第2夜 寒椿:冬の終わり、春の訪れ

 白い足跡が真っ直ぐに続く。

 それが途中で二つに別れた。

 一方の足跡には赤い花弁を点々と伴って。


***


 雪の上に一つ、足跡が続いていた。


 見渡す限りの雪原。

 白銀の世界とは名ばかりは美しいが、そこに置かれた者には地獄だった。

 白い息が淡く消え、雪の上に倒れ伏す。

 冷たさなど感じない。


「ごめん……」


 涙も出ない。

 疲れた身体を雪に沈めるだけだ。

 声ももう出ない。

 死を目の前に感じながら、ただ頭に浮かぶのは謝罪の言葉とそれを伝えたい人の少し困った笑顔だけで、自分が死ぬことには何の感情も湧かなかった。

 こういうものかもしれない。

 終わるということは。

 電気を消すのと変わらない。夜、眠りにつくのと変わらない。

 ただ目の前が真っ暗になって、それに対して何かを感じることもなく消えてしまう。

 そういうことなのだ。


「……歌?」


 ふいに手放しかけた意識を少し取り戻す。

 どこからか響く、人のものとはとても思えない、透明な旋律。

 その歌声にかすむ目を細め、仄暗い前方を見やる。

 人影、のようなものがある。

 性別は判別できないが、声から女だろうと思われた。

 いつまでも聞いていたい声。

 その声に困った笑顔がちらつく。


 くそっ。


 呟いた声は言葉にならず、ただ呻き声として喉を滑り出ただけだった。


 立ち上がれない。

 こんなところで、死ぬのか。

 何も伝えられずに……


 諦めていたことが、ふつふつと熱く胸から駆け上がる。

 だが、そこから意識は完全にドロップアウトした。



「守ってくれるって言ったくせに」


 目が覚めるなり、ドアップで見知らぬ女がそうのたもうた。

 その顔は不機嫌極まりない。


「……誰?」

 訊いてみる。が、静かに泣かれた。

「……忘れるなんて酷いっ」

 そんなこと言われましても……

「サホの羽……探しに来たんじゃないの?」

 羽、ですかい?


 ちょっと危ない人に拾われたみたいだ、と思いながらも、はらはらと涙を零す人を目の前にすると自然と慰めようとしてしまう。

 上半身をそっと起こし、頭を軽く撫でた。

 どう見てもこの人の方がずっと年上だ。

 俺はまだ一七歳になったばかりで、この人は二十歳くらいに見えるのに、俺より年下の子供のように泣きじゃくっている。

 頭を撫でながら、俺は室内を見渡した。

 何もないがらんとした部屋だった。俺が寝ているベッド以外、本当に何もないのだ。


「アキヒコ……」


 名前を呼ばれ、撫でていた手を止める。

「なんで名前知って……」

「だってずっと一緒だったじゃない。アキヒコが生まれる前からサホは側にいたよ」

 潤んだ瞳で見上げられ、思わず胸が痛んだ。


「羽って?」

 彼女の話をちゃんと聞いてあげようと思った。

 彼女も溢れる涙を拭いて、少し困ったように笑む。

 その顔に何かを思い出しかけたが、霞がかかったようにうまく見えない。


「サホは精。人じゃない。だから、誰にでも見えるわけじゃないの。でもね、アキヒコはサホを見てくれた。サホの為に泣いてくれた。そして今もサホの羽を探しにこんなところまで……」

 そう言ってまた彼女は泣き出す。

「心配したんだよ? サホに黙って出て行くから……サホがいなかったらアキヒコ死んでたよ?」

 本当に心配そうに俺を覗き込み、彼女は俺が大丈夫なのを確認するようにじっ、と見つめた。


「は、羽って……どんなの?」

 その真っ直ぐな目から逃げるように、俺はそう切り出し、視線を逸らした。

「きっと透明なの。目に見えないけど、多分、アキヒコは見つけてくれる。サホのためにアキヒコが探そうとしてくれたんだもの」

 柔らかに、けれどやはり少し困った風に彼女は笑む。

「見えないのにどうやって……?」

「サホには見えないけど、アキヒコには見えるんだと思う」

「俺に? でも……どんなのか分からないのに……」

 探せないよ、という言葉を飲み込んだ。


 どこか儚い彼女の笑顔。それを見る度、胸がちくり、と痛む。

 覚えてるのは雪の中を彷徨っていたことだけ。

 そして、誰かに謝ろうとしてた。

 俺は雪の中、必死にどこへ向かってたのだろう?

 多分、彼女の羽を探してて、そして彼女に謝りたかったのかもしれない。

 羽が……見つからなくて……


「アキヒコ、帰ろうか。サホと一緒なら、雪も寒くないから大丈夫」

 すっかり泣き止んだ彼女だったが、笑顔はやはりぎこちない。

 何を困ってるのだろう。

 羽が見つからないから?

 彼女は羽を見つけたら、どこへ行くのだろう?


 俺はゆっくりとベッドから降り、靴を履いて立ち上がる。

 途端に部屋は消え、雪原が広がる。

 見渡す限りの銀世界。

 どこまでも真っ白で、先が見えない。

 けれど、彼女が言ったように寒くはなかった。吐く息は変わらず白いのに。


「日が暮れてしまったねぇ」

 寂しそうに彼女が呟く。

 空には夜のとばりが降りていた。


 見上げると満点の星。

 まるで宝石箱をひっくり返したような空が広がっていた。

 俺は無意識に彼女と手をつないでいた。

 彼女の温かい手に、冷えた手が溶かされる。

 冬を溶かす春に抱かれている気分になる。

 俺達は同時に踏み出し、そのまま歩き出す。

 俺は歩きながら、少しずつ思い出す。


 サホから椿の匂いがした。

 その匂いは庭の寒椿と同じ。


「春の訪れを運ぶ女神。だから冬と春の境目だけ会えるの」

 誰かがそう言った。


 それは。

 隣を歩く……


佐保姫さほひめ……?」

 その名を呟いた瞬間、全てを思い出す。


 そして、その名を口にしたことを後悔した。

 俺にだけ見えるサホの背の透明な羽。

 それはサホを消す羽。

 そして代わりに春を運ぶ羽。


「サホッ」

 叫ぶ声にサホの困った笑顔が、淡くかき消えてゆく。

「アキヒコ……」

 優しく甘い声が耳の奥で薄れた。

 サホの足跡の上に、椿の深紅の花弁が零れた。

 椿は花の形を崩さずに落ちるものなのに。



 夜が明け、光が世界を滑る。

 春を喜ぶように、鳥のさえずりが遠くで聞こえた。


 家に戻った俺は、真っ先に庭に向かった。

 庭には椿の木がある。

 椿は根っこから抜けて、枯れた根が光の中に晒されて、無残に庭に転がっていた。


 俺は思い出す。

 毎年、サホとは冬と春の間の僅かな間に会っていた。

 春が来る度、サホが消えるのを見て、サホには羽があるのだと思い込んでいた。

 その羽がサホを連れ去るのだと。

 だから、俺はサホの羽を探して、隠してしまおうと思った。

 ずっと冬でいい。サホが消えるくらいなら。

 そう思ったけど、サホは春を運ぶ女神。だから、春を運べば消えなければならない。

 サホも知らないサホの羽。

 そんな羽、もとよりどこにもなかったのだ。


 ずっと一緒にいたい。

 それが俺の望みで、サホはそんな俺を望んだ。

 だから、サホは俺が言う羽を信じた。

 だから、サホは自分が宿る椿の根が枯れているのを知ってて黙ってた。

 俺に知られまいと黙ってた。

 これが最後の冬になるから。


 羽なんてない。


 サホはそれでも俺の好きにさせた。

 もしかしたら、俺のそんな妄想が現実だったらいいのに、と思ったのかもしれない。


 サホ。

 本当の名は佐保姫。

 春を告げる女神。


 幼い頃から俺にだけサホが見えた。

 花が咲いている間、サホは庭にやって来た。

 だから椿が咲くのが待ち遠しかった。

 そして花が落ちるのを見るのは嫌いだった。


 幼い頃からずっと会っていたから会えるのが当たり前だと思っていた。

 だから、まだ何も言ってない。


 俺はサホが好きだ。


「ごめん……」


 サホの椿がこんな状態だったなんて気づいてあげられなくて。

 羽を見つけることもできなくて。

 転がる椿の木を撫で、春の陽光の中、雪が溶けるように、枯れた筈の涙が頬を滑り落ちた。


 そこで俺は気づく。

 一つの可能性を。


 サホはこの椿に宿っていた。

 宿る場所がなくなったからここを去ってしまったけれど、宿る椿を見つけてそこにまた冬と春の間に訪れるかもしれない。


 サホは女神でずっと昔からいる。


 まだ俺の気持ちを伝えていない。

 だから、今度はちゃんと伝えたい。

 そのために、俺は涙を拭って立ち上がった。


 椿を探す。

 サホの宿る椿を。


 俺のこの想いをちゃんと伝えるために。

 今度は羽ではなくて、サホを探す旅を。

 また一緒に冬と春の間を過ごすために。

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