、足首を両手で掴んでいる。

 それでも踏ん切りはつかないのか、まだどこか言い淀む気配のターナを前に、音乃は一度肩をすくめると、


 「あははははは」


 と、少しばかり湿っぽい笑い声をたてた。


 「……?」


 意図が分からず、首を傾げるターナ。

 それを見て音乃は、今度はそれとハッキリ分かる笑みを浮かべ、言った。


 「はい、先に笑ったよ。もうこれで言いにくい理由なんか無いでしょ?」

 「……やっぱりお前は変なヤツだな」

 「そう?」


 殊の外真面目な顔のまま、顔を見合わせる。

 だがそれも僅かな間のことで、ターナは困ったように笑いながらではあったが、言を継いだ。


 「まあいいか。それも気遣いの一つと受け取っておこう。わたしの故国は…ヴィリヤルデ・ノーリェリンという。この国の言葉で言えば、『竜の娘の国』という意味だ」


 もちろん、音乃には聞いたことのない国名だった。

 けれどターナにまだ続ける様子があったので、特に疑義を差し挟むつもりもなかったのだったが、


 「この星…いや、この世界にある国ではない」

 とまで言われてしまえば、流石に自身の耳を疑ってしまう。

 「…もう一回」


 音乃の要請に、ターナはがっかりした風もなく淡々と繰り返す。


 「ヴィリヤルデ・ノーリェリン。異界の門、と呼ばれる異世界同士を繋ぐ場所の、向こうにある」


 聞き間違いではないらしい。

 先程、ターナはこう言った。

 変な小説の読み過ぎなのではないか、と。

 だったら自分はどーなのだ。変なマンガの読み過ぎなんじゃないのか。

 …といった顔にでもなっていたのか。


 「…あー、分かってる。こういう言動はお前たちが言うところの…『痛いヤツ』とかいうのだとな。だがまあ、故国の知人はそういうものを好んでいた者も居はするがわたしにそういう趣味は無い。…って、どう言えば信じてもらえるのだ?!」


 音乃の視線が段々とゆるーくなっているのに気がついたのだろう、慌てて弁解するターナ。


 「信じるとか信じないというかねー…何だか私の人生の世界観と話が違いすぎてどう受け止めればいいのか分かんない」

 「何だそれは…」

 「真実でも作り事でも、どっちにしたって私に縁の無い話に過ぎて理解出来ない、ってこと。だからとりあえず、ターナはターナとして友だち付き合いしていければな、って思うよ」


 ぽかーん。

 音乃がそう言った時のターナの顔を表現すればまあ、そんな感じだったのだろう。

 ただそんなだらしない様相もごく短い時間のことで、ヤカンがピーッと鳴ったのをきっかけに元のキリッとした顔に戻ると、しかしお湯が沸いたことに気付いて慌ててそちらに向かったが、それでも音乃から見ると決して隔意を抱いた、という風には見えなかったのだ。


 そして音乃も、自分の発言を驚きと可笑しさと共に、反芻する。

 友だち、か。

 昨晩、音乃の友だちを自称した連中がどんな有様だったかを思うと、疎かに扱っていい表現ではあるまい。

 けれど、と音乃は続けて思う。

 恩義があった、そしてその振る舞いに好感を持つことに吝かでおれないひとに接していたい、と思うのは別に不自然なことじゃあないだろう、と。

 もちろん、相手がどう思うかは別なのだろうけど。


 「…済まない、少し動揺してた。安物だが、飲んで欲しい」


 そうやって音乃がほんわかしていることを気にもとめない、というかそんな余裕も無い様子のタ

ーナが、ティーパックを入れて湯を注いだ紙コップを二つ、持ってきた。


 「うん、ありがとう」


 気取りもてらいも無いもてなしだったが、それだけに染み入るものはある。

 受け取った紙コップは熱かった。それを避けるようにカップの口に近い部分を持ちながら、音乃はティーパックを持ち上げる。


 「あ、それを入れる皿を忘れてたな…ちょっと待て」


 持ち上げたパックをどうしようか迷った音乃を見て、ターナが流し台から皿を持ってくる。

 同じようにパックを上げたターナが先に置いたところに、音乃も自分の分を置いた。


 「砂糖は要るか?」

 「ううん、これで大丈夫…美味しいよ」


 一口すすって感想を述べた音乃に、そんなわけないだろう、と苦笑するターナ。


 「もらい物の上に、もう大分時間も経っている。そんなに美味なわけがないだろう」


 そういうことじゃないんだけどね、とクスリとする。

 ターナは何となく、音乃の内心抱くような機微には疎いように見えた。大雑把、というのとも違うが、細かいことを斟酌して人間関係に心配りをするような性質なのではあるまい。


 「…まあ、そう言ってくれるのであれば、もてなした甲斐があるというものだ」


 けれど音乃の礼をそう素直に受け取って、喜んでみせる姿にはその芯にあるものを覗わせ、そしてそれは音乃に好ましく思わせるに十分な資質なのだ。


 「それでターナは、そのー…びり…って国のお姫さまか何かなの?」

 「何だそれは。そんないいものではないが、まあたてまつられるような立場…の端にはいたがな」


 だから、この少女の背景にあるものが何かを知りたく思う。


 「ふうん。その辺りのお話ってもっと聞いてもいい?」

 「…何だか面白がっているように見える。嫌だぞ、身の上話をして冗談ととられるのは」

 「うーん、残念」


 当人は今のところ、簡単に応じるつもりはないようなのだったが。

 まあいいか。

 少なくとも自分は、自分には、得た縁を嬉しく思えることが間違いではないという自信があった。

 そして彼女にとっての自分もそうあればいいな、と思う。

 今のところ、音乃の世界はそんな風に兆していた。




 「全く…変なヤツだったな」


 そう評したのはこれで何度目だろうか。本人を前にして再三言い、去った後も独り言に紛らせて言う。

 そして言った後、口が綻ぶのを覚えて、「アホかわたしは」と自分の頬をピシャリと叩くことを、二度ほどやった。

 音乃が帰ってしばらくはそんな奇妙な感慨にとらわれていた。


 時間が過ぎるのが早い気がする。時間の流れの早さ、などということに気が行くなど自分には珍しいことだ。

 そんなことを思ううちに、予定の頃合いになる。

 ターナは手早く着替えを済ませると部屋を出て、商工会の事務所に赴く。本来、ターナの仕事はこれからが本番だ。音乃の前でやったのは仕事の一部ではあったが、荒事の多い夜の方が忙しくはなる。

 自分の部屋から、ターナの「足」では五分とかからない場所に着く。

 古い雑居ビルの目立たない一角にある扉を開くと、保護された酔っぱらい。あるいは面倒に巻き込まれて警察を待っている男女。そうでなければ家出していた少年少女。時には徘徊する老人。

 そういった、この街で一時的に行き場を失った人々がこの部屋にはいた。


 「ターナ、済まん。今日はコトの外、客が多い。面倒をかけることになるが気張ってくれ」

 「構わないさ。カタクラさん、警察待ちは何件ある?」

 「通報が来てるのが二件。そちらは落ち着いていると思うので今はいい。一先ず待期していてくれ」

 「わかった」


 日没から十時頃までの間、ターナは昨日音乃が溺れていたこの街で、商工会議所に詰めて荒事になりかけた騒ぎを穏便に収める手伝いをしている。

 もちろん警察に最終的には引き渡すにしても、騒ぎが大きくなる前に被害の拡大を防ぐこと、あるいは暴力的組織が介入することをなるべく避けたりと、やることは数多い。

 そしてターナは言語に堪能で、複数の外国語を操れる、ということも重宝されている。それが故に十八という自称の年齢で、大人に混ざって街の平穏無事のために居るのだった。


 来るなり手持ち無沙汰になっている。

 外国人が巻き込まれていたりしなければ、今この場でターナにやれることは無い。

 仕方なしにスマホを手に取り、ふと思ってついさっき連絡先を交換した相手の名前を呼び出した。

 「樫宮 音乃」とある。

 ネノ、とはこう書くのか。

 ターナは妙に感心して、その名を名乗った女性の顔を思い出した。

 自分とは正反対に、漆黒と言ってもいい髪。それを背中の途中まで伸ばした様は無雑作で、身だしなみに気を遣っている様子は少ない。そういえば今朝から化粧らしきこともやっていなかったようだ。

 美人、とは十人中十人が強く主張する程では無いが、それよりもぼんやりとした空気の中に、よく言えば芯の強そうな、悪く言えば頑固そうな気性を覚えた。


 「ヘンなヤツだったな」


 思い出してみたら、やっぱり変わらない感想になる。


 「どしたい、ター坊。上機嫌じゃねえかい」

 「ウエムラさん、無聊ぶりょうかこっていただけなのに機嫌のよくなるわけ無いじゃないか。言いがかりはやめてくれ」

 「無聊を託つ、なんて今時日本人でもなかなか言わねえけどねぇ」


 通りがかった事務所の男性が、感心したように言い置いていく。

 今日は今のところ、大きな騒ぎも無いようだ。ターナとて好き好んで面倒ごとに首を挟みたいわけではない。ましてや今日のところはヘンテコな出会いもあって、そんな気分でも無い。

 あんな間の抜けたヤツがそうそう居てたまるか、と思っていたら事務所の電話が鳴る。それも通報用の、緊急性の高い奴が、だ。

 来たな、と思いながら電話をとった担当に顔を向けていたら、目が合った。

 受話器を顔に当てたままでいる向こうは、口だけを動かしてターナに何事かを告げる。

 それを言葉として聞くまでもない。彼が自分に向けた意図を認識すると、つい今脱いだ上着を手に取る。ズシリと重い。音乃に引き渡した方を入手する前に愛用していた、やはり同じような黒の革ジャン。

 いろいろと仕込んであるがために、見かけ以上に重みのあるそれを、ターナは苦笑いで羽織った。我ながらこの頃は臆病だったな、と。


 「ター坊、悪いが二丁目の居酒屋、『海砂利水魚』で外国人のトラブルだ。どうも外のヤッチャンに絡まれてるらしい。地元じゃないから話が通じない、客の保護だけ最優先……お、おいっ?!」


 全部聞く前にターナは事務所を飛び出す。その必要は無いから、と。

 せっかちだねぇ、と交わされているだろう屋内の会話を想像しながら、流れるような銀髪を人工の光源が乱舞する街に投下した。

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