第5話

それでも、わらをも掴む思いで金城は聖書を読み始めた。とにかく分厚い。最初の方に出てきた、アダムとエバだ。蛇にだまされ、禁断の木の実を食べた。そこで楽園を追放されて、人間は呪われた存在になったんだな。なんか俺みたいだな。ヤクザをやっていた時は、最高の時だった。それが違法のことで、サツに見つかり、罰が与えられ、罪を負った。それで拘置所にいるわけだ。別にだまされたわけではないが。いや、ひょっとしたら、何者かにだまされてはいないだろうか。大きな暴力団という組織にだまされてはいないだろうか。もっと言うと、世の罪の犠牲者とは言えないだろうか。山田と中本は犠牲者だ。悪いことをしたとはいえ、何もあそこまで悲惨な死に方をすることはなかった。やっぱりあの二人は可哀想だし、家族も含めて不憫でならなかった。しかし、金城は思った。いくらなんでも楽園で暮らしていた、アダムとエバが、蛇にだまされただけで、楽園を追放され、呪われた存在になった。……理不尽すぎる。しかも、これが人類の始めなんて……。

金城はこのことが頭から離れなかった。山田も中本も、アダムもエバも理不尽すぎる。俺もそうだ、人類は呪われている。禁断の木の実さえ食べなければ、楽園に居られたのに。でもちょっと待てよ、山田や中本と出会えたのも、呪われているから出会えたわけだ。俺がこの世に生まれたのも、呪われているから生まれたわけだ。しかし同時に俺も呪われているわけだ。拘置所にいる受刑者を見ていると、不憫で可哀想に思えてきた。元はと言えば蛇が悪いんだ。金城は聖書に出てくる蛇を想像の中で憎んだ。しかし、殺したいとは思わなかった。なぜなら、山田や中本と出会えたし、こんな拘置所に居ても自分は人生捨てたもんじゃないと思えてきたからだ。だがしかし、人間は呪われた存在で終わってしまっていいのかという疑問が湧いてきた。みんな可哀想。それで終わっていいものかと思った。今度西村牧師が来た時に質問してみよう。

拘置所にいると、陰湿なイジメや、刑務官の厳しい取り締まりなど、まるで地獄だった。金城も自分は地獄にいるみたいだとは感じていたが、憐れに思うようになった。「可哀想だ」それぞれ事情もあるだろうに……。やっぱり神様なんていないんじゃないかと思った。いくら呪われているとはいえ、ここまでする神様は、やっぱり救ってくれる神様じゃないんじゃないかと思った。地獄の一丁目。しかし、絶望するにはまだ早いと思った。そういえば主の祈りというのを牧師さんは書いてくれた。どれどれ、読んでみるか……「天にまします我らの父よ、願わくば御名を崇めさせ給え、御国を来らせ給え、御心の天になるごとく、地にもなさせ給え、我らの日用の糧を今日も与え給え、我らが罪を許すがごとく、我らの罪を許し給え、我らを試みに合わせず悪より救い給え、国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」一気に読んだので、全部は分からなかった。牧師の書いた注釈には、心の中でもいいですし、小声に出してなるべく人のいないところで、信じて祈ってくださいと書いてあった。しかし、そう簡単に信じられることができるものかと思った。御国を来らせ給え……こんな地獄に、天国が来るわけなどない!御心の天になるごとく、地にもなさせ給え……こんな都合のいい神様がいたらみんな飛びつくわな。金城は信じて祈ってくださいと西村牧師が書いてあるが、洗脳でもするつもりかと思った。でも待てよ……これで信じられなかったら、元のヤクザにも戻れないし、俺には行く場所がない……もうこうなったら信じるしかない!理屈抜きだと思った。金城は必死になって何度も大声で祈った!

「御国を来らせ給え!」

「御国を来らせ給え!」

「御国を来らせ給え!」

刑務官が警笛を鳴らし、辺りは騒然となった。刑務官が二人寄ってきて、鎮静室へと誘導した。金城はその場でうずくまり、小声で呟いた。

「本当は神様なんていないんじゃねえの?」

金城の目には涙が浮かんでいた。しかし、心はなぜか温かかった。金城はふと閃くように立ち上がり、ひざまずき、天に向かい祈った。

「神様、私にはもうあなたしかおりません。どうか私を見捨てないでください」

金城は再びうずくまり、山田のことや中本のこと、拘置所のみんなのこと、自分の親のことを思った。

「俺が悪いことばっかりやったために、みんなを犠牲にしちまった。俺は本当に悪いやつだ。許してくれなんてとても言えねえ」

すると鎮静室の天井から光が差している……しばらくすると天使が舞い降りてきた。

「私は大天使長ガブリエル。天からの御使いだ。イエス様がお前を許すと言っている。安心し給え」

そう言って、天使は天へと戻って行った。

金城は狐につままれたように、自分がまるで別人になったように思えた。頭のてっぺんから足のつま先までスーッとして体全体が調和のとれた清々しい気持ちになった。鎮静室の中でも冷静でいられるし、すぐに鎮静室から出してもらえた。元の部屋に戻り、次の日に西村牧師が来るのだなと思い、その夜はぐっすりと眠ることができた。

次の日、西村牧師に事の次第を告げた。すると西村牧師はしみじみとした笑顔でこう返した。

「大天使長ガブリエルに会ったんですか……それは至高体験と言います。クリスチャンでもそういった体験をする人は少ないですね。それはもう確実に教会につながったと言ってもいいでしょう。あなたは無条件で許されました。本当のことを言うと、もう洗礼を受ける必要が無いと言えるかもしれませんが、あなたはまだ完全に罪を許された訳ではありません。聖書を読み、祈りながら、あなたの周りの受刑者の方々の為に、自分は何ができるかを考え、自分で実行してみてください」

金城は、素直に西村牧師の言うことを聞いていた。すぐに西村牧師に正直に返事をした。

「西村先生、俺できるだけのことをやってみます。出所したら教会にも行きます。先生、俺頑張るよ!」

西村牧師はニコッと笑い、金城にアドバイスを送った。

「相手を許してあげなさい、自分も許してあげなさい。それが愛です」

「今はここでできるだけのことをしてください。それでは私はこれから教会に戻りますから。神様の御加護がありますように」

そう言って二人は別れた。金城は拘置所の中でにこやかだった。あまりに明るい表情に、刑務官がどうしたのかと聞いてきたが、金城は何もありませんと言った。金城は神様を信じていた。その微笑みは、暗い拘置所で光る灯火だった。金城は半年で聖書を読み上げた。そして毎朝祈った。不思議と拘置所の仲間が金城に苦しみや悩みを相談してくる受刑者がポツリポツリと現れるようになった。金城はその悩みを親身になって聞いていた。聞いた後には辛かったですねと言って、慰めの言葉があったり肩を叩いたりしていた。金城には、ヤクザ時代のような悪の心はほとんど消えていた。と言うより視点が変わっていた。金城は良心に従って動いていた。いつしか模範受刑者として、刑が軽くなり、出所まであと一ヶ月という所だった。拘置所では「シャバ近」と言って出所間際の受刑者を陰湿にいじめる習慣があった。みんなで口裏を合わせたのだろうか、金城に棄教させようと企んでいた。ある年配の男性が金城に話しかけてきた。

「俺はな、人を三人も殺した。地方裁判所では死刑の判決が下った。しかもな、かみさんと、十六になる娘がいる。二人ともこれからどうやって行きていけばいいんだ?キリスト教徒になれば救われるか?言ってみろ」

金城は少し目をつぶり、黙った後こう答えた。

「全てを受け入れましょう」

男性は頭にきた様子で金城に怒鳴った。

「こんな状態で全てを受け入れろ?酷いもんだな、キリスト教徒は酷い人間だ。俺が死んで、家族も追われるんだぞ!」

金城は返した。

「あなたの罪は重すぎる。だけど、あの世に行くのが少し早いだけです。私もいずれ死にます。その時は天国で一緒にお酒でも飲みましょう。ご家族も、不幸にならないように私が毎日祈ります」

男性は少し落ち着いたいたようで、金城にこう言った。

「あんた、かなり楽天的だな。俺も天国に行けるのか?実はな、三人も殺したと言ったけど、仕方なくやったんだ。真冬の軽井沢で、家に襲撃事件があったんだ。その時に、猟銃を使って三人殺した。正当防衛とはならなくて、死刑判決が下った。俺に天国に行く権利はあるのか?」

金城は返した。

「それならなおさら天国に行けるでしょう。神様は全て見ていらっしゃいます」

男は涙ながらに家族の写真を金城に見せた。

「綺麗な奥さんとお嬢さんですね」

男は膝から地面に落ち、号泣し始めた。金城は男の背中をさすりながら、大丈夫ですよ、大丈夫ですよと慰めた。しばらくして男は金城と握手をして立ち上がり、有難う、有難うと涙ながらに言った後に、金城は涙ながらに男に言った。

「全てが報われますように」

「有難う。先に天国で待っているからな。一緒に酒を飲もう」

男は笑顔で手を振って立ち去った。

こうして出所までの間、いろんな受刑者が金城の所へ訪れ、憐れみや慰めを受け一緒に泣いた。出所間際に西村牧師が訪れた。金城は心良く西村牧師との面会に応じた。席に座り、金城が西村に話しかけた。金城は拘置所で起きたことを包み隠さず話した。すると西村牧師はそれは良かったと言って、ニコッと微笑んだ。

「牧師さん。俺、更生できたように思います。先生のおかげです。俺、出所したら教会に通います」

西村牧師は少し険しい顔つきで、金城に話した。

「失礼ですが、金城さんには身寄りもありませんし、まずは生活していくだけの稼ぎもありません。生活保護を受けるのもいいですが、しばらくはうちの教会に寝泊まりできる場所がありますので、そこで現実にこれからどうやって生きていくかを考えましょう。日本基督教団銀座教会と言います。場所と電話番号を書いたメモ書きを渡しておきますので、必ず来てください」

金城は、教会といった場所がどういう所なのか全くわからなかったので、緊張した。聖人君子の集まりで、自分なんか到底弾きものにされるのではないかと感じていた。心配だったので、西村牧師に尋ねてみた。

「西村先生、私みたいな人殺しが教会なんか行っていいんでしょうか?みなさん多分立派な方ばかりだと思うので、正直私は心配です」

西村牧師は微笑みを絶やさず金城に答えた。

「教会に来ているみなさんは、大抵の方はどん底まで落ちた方が多いです。みなさんどうしようもなくなってから来るんですよ。金城さんと同じ、助けてくださいと言って恐々、教会の門を叩くんです。だから、怖がらないで恐れないで、1からで分からないことも多いと思いますが、1からでいいんです。みんな最初は1からです。より良い人生が待ってますよ」

こうして金城は、釈放の日を迎えた。囚人服から私服に着せ替えられ、夏だったので半袖のシャツから刺青が露出していた。受刑者の人たちに心残りはあったが、天から後ろを振り向くなと言われた気がした。空は真夏の太陽でいっぱいだった。


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