第3夜 夜の底は藍色に染む:忍と文
永遠に続くかのような深い夜の底から男は空を仰ぎ見た。
今宵は新月。
全てがこの日の為に整えられてきた。
深い藍色の忍装束に身を包んだ男はゆっくりと目を閉じ、呼吸を整える。
そして再び目を開くと、音もなく地面を蹴ってその場の地形を利用して屋根へと飛び上がった。
重力を感じさせぬ動き、そして無駄のない身のこなしから彼がいかに鍛錬して来たかが伺える。
「この文を届けて来てはくれぬか?」
主の命は簡単なものだった。
だが、男はその言葉に動揺した。
自分が伊賀者だったなら、こんなに心乱れることはなかっただろう。
そう思った。
自分が甲賀であったなら、主の為を思って喜んで駆けて行っただろう。
そうも思った。
だが、実際はどちらでもなく、男の行動は金でも情でも操れないものだった。
男は自分を利己的だと思っている。
何の為に主君に仕えているのか自問自答する日々が増えた。
主はただ文をある人の元へ届けて欲しいと言っただけだ。
でも、男はその文をどうするか迷っていた。
届けたと嘘を吐いて破り捨ててしまおうか。
それとも届けた後、ある人を亡き者にしようか。
いずれにせよ、男はその『ある人』が気に食わなかった。
文の中身は見ていない。
が、どういった内容が書かれているかは想像がつく。
何度も書き直し、言葉を選び、紙や墨までもを選んでいた。
その主の表情と心情に男は苛立ちを覚えた。
そして、なぜこんなにも苛立っているのか分からなかった。
分からない故に文を届けるという簡単な任務が困難に思えた。
「……やはり殺さねばならぬか」
ふと駆ける足を止め、懐から文を取り出して握り締めた。
届け先まであと少しという場所で男は屋根の上に胡坐をかいて座した。
本来ならとうに届けて帰りの道中であった筈だ。
気が進まぬ内は足も進まぬ。
誰だったか武将が「鳴かぬなら殺してしまえ
男もそんな心境になりつつあった。
が、死んだとあっては主の耳にもその一報は入るだろうし、殺されたとあってはそれが男の手によるものではと疑われもするだろう。
否定したところで主の信頼は当然揺らぐことになる。
「やはり殺すのは駄目だ」
そう結論づけて立ち上がる。
届けろと言うのだから届けて成り行きを見守るのが家来の役目。
ただ言われるがままに行動するのが家来だ。
そうは思ったが、自分は忍で家来とはまた違う。
言われるがままに行動するのではなく、主君の意図するところを汲み取って行動せねばならぬこともある。
「書き換えてやろうか」
そうか、その手があったと男は名案とばかりに主の文を広げた。
中身を見て男は驚いた。
自分が思っていた内容とは全く異なっていたからだ。
男は恋文だと思っていた。
あれ程までに心躍らせ、目を輝かせ、頬を赤らめていたように見えたからだ。
そう思うと途端に笑いが込み上げて来た。
「ハハッ。あれは怒っていたのか、あいつめ」
主を『あいつ』呼ばわりし、男は悶々と悩んでいた自分を
そうして勢いよく駆け出し、文をそっとかの人の枕元に置いて役目を終え、帰路に着いた。
だが、男はなぜそんなにも悩んだのか、その気持ちは生涯分かりはしなかった。
ただ、主が自害した際、この男もまた姿を消したという。
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